「エレファンツの英雄」
怪物級のパワーで並み居る敵をなぎ倒し、驚異の身体能力による力技でゴールをこじ開けたフィジカルモンスター。またインテリジェンスにも優れ、オフ・ザ・ボールの動きで味方のチャンスを作るなど、硬軟兼ね備えたコートジボワールのストライカーが、ディディエ・ドログバ( Didier Yves Drogba Tébily )だ。
フランスのギャンガンで頭角を現したのが25歳の時と、遅咲きながらモウリーニョ監督に見込まれ04年にチェルシーへ移籍。たちまちその才能を爆発させて、2度のプレミアリーグ得点王を獲得する。チェルシーには通算9シーズン在籍し、リーグ優勝4回、FAカップ優勝4回、CL制覇1回など、エースFWとしてチームに多くのタイトルをもたらした。
コートジボワール代表でもその存在感を発揮し、大黒柱として “エレファンツ” を同国史上初となる06年のW杯出場に導く。その影響力はサッカー界に留まらず、彼の呼びかけで国内紛争を止めたこともあり、「コートジボワールの英雄」と敬愛された。
遅咲きのストライカー
ドログバは1978年3月11日、当時の首都だったアビジャンのヨプゴン・シコギ地区に生まれた。幼い頃からの愛称である「ティト」は、母親が尊敬するユーゴスラビアのチトー大統領に因んで付けられたものである。
両親とも銀行員として働き家庭の暮らしは安定していたが、国内の食料事情の悪さと、息子に高い教育を受けさせたいという親心から、5歳になったドログバはフランスに住む叔父ミシェル・ゴバ(母の兄)のもとに預けられた。
叔父ミシェルは、当時フランスの下部リーグでプレーするサッカー選手。ホームシックで悲しむドログバ少年の面倒を見ながら、所属するダンケルクの下部組織でサッカーを習わせる。
だがドログバのホームシックはいつまで経っても収まらず、彼が8歳になったとき故郷へ戻されることになった。コートジボワールに帰国したドログバは、毎日のように街角でサッカーを楽しんだ。
しかし彼が11歳を迎える頃、国内は深刻な経済危機に陥り、銀行員の両親も失職。ドログバは再びフランスの叔父のもとへ送り返された。13歳でヴァンヌのユースに入り、ここでポジションをサイドバックからFWへとコンバート。15歳になると母国に残っていた両親と兄弟が渡仏し、久しぶりに家族と再会。またこの頃、アマチュアクラブのルヴァロアSCと契約を結ぶ。
セミプロとしてプレーしたルヴァロアSCでは、2季連続の2桁ゴールを記録。19歳の時にリーグ・ドゥ(2部リーグ)のル・マンと晴れてプロ契約を結んだ。この地で大学に通い、会計学を学びながらサッカー選手としての成功を目指す。だがル・マンでは黒人差別に苦しみ、さらにたび重なる怪我の影響でほとんど活躍できないまま、4シーズンを過ごすことになる。
それでも01-02シーズンの後半戦までに21試合5ゴールの成績を残すと、その秘めたポテンシャルを期待されてシーズン途中にはリーグ・アンのギャガンへ移籍。24歳と遅まきながらのトップリーグデビューを果す。
残りシーズンで11試合に出場して3ゴールとやや振るわなかったが、コーチの指導のもと食習慣や生活態度を改善。するとドログバのパフォーマンスは飛躍的に向上し、02-03シーズンは34試合17ゴールの好成績。一気に注目されるストライカーとなり、03-04シーズンは名門マルセイユへの移籍となった。
移籍したマルセイユでは35試合19ゴールの大活躍。UEFAカップ(現EL)でも得点王となる6ゴールを挙げて準優勝に大きく貢献し、リーグ・アンの年間最優秀選手賞に輝く。
またチャンピオンズリーグへの出場も果し、グループステージでは大会を制覇することになるポルトと対戦。当時ポルトを率いていたモウリーニョ監督はドログバの才能に惚れ込み、翌04-05シーズンにチェルシーの指揮官へ就任すると、真っ先にこの大型ストライカーの獲得へと動いた。
戦争を止めたフットボーラー
“エレファンツ” の愛称を持つコートジボワール代表には02年7月に招集され、9月の南アフリカ戦で代表デビュー。翌03年11月のカメルーン戦で初ゴールを記録した。だがドログバは試合で帰郷するたび、南北の地域対立による内戦(02~11年)ですさんでいく母国の惨状に心を痛める。
04年6月から始まったW杯アフリカ予選にも主力として参加。92年のアフリカ・ネイションズカップ(AFCON)優勝以外これといった実績のなかったコートジボワールだが、この時はJMGアカデミー(フランス人ギウーが創設した育成組織)出身の気鋭を揃え、同国初となるW杯出場への期待は高まっていた。
グループ予選ではエトー擁する強豪カメルーンと同組。ドログバはエレファンツのエースとして攻撃を牽引し、9試合9ゴールの大活躍。そしてグループ最終節となる05年10月のスーダン戦で3-1と勝利して、ここまで首位だったカメルーンをかわしてのW杯初出場を決める。
W杯出場の立役者となったドログバは直後のインタビューで、「これでコートジボワール人が一致団結できる(ドログバは南部出身、一方の主力であるココとヤヤのトゥーレ兄弟は北部出身)ことを証明した。どうか対立する人たちはすべての武器を置いて下さい。そして選挙で争いを解決して下さい」と心に響くスピーチ。この熱いメッセージは1週間後の停戦合意に重要な役割を果した。
エレファッンツのエース
06年1月、エジプト開催のAFCONに出場。主将のドログバが率いるエレファンツは快進撃を続け、7大会ぶりとなる決勝へ進出する。ちなみに準々決勝のカメルーン戦では、勝負を決めるPK戦で誰ひとり失敗することなく、2順目に突入するという異例の事態。カメルーンは2度目(12人目)の登場となったエトーが失敗。そのあとドログバが2度目のPKを沈め、勝負を決している。
決勝の相手は地元エジプト。スコアレスのまま120分を終えた試合はPK戦にもつれ込み、今度は1人目のドログバが失敗。2-4の結果で2度目の優勝を逃してしまった。
06年6月、Wカップ・ドイツ大会が開幕。G/Lの第1戦はアルゼンチンのパスワークに翻弄され、前半のうちに2失点。終盤ドログバが気を吐いて1点を返すも、1-2と初戦を落とす。
続くオランダ戦も早々と2点を失い、ドログバを中心に反撃を試みるが、またも1-2と敗れてグループ敗退が決定。最終節のセルビア・モンテネグロ戦はドログバが累積警告で欠場となるも、最後の意地を見せて3-2の逆転勝利を収める。
「死の組」と呼ばれた苛酷なグループで、強豪の厚い壁を破れなかったコートジボワールだが、果敢な戦いぶりはこれからの可能性を感じさせるものだった。
04年7月、モウリーニョ監督からのラブコールを受けてプレミアリーグのチェルシーと契約。移籍1年目の04-05シーズンは、負傷による2ヶ月の戦線離脱で26試合10ゴールの成績に終わるも、ランパード、ジョー・コール、ロッベンらと構成する攻撃陣は迫力満点。クラブ初のプレミアリーグ優勝に貢献し、リーグカップのタイトルも得た。
翌05-06シーズンは、故障の影響が残りながらも29試合12ゴールの成績。最多アシストでリーグ連覇に大きな役割を果す。
そして3年目となる06-07シーズン、トップコンディションを取り戻して36試合20ゴールと爆発。驚異的な身体能力を活かしたスーパーゴールを連発し、初のプレミア得点王に輝く。新加入のシェフチェンコとバラックがチームにフィットせず、リーグ3連覇を逃してしまうが、ドログバの活躍でFAカップとリーグカップの2冠を達成。アフリカ年間最優秀選手賞にも選ばれる。
だが翌07-08シーズンは、オーナーであるアブラモビッチとの関係が悪化したモウリーニョ監督が、序盤戦で事実上の解任。ドログバはこの頃から他クラブへの移籍を口にするようになり、モチベーションの低下からか練習中に大怪我。長期離脱を余儀なくされて19試合9ゴールの成績に終わった。
それでもチャンピオンズリーグでは次第に調子を上げ、リバプールとの準決勝では貴重な決勝点を挙げてクラブ初となる決勝進出に貢献。決勝はマンチェスター・ユナイテッドとの試合になったが、1-1で進んだ延長後半の116分、DFヴィディッチを平手打ちしたドログバが一発退場。
このあと試合はPK戦にもつれ込むも、ドログバの代役として5人目のキッカーを務めたテリーが足を滑らせ失敗。そしてサドンデスの7人目、アネルカのシュートがファン デルサールに止められ、チェルシー悲願のビックタイトル獲得はならなかった。
08-09シーズンはフェリペ・スコラーリ監督のもとで先発の機会が減り、24試合5ゴールの成績。エースの座を19ゴールで得点王となったアネルカに譲ることになった。
だが09-10シーズンにカルロ・アンチェロッテイが監督に就任すると、老練な指揮官の手腕で鮮やかな復活。32試合29ゴールの活躍で2度目の得点王となり、22ゴールのランパードとともにチームの攻撃を牽引。チェルシーを4季ぶりのプレミア優勝とFAカップ連覇に導き、2度目のアフリカ年間最優秀選手賞に輝く。
無念のW杯敗退
コートジボワール代表はドログバやトゥーレ兄弟などアフリカ随一の陣容を揃え、08年6月から始まったW杯アフリカ予選では、12戦(2次と最終)8勝4分け無敗の圧倒的強さで2大会連続の出場を決める。
10年1月にアンゴラで開催されたAFCONでも優勝候補の筆頭と目されたが、準々決勝でアルジェリアに敗れてベスト8止まり。チームをまとめられなかったハリルホジッチ監督は解任となり、W杯開幕を半年後に控えてエリクソン監督(元イングランド代表監督)への指揮官交代となった。
初のW杯ベスト16進出を狙うエレファンツだが、またもブラジル、ポルトガルの強豪が同居する「死の組」に入ってしまい、さらに大会11日前に行なわれた日本とのテストマッチでは、ドログバがマルクス闘莉王と交錯して右肘を骨折。エースのW杯出場は絶望視された。
10年6月、Wカップ南アフリカ大会が開幕。G/L初戦はC・ロナウド擁するポルトガルとの対戦だった。試合は中盤で主導権を奪い合う激しい戦いとなり、0-0で進んだ後半の66分、カルーに代わってドログバが強行出場。だがこれといった見せ場もつくれず、スコアレスの引き分けに終わる。
続くブラジル戦はドログバが先発に復帰。たちまち3点を奪われ敗色濃厚となったコートジボワールだが、終盤の79分にヤヤ・トゥーレのクロスからドログバが頭で合わせてゴール。3-1と破れたものの、手負いのエースの得点で一矢を報いた。
グループ突破にわずかな可能性を残した最終節は、北朝鮮に3-0の勝利。だが結局ブラジルとポルトガルの2強に届かず、エレファンツはまたも「死の組」の壁に跳ね返されてしまう。
CL初優勝の立役者
11-12シーズン、チェルシーは2季ぶりとなるFAカップのタイトルを得たものの、リーグ戦では低迷して過去10年間で最低の6位に沈んだ。24試合5ゴールと成績の振るわなかったドログバも、契約満了となるシーズン限りの退団を発表する。
しかしCLでは、復調したドログバの活躍でグループステージを1位突破。決勝トーナメントから指揮を執ったディ・マッティオ暫定監督のもとでチームは立て直し、準決勝ではドログバの先制点が効いて前年王者のバルセロナを撃破。4季ぶりとなる決勝への進出を果した。
決勝の相手はバイエルン・ミュンヘン。奇しくもバイエルンの本拠地、アリアンツ・アレーナでCLファイナルが行なわれ、チェルシーは超アウェーのハンデを強いられる。
試合は地元バイエルンが圧倒的にボールを支配。チェルシーは徹底して守りを固め、カウンターによるチャンスを窺うも、前半はほとんど相手ゴールを脅かすことが出来なかった。
後半も同じような展開が続き膠着状態となるが、終盤の83分、クロースのクロスからミュラーがヘッドで叩きつけて先制点。観客席を埋めたバイエルン・サポーターたちは、もう優勝が決まったかのように大喜びした。
だがバイエルンが守備固めに入った88分、この試合チェルシーが初めてCKのチャンスを獲得。そしてマタの蹴った右CKを、ドログバが頭で叩き込んで起死回生の同点弾。チェルシーが数少ないチャンスをモノにして延長戦に持ち込む。
延長93分にはドログバがリベリーを倒してPKを与えてしまうが、ロッベンのキックを守護神チェフが止めて事なきを得る。試合はこのまま120分を終えても決着はつかず、勝負の行方はPK戦へ託された。
先攻のバイエルンは3人目までが成功。チェルシーは1人目のマタが外し追い込まれてしまうが、チェフがバイエルン4人目のオリッチ、5人目シュバインシュタイガーのキックをナイスセーブ。このあと5人目として登場したドログバが落ち着いてGKノイアーの逆を突き、ついに戦いの終止符を打った。
こうしてチェルシーが悲願のCL初優勝。決勝のマン・オブ・ザ・マッチに輝いたドログバは、ビッグイアー獲得を置き土産にして8シーズンを過ごしたクラブを跡にした。
12-13シーズンは高額年俸で中国の上海申花に迎えられるも、給料未払いのトラブルにより半年で契約解除。13年1月にはトルコのガラタサライに移籍する。
最後のW杯
ドログバを初めとする主力に衰えの見えてきたコートジボワール代表だが、W杯アフリカ予選を危なげなく勝ち抜いて3大会連続の出場を決める。
14年6月、Wカップ・ブラジル大会が開幕。初戦となった日本戦では、36歳とスタミナに不安の残るドログバがベンチで出番を待った。コートジボワールは本田圭祐のゴールで先制を許すと、後半の62分に切り札のドログバを投入。すると風格を漂わすカリスマの登場は日本を浮き足立たせ、得意のポストプレーから64分には同点。その2分後にも決勝点が生まれ、2-1の逆転勝利を収める。
続くコロンビア戦も後半60分からの起用となったが、ハメス・ロドリゲスの輝きの前に1-2の敗戦。初のグループ突破を懸ける最終節のギリシャ戦は、ドログバが先発メンバーに名を連ねた。
試合は前半42分にギリシャの先制を許すも、後半74分に同点とする。このまま引き分けても突破が濃厚のコートジボワールは、78分にドログバを下げて守備的MFのディオマンドを投入。そしていよいよ終了時間を迎え、念願のベスト16進出となるかに思えたが、アディショナルタイムの1分に相手FWを倒して痛恨のPK献上。土壇場で1-2の敗戦を喫し、またもやG/L敗退となってしまった。
W杯終了後の8月、ドログバは代表からの引退を発表。13年間の代表歴で104試合に出場し、歴代最多となる65ゴールの記録を残した。
引退後の活動
再びチェルシーの指揮官となったモウリーニョ監督に呼ばれて、14年7月に古巣への復帰を果すも、年齢の限界を感じて1シーズンで退団。そのあとMLSのモントリオール・インパクト、USLチャンピオンシップ(北米2部リーグ)でのプレーを経て、18年11月に40歳で現役を引退する。
引退後の22年にはコートジボワール・サッカー連盟の会長選に立候補するが、僅差で落選。現在は07年に任命された国連親善大使として、アフリカ各国で慈善活動と平和に関する活動を行なっている。