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サッカーの歴史や人物について

《サッカー人物伝》ヴォルフガング・オベラート(西ドイツ)

 

「左足の芸術家」 

左足一本から繰り出される多彩なパスを駆使し、幅広い動きで攻撃をリードしたゲームメーカー。またミドルシュートを得意とし、たびたび鮮やかなゴールを決めた。ピッチ上で旋律を奏でる繊細なプレーで、「デア・シュバッテ(芸術家)」と呼ばれたのが、ヴォルフガング・オべラート( Wolfgang Overath )だ。

 

西ドイツ代表では、ベッケンバウアーとともに中心的役割を担って66年W杯準優勝、70年W杯ベスト3、74年W杯優勝に貢献。自国開催となった74年の大会では、2年前の欧州選手権で優勝の立役者となったギュンター・ネッツァーとのポジション争いが注目されたが、ライバルに競り勝って7試合すべてに先発出場した。

 

キャリアのほとんどを1.FCケルンで貫き、常にチームの中心としてプレー。長きにわたってキャプテンも務め、ブンデスリーガ優勝1回、DFBポカール(ドイツ杯)制覇2回に貢献。公式戦出場549試合は現在でもクラブの最多記録を保持している。

 

左利きのゲームメイカ

オベラートは第二次世界大戦中の1943年9月29日、ライン川の支流にあるヴェストファーレンジークブルグに9人兄弟の末っ子として生まれた。

戦火により荒廃した町で幼少期を過ごすという困難な時期を経て、9歳となった53年に地元クラブSSVジークブルク04に入団。翌54年のW杯スイス大会で、「ドイツサッカーの父」ゼップ・ヘルベルガー監督に率いられた西ドイツ代表が奇跡の初優勝を果すと、オベラートはますますサッカーへ情熱を傾けていくようになる。

その才能は早くから関係者に知られるところとなり、14歳で西ドイツ・アンダー代表のメンバーに選出。61年にはポルトガルで開催されたUEFAジュニアトーナメントに参加し、大会3位に貢献している。

このときユースの監督としてオベラートの成長を助けたのが、ヘルベルガー門下のデットマール・クラマー、ヘルムート・シェーン、カール=ハインツ・ヘッダーゴッドといった名指導者たちだった。

若くして注目される存在となったオベラートは、レバークーゼンボルシア・ドルトムントといった有名クラブから誘いを受ける中、前年ドイツ選手権を制した強豪1.FCケルン(エアスター・エフツェー・ケルン)と63年に契約。同年8月24日、初の全国リーグとして新設されたブンデスリーガ開幕戦で先発デビューを果し、初ゴールを記録して2-0の勝利に貢献する。

さらに開幕から3試合連続ゴールを決めるなど、早くも1年目からチームの主力となり、30試合9得点の活躍。1.FCケルンブンデスリーガ初代チャンピオン就任に大きく貢献している。

最初はトップの位置を務めたが、秀でた技術と戦術眼でゲームメーカーを任されるようになるまで時間はかからなかった。プレーのほとんどは左足で行なわれ、ピッチにアートを描くような繊細な組み立てで「左足の芸術家」と呼ばれた。

 

ベッケンバウアー登場

ブンデスリーガが開幕した1ヶ月後、ヘルベルガー監督によって西ドイツ代表に招集されたオベラートは、9月28日のトルコ戦で初キャップを刻んだ。20歳の誕生日を迎える1日前の代表デビューだった。

64年6月にはユース代表時代の指導者、ヘルムート・シェーンが西ドイツ代表監督に就任。アシスタントコーチには、日本から戻ったばかりのクラマーが務めた。

新監督に代わってからのフィンランド戦で初ゴールを決めたオベラートは、代表レギュラーに定着。11月より始まったW杯予選でゲームメークを任され、4大会連続出場決定に貢献。初の大舞台となるワールドカップに臨むことになった。このとき、オベラートより2年若いチーム最年少としてW杯メンバーに選ばれたのが、当時21歳のフランツ・ベッケンバウアーである。

66年7月、Wカップイングランド大会が開幕。G/L初戦はオベラートとともにMFとして出場したベッケンバウアーが、いきなり2ゴールを挙げる鮮烈デビュー。スイスを5-0と粉砕した。第2戦はアルゼンチンと0-0で引き分け、第3戦はスペインに2-1の逆転勝利。西ドイツはグループ1位でベスト8に進んだ。

準々決勝の相手は南米の古豪ウルグアイ。開始11分にハーラーのゴールで先制すると、試合は荒れ気味となりアルゼンチンの2人が退場処分。俄然有利となった西ドイツは後半ベッケンバウアーのゴールなどで3点を追加し、4-0の圧勝を収める。

準決勝はソ連と対戦。開始早々、ファールを仕掛けたソ連ディフェンダーが反対に怪我を負って退場。当時は選手交代が認められていなかったため、西ドイツは早くも優位に立った。前半の44分にハーラーが名手レフ・ヤシンを破って先制。68分にはベッケンバウアーが追加点を挙げ、ソ連の反撃を1点に抑えて2-1の勝利。3大会ぶりとなる決勝へ進出した。

 

ウェンブリー・スタジアムの激闘

ウェンブリー・スタジアムで行なわれた決勝の相手は、開催国イングランド。シェーン監督はベッケンバウアーボビー・チャールトンをマークさせ、イングランドの攻撃を抑えにかかった。

前半12分、好調ハーラーがイングランドの守護神ゴードン・バンクスを破って西ドイツが先制。しかしその6分後にボビー・ムーアのセットプレーからハーストの同点弾を許してしまう。

ゲームが終盤に入った78分、ハーストが放ったシュートのこぼれ球をピーターズが決めてイングランドが勝ち越し。ウェンブリー・スタジアムに集まった英国国民は誰もが母国の優勝を確信した。

だが試合終了の1分前、エメリッヒの蹴ったFKがイングランドの壁に弾かれるも、ボールは走り込んできたヘルトの目の前に転がり、跳ね返されたシュートをDFウェーバが拾って同点ゴール。西ドイツが執念で延長戦に持ち込んだ。

意気上がる西ドイツだが、延長前半の11分、イングランドFWアラン・ポールからの折り返しをハーストが右足シュート。クロスバーを叩いたボールは真下に落下し、これがゴールラインを割ったと認められてイングランドがリードする。

延長後半終了直前にも、W杯決勝初となるハーストのハットトリックを許し、西ドイツが2-4の敗戦。「疑惑のゴール」に阻まれ3大会ぶりの優勝はならなかった。準優勝の西ドイツでは新星ベッケンバウアーが注目を浴びたが、彼の活躍を支えたのはオベラートとの連携だった。

 

二人のゲームメーカー

若くして西ドイツを代表するゲームメイカーとなったオベラートには、毎年のように国内外のクラブからオファーが舞い込むが、それに見向きもせず1.FCケルンひとすじであり続けた。

チームは67-98シーズンにDFBポカールを初制覇するも、リーグ戦では60年代後半から台頭してきた新興2大勢力、バイエルン・ミュンヘンボルシア・メンヘングラッドバッハの後塵を拝するようになる。

そのボルシアMGの中心選手として代表でも頭角を現してきたのが、オベラートのライバル、ギュンター・ネッツァーである。

ネッツァーはオベラートより1つ年下。丹念にボールを繋いでゲームを組み立てるスタイルのオベラートに対し、ネッツァーは戦況を一変させる精度の高い右足ロングキック「センチメーターパス」を武器とし、FKの名手でもあった。

シェーン監督は優れた能力を持つゲームメーカー二人の共存を試み、67年には西ドイツが初めて参加した欧州選手権予選のアルバニア戦でオベラートとネッツァーを同時起用する。

しかし役割分担が不明瞭だった司令塔の共演は、味方を戸惑わせるだけで機能せず。ベッケンバウアーゲルト・ミュラーら主力を温存した西ドイツは、小国アルバニアを相手に痛恨のスコアレスドロー欧州選手権・決勝大会への出場を逃してしまう。これ以降、二人が同時に代表のピッチへ立つことは無くなった。

 

メキシコ大会での輝き

70年5月31日、Wカップ・メキシコ大会が開幕。ネッツァーもW杯メンバーに選ばれていたが、直前の怪我で代表を外れていた。

西ドイツはG/Lを余裕の3連勝で勝ち上がり、準々決勝では前回ファイナルからの顔合わせとなったイングランドと対戦。後半途中まで2点のリードを許してしまうが、68分にベッケンバウアーのゴールが生まれて1点差。76分には主将ゼーラーのバックヘッドが決まって同点に追いつく。

試合は延長に突入。その後半の108分、ミュラーが強烈なボレーで決勝弾を叩き出し、西ドイツが前回の雪辱を果す3-2の逆転勝利。オベラートは素晴らしいゲームメークでチームの攻撃を支え、鮮やかな逆転劇を演出した。

準決勝の相手はイタリア。前半8分にボニンセーニャのゴールで先制されると、イタリアお家芸カテナチオ戦術で反撃を封じられ、1点ビハインドのまま終盤戦へと進んだ。西ドイツは2人の交代枠(メキシコ大会から採用)を使いきって状況打開を図るも、ベッケンバウアーがファールを受けて右肩を脱臼。包帯で片腕を吊って残り時間を闘わざるを得なくなった。

このあとオベラートが中心となってイタリアゴールを狙い、西ドイツが敗色濃厚となったロスタイムの93分、グラボウスキーからのクロスをベテランのシュネリンガーが決めて起死回生の同点弾。2試合連続の延長戦に持ち込む。

延長戦は一転して点の取り合いとなり、ミュラーのゴールで3-3となった直後の111分、ボニンセーニャのクロスに走り込んだジャンニ・リベラが激戦にケリをつける決勝点。西ドイツ驚異の粘りも及ばず準決勝敗退となった。これがW杯史上名高い「アステカの死闘」である。

このあと行なわれた3位決定戦では、オベラートが得意の左足でゴールを決めてウルグアイに1-0の勝利。西ドイツの優勝はならなかったが、キャリア最高の輝きを見せたオベラートは、ベッケンバウアーや得点王のミュラーとともに大会ベストイレブンに選ばれた。

 

ギュンター・ネッツァーの活躍

西ドイツは、72年の欧州選手権予選でイングランドを敵地ウェンブリー・スタジアムで3-1と撃破し、初となる決勝大会(4ヶ国によるトーナメント)への出場を果す。この歴史的勝利の立役者は、負傷欠場したオベラートに代わってゲームメイカーを務め、自らもPKを決めたネッツァーだった。

そして準決勝では開催国ベルギーを2-1と退け、決勝はソ連に3-0と完勝。西ドイツが初めて欧州選手権を制した。ネッツァーは精度の高いロングパスで攻撃を活性化させ、ときに高速ドリブルで斬り込んで相手を翻弄。西ドイツ初優勝の原動力となった。

同年には国内最優秀選手に選出。さらに翌73年には、スペインの名門レアル・マドリードへの移籍を果す。ネッツァーの型にはまらないユニークな個性も注目を集め、若者からのアイドル的人気を博すようになっていった。

 

3度目のワールドカップ

74年6月、自国開催となるWカップ・西ドイツ大会が開幕。オベラートとネッツァーのポジション争いが注目されたが、スペインリーグを終えたばかりのネッツァーが調整不足だったこともあり、シェーン監督はより堅実なオベラートを起用した。

1次リーグ初戦はパウル・ブライトナーの得点でチリに1-0の勝利、第2戦はオベラートの先制点などで格下オーストラリアを3-0と下す。しかしオベラートのプレーに4年前ほどのキレはなく、大会ボーナスを巡って内紛が勃発していたチームもまとまりを欠いていた。

第3戦の相手は東ドイツ、最初にして唯一となる東西対決だった。西ドイツは守備を固める相手を攻めあぐね、試合は前半を折り返して0-0。ハーフタイムには観客席から「ネッツァー、ネッツァー」と交代を促すコールが湧き上がった。

膠着状態が続いた69分、シェーン監督はオベラートに代えてネッツァーを投入。だがその8分後、東ドイツの一発カウンターを喰らって失点。このまま逃げ切りを許し痛恨の敗戦を喫してしまう。西ドイツはグループ2位で2次リーグに進むことになったが、この敗戦は単なる黒星に留まらない衝撃をチームに与えた。

これで危機感が高まった選手たちは結束し、2次リーグ以降はベッケンバウアーがイニシアチブを握って戦術を練り直す。構想外となったネッツァーは、1試合20分をプレーしただけでベンチから外されることになった。

 

代表のために生まれた男

2次リーグではベッケンバウアーの助言により、ライナー・ボンホフら2人の若手を抜擢。活発な働きで攻守にからむボンホフは、中盤の軸であるオベラートをサポートした。

こうして西ドイツは本来の勢いを取り戻し、ユーゴスラビアに2-0、スウェーデンに4-2、難敵ポーランドにも1-0と3戦全勝。2次リーグ1位で決勝へ進出する。オベラートはスウェーデン戦で先制点を決め、決勝進出に貢献している。

決勝は大会に「オレンジ旋風」を巻き起こしたオランダとの戦い。開始直後にPエリアへ侵入したクライフをフォクツが倒してPKを献上。これをニースケンスに決められ早くもリードを許してしまう。

だが25分に今度は西ドイツがPKを獲得。これをブライトナーが沈めて同点とする。そして前半終了直前の43分、ボンホフからのクロスをミュラーが反転シュートで叩き込んで逆転。後半オランダの反撃を凌いだ西ドイツが、5大会ぶり2度目の優勝を自国で飾った。

観客席でライバルの偉業を見届けたネッツァーは、W杯に縁の無かった自分と比し「オベラートは代表のために生まれたのだ」と諦観したように語った。

実のところ二人はライバルであると共に親友同士であり、ポジション争いの重圧に苦しんだオベラートは、W杯を前に代表辞退を考えたことさえあったという。

栄冠を手にしたオベラートは決勝のオランダ戦を最後に30歳で代表を引退。12年間の代表歴で81試合に出場、17ゴールの記録を残した。

 

1.FCケルンのレジェンド

76-77シーズンは2度目となるDFBポカールのタイトルを獲得するも、かつてボルシアMGを強豪に育てたへネス・バイスバイラー監督と対立し、77年5月に1.FCケルンを退団する。

オベラートにはベッケンバウアーやペレもプレーする北米サッカーリーグからの誘いがかかるが、それを断り余力を残したまま33歳で現役を引退。14シーズンを過ごした1.FCケルンでは公式戦549試合に出場、118ゴールを挙げた。

引退後はビジネスマンとして活動するほか、スポーツ用品メーカー・アディダスの役員として働く。91年からは1.FCケルンの取締役に就任。04年から11年にかけてクラブの会長を務めた。