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サッカーの歴史や人物について

《サッカー人物伝》サルヴァトーレ・スキラッチ(イタリア)

 

トト・ザ・ヒーロー

身長はそれほど高くはないが、がっちりした体格を活かして泥臭くゴール前へ飛び込み、隙あらばシュートを狙った。点取り屋としての鋭い感覚を持ち、ゴールへの執念とタイミング良く抜け出してからの素早いシュートで得点を重ねたイタリアのストライカーが、サルヴァトーレ・スキラッチ( Salvatore Schillaci )だ。

 

自国開催の90年W杯では、ベンチスタートからチャンスを得てレギュラーに定着。貴重な得点を重ねて準決勝進出に貢献し、「トト(救世主)」の愛称で呼ばれた。マラドーナのアルゼンチンに敗れて惜しくも決勝へ進めなかったが、6ゴールの活躍で大会を盛り上げ、得点王とゴールデンボール(大会MVP)に輝く。

 

下部リーグのメッシーナで長い下積み生活を送ったあと、88-89シーズンに23得点を挙げてセリエB得点王。この活躍により名門ユベントスに引き抜かれ、89-90シーズンのUEFAカップ(現EL)優勝とコッパ・イタリア制覇に貢献する。その後インテル・ミラノを経て、94年にはJリーグジュビロ磐田に移籍。95年シーズンは福田正博と得点王を争っている。

 

貧困の少年時代

スキラッチは1964年12月1日、シチリア島最大の都市パレルモでレンガ職人の息子として生まれた。彼がたくさんの兄弟とともに育ったのは、低所得者層が暮らす労働者居住区。周りの子供たちと同様に貧しい少年時代を過ごした。またこの地域はシシリアン・マフィアが闊歩するという、治安の悪い場所でもあった。

近くにはサッカーができるような広場も公園もなく、スキラッチは路地の狭いスペースで仲間たちとボールを蹴ってスキルを身につけた。やがて地元クラブのAMTMパレルモに加わり、タイヤ修理の仕事で家計を支えながら、チームの練習に励む毎日を送る。

学校と仕事を終えてからの練習はきついものだったが、どん底の生活から抜け出すためにプロを目指し、疲れた体を奮い立たせてボールに食らいついた。スキラッチはこうして点取り屋としての才能に磨きをかけていく。

17歳の時に出場したユース大会では、一人で1試合11得点を叩き出すという快挙。18歳となった82年には、ユース通算75ゴールを記録した活躍が認められ、セリエC2(4部リーグ)に所属するシチリア南部のクラブ、ACRメッシーナとプロ契約を交わす。

 

ストライカー覚醒

メッシーナは82-83シーズンにセリエC1へ昇格するも、スキラッチは伸び悩んでの下積み時代を送る。入団4年目の85-86シーズン、31試合11ゴールの活躍でセリエB昇格に貢献。ようやくメッシーナのサポーターに認められるストライカーとなった。

しかし初めてのセリエBとなった86-87シーズン、半月板損傷の影響でパフォーマンスを落とし、33試合に出場しながらわずか3ゴールと低迷。それでも彼の才能を信じていたフランコ・スコリオ監督に起用され続け、翌87-88シーズンは37試合13ゴールと、チームの1/3の得点を挙げる活躍で復活を遂げる。

これでストライカーとして覚醒したスキラッチは、88-89シーズンには35試合23ゴールと大活躍。チーム総得点の半分に当たるゴールを挙げ、セリエB得点王を獲得した。

この活躍がトップリーグからの注目を浴び、89-90シーズンには7年を過ごしたメッシーナを離れて強豪クラブのユベントスへ移籍。スキラッチは25歳にして、念願だったセリエAの舞台に立つことになった。

しかし無名選手だったスキラッチ獲得に支払われた移籍金は、50万ユーロ(約7千万)と格安の金額。同時期に加入した20歳のカジラギには倍の移籍金が支払われており、決して期待されての移籍ではなかった。

それでもスキラッチの鋭い眼光を見たディノ・ゾフ監督は、無名のストライカーを先発に抜擢。89年8月のボローニャ戦でセリエAデビューを果すと、最終的にはリーグ30試合に出場してチーム最多の15得点を記録する。

またコッパ・イタリアでは8試合2ゴール、UEFAカップでは12試合4ゴールと中心的役割を果し、2冠獲得に大きく貢献。スキラッチセリエAでたちまちブレイクを果した。そして大事な場面で決まる彼の得点は、「トト・ゴール」と名付けられた。

 

救世主スキラッチ

ユベントスでの活躍が認められ、90年3月に行なわれた親善試合のスイス戦でイタリアA代表(過去1試合だけB代表の試合に出場)デビュー。1-0の勝利に貢献する。

苦労人のスキラッチは26歳の年齢より老けて見え、前年代表入りしたロベルト・バッジオに比べると遙かに地味な存在。国際経験もまだ2試合と少なく、アゼリオ・ビチーニ監督によって自国開催のW杯メンバー22人のうちに選ばれたときは、関係者を大いに驚かせた。ビチーニ監督は、スキラッチの巧妙で独創的な攻撃スタイルを評価したのだ。

90年6月、Wカップ・イタリア大会が開幕。G/L最初のオーストリア戦は、R・バッジオとともにベンチスタートとなった。

GKゼンガ、バレージ、ベルゴミ、マルディーニで築く守備陣は鉄壁。相手につけいる隙を与えなかった。だがイタリア得意のカウンター攻撃がいまひとつはまらず、オーストリアのゴールを割れない。

ゲームが膠着状態となった後半の75分、ビチーニ監督はFWカルネバーレに代えてスキラッチを投入。そのわずか3分後、ヴィアリの入れたクロスをスキラッチが頭で叩き込んで決勝点。代表初ゴールを大舞台での劇的弾で飾った。

続くアメリカ戦も苦戦しながらジャンニーニのゴールで1-0の勝利。後半51分にカルネバーレと交代してピッチに登場したスキラッチは、得点こそなかったが素晴らしい働きを見せた。

最終節のチェコスロバキア戦は、精彩を欠くヴィアリとカルネバーレに代わってスキラッチバッジオが初先発を果す。開始9分、ジャンニーニのクロスにスキラッチがヘッドで合わせて先制。そのあと攻めながらも決定機を逃し続けるが、終盤の78分にバッジオチェコの守備網を切り裂くスーパードリブルで追加点。イタリアは2-0の快勝を収め、3連勝の立役者となったスキラッチはレギュラーの座を得る。

決勝トーナメントの1回戦は、スキラッチの先制弾などでウルグアイに2-0の勝利。準々決勝もスキラッチが貴重な決勝点を挙げ、難敵アイルランドを1-0と打ち破りベスト4に進んだ。

まさに82年スペイン大会でイタリアを優勝に導いた「神の子」、パオロ・ロッシを思わせるスキラッチの活躍。イタリア国民は期待をこめて彼を「トト・スキラッチ」と呼んだ。

 

一躍世界に知られるヒーローへ

準決勝は前回王者アルゼンチンとの対戦。会場となったのは、マラドーナが君臨するナポリのホームスタジアム(彼の死後、スタディオ・ディエゴ・アルマンドマラドーナに改称)だった。イタリア有利とされながらもマラドーナの扇動的発言が波紋を呼び、勝負の行方が注目された。

FWには、バッジオに代わりヴィアリが4試合ぶりの先発へ復帰。前半17分、ヴィアリのシュートがGKゴイゴチェアに跳ね返されたところを、スキラッチが素早く押し込んで先制。後半イタリアは守備を固め得意の逃げ切りにかかった。

だが67分、マラドーナの展開からアルゼンチンにチャンスが生まれ、オラルティコエチェアの折り返しをカニーヒアがヘッドで決めて同点。堅守を誇ったイタリアの今大会初失点だった。試合は延長に突入するも、暑さと連戦の疲れで両チーム攻め手を欠き1-1で終了。勝負はPK戦へ持ち込まれた。

双方の3人目までが成功させたあと、イタリア4人目ドナドーニのキックはゴイゴチェアの好守に阻まれ失敗。そして5人目セレーナも、ゴイゴチェア再びのナイスセーブに止められ万事休す。イタリア地元優勝の夢はあえなく潰えた。スキラッチは脚の筋肉を痛めたことを理由にPK戦を辞退している。

3位決定戦はイングランドとの顔合わせ。0-0で折り返した後半の71分、スキラッチとのワンツーからバッジオが先制弾。81分に追いつかれるも、その5分後にスキラッチが倒されPKを獲得。スキラッチはPKを不得手とし、ほとんどキッカーを務めたことが無かったが、バッジオから譲られたボールを見事に沈めて決勝点。イタリアは3位で開催国の面目を保った。

このPKにより大会6得点としたスキラッチは、同スコアで並んでいたトマーシュ・スクラビー(チェコスロバキア)をかわして単独得点王。さらに優勝西ドイツのマテウス、準優勝アルゼンチンのマラドーナを差し置いて、ゴールデンボール(MVP)にも選ばれる。バロンドールではマテウスに続く2位となり、1年前までまったく無名だった選手が一躍世界のヒーローとなった。

 

栄光からの転落

90-91シーズン、R・バッジオユベントスに加入。W杯で披露したような、スキラッチとの息の合ったコンビネーションが期待された。しかしバッジオが期待通りに躍動したのに対し、スキラッチの成績は29試合5ゴールと低迷した。

さらに試合中に挑発された相手選手を「撃ってやる」と脅して物議を醸したり、友人関係を結んだバッジオの軽口に怒ってロッカールームで彼を殴打する事件(二人はすぐに和解した)を起こしたりと、プレー以外のことでも評価を下げてしまう。

こうした乱暴な言動により、スキラッチシチリア島出身者という差別的な罵声を浴びせられるようになる。南北経済格差の問題を抱えたイタリアでシチリアは偏見の対象となっており、またマフィア発祥の地という印象の悪さもあったのだ。

スキラッチにはもう1年の猶予を与えられたが、翌91-92シーズンも31試合6ゴールと期待外れの結果。シーズン終盤にヴィアリのユベントス加入が決まると、押し出される形となったスキラッチビアンコネロの退団を決意。トリノのライバルチームからのオファーを受け、インテル・ミラノへ移籍する。

イタリア代表ではユーロ予選に参加するが、アズーリでもクラブ同様に不調が続き、レギュラーの座を失ってしまう。91年9月に途中出場したブルガリア戦を最後に代表へ呼ばれなくなり、スキラッチアズーリは一瞬の輝きで終わった。2年の代表歴で16キャップ、7得点の記録を残している。

 

ジュビロ磐田のイタリア人選手

ネラズーリでの再スタートを誓い、92-93シーズンは開幕3連続ゴールと好調な出足を見せたスキラッチだが、11月に怪我を負って戦線離脱。その後も故障に苦しむようになり、結局21試合6ゴールの不本意な成績に終わってしまう。

翌93-94シーズンもパフォーマンスは戻らず、アヤックスから移籍してきたベルカンプにポジションを奪われたこともあり出番は激減。出場わずか9試合で5ゴールを挙げたのみだった。

すでにキャリアの下り坂にあることを自覚したスキラッチは、ジュビロ磐田から好条件を提示されて日本行きを決断。この時インテルUEFAカップで勝ち進んで(結果は優勝)いたが、スキラッチは予定を半年早めてイタリアを離れ、94年4月にイタリア人選手として初めてJリーグの舞台に立った。

Jリーグデビューとなったヴェルディ川崎戦では、さっそく1ゴール(PKによるもの)1アシストを記録して2-0の勝利に貢献。W杯得点王の貫禄を見せた。ナビスコカップ(現ルヴァンカップ)でも4試合5得点の大活躍、ジュビロを初の決勝(ヴェルディに0-2と負けて準優勝)に導く。

翌95シーズンは怪我から復帰した中山と強力2トップを組み、さらにその真価を発揮。ドゥンガファネンブルグ、藤田、名波、服部と充実した中盤に支えられ、ファーストステージの柏レイソル戦でハットトリックを記録するなど得点を量産する。

故障がちで欠場が多かったのにもかかわらず、34試合31ゴールと驚異の決定力を見せつけ、セカンドステージの終盤まで得点王争いのトップをキープした。しかしセカンドステージ第20節を最後に戦線離脱。浦和レッズ福田正博に最終26節で逆転(50試合32得点、うちPK14)を許し、惜しくも得点王を逃してしまう。

翌96シーズンは持病の腰痛に苦しみ、出場は23試合と減少。それでも15ゴールを挙げて変わらぬ決定力を見せた。不得手なPKを蹴ることは少なかったが、「チームの勝利より、得点を決めることが自分の仕事」とゴールへの執念を隠さなかったという。

97シーズンは開幕序盤のセレッソ大阪戦でゴールを決めるが、以降腰痛を悪化させてイタリアに帰国。そのまま32歳で現役を引退する。スキラッチはのちに「イタリアではときに行儀の悪い観客もいたが、日本は自分に敬意を払ってくれた」と語っている。

引退後は故郷のパレルモでサッカースクール「ルイ・リボッラ」を開設。01年には市議会議員に立候補して当選するが、自分に合わないと悟り2年で辞任している。その後はアマチュアクラブの運営に携わるほか、テレビタレントとしても活動している。