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サッカーの歴史や人物について

《サッカー人物伝》ムスタファ・ハッジ(モロッコ)

 

「ロレーヌの真珠」 

卓越した戦術眼を持ち、相手の意表を突くスルーパスを持ち味としたモロッコのゲームメーカー。破壊力のあるドリブル、優れたパスセンス、芸術的なシュートと、技の切れ味はどれを取っても一級品。そのヨーロッパナイズされたエレガントなプレーから、「ロレーヌの真珠」の異名を持つのが、ムスタファ・ハッジ( Mustapha Hadji )だ。

 

ロッコ生まれのフランス育ち。本格的にサッカーを始めたのは15歳と遅かったが、それからわずか6年後にディヴィジョン・ドゥのASナンシーでプロデビュー。そのあとポルトガル、スペイン、イングランド、ドイツと欧州の各クラブを渡り歩いて実績を残した。

 

U-21フランス代表にも選ばれていたが、アメリカW杯を目指すモロッコ代表からの要請を受けてザンビアとの予選最終戦に登場。「マン・オブ・ザ・マッチ」に選ばれる活躍で母国をW杯出場に導いた。98年にはアフリカ選手権とフランスW杯で挙げた2つの鮮やかなゴールが評価され、アフリカ年間最優秀選手に選ばれている。

 

ロッコから来た「ロレーヌの真珠」

ムスタファ・ハッジは1971年11月16日、標高1800㍍にあるモロッコ山岳地帯の町イフランに生まれた。ちなみにイスラム圏でよく見かける “ハッジ” という名前は、「巡礼者」の意味である。

まもなく一家は仕事を求めて旧領主国のフランスへ移住。モロッコとフランスの二重国籍を持ったハッジは、サンテティエンヌやクロイツヴァルトといった地方都市で少年時代を過ごした。

小さい頃はボクシングに熱中していたため、本格的にサッカーを始めたのは15歳と遅かったが、すぐに天賦の才能を発揮。91年には、ミッシェル・プラティニを擁してクープ・ドゥ・フランス(フランス杯)を制したこともあるロレーヌ地区のクラブ、ASナンシー(当時ディヴィジョン・ドゥ)に入団する。

ここで1年のユース期間を経て、20歳となった92年にプロデビュー。持ち味のエレガントなプレーでたちまち頭角を現し、「ロレーヌの真珠」と呼ばれるようになった。

 

フランス育ちのゲームメーカー

ハッジの故国チームであるモロッコ代表(通称、アトラス・ライオンズ)は、86年メキシコW杯でアフリカ勢初のベスト16入りを果し、GKザギ・バドゥー、MFモハメド・ティムニら名選手を擁して黄金期を築いた西アフリカの雄だった。

しかし「黄金世代」のタレントたちが退いたあとモロッコ代表は低迷。90年W杯の出場を逃し、92年のアフリカネイションズカップ(AFCON)では、G/L最下位で敗退という屈辱を味わっていた。

次のW杯出場を目指すモロッコサッカー協会は、優秀な選手を求めて、モロッコ系移民が多く住むフランス本土にも人材発掘のアンテナを伸ばした。そこで発見されたのが、ASナンシーでプレーしていたムスタファ・ハッジである。

このときハッジはU-21フランス代表にも呼ばれていたが、アブデラ・ブリンダ監督の熱心な説得を受け、アラビア語が話せないままモロッコ代表を選択。この決断はフランス国内から批判を浴びてしまう。

93年10月に行なわれたW杯アフリカ予選最終戦ザンビアとの試合でモロッコ代表デビュー。ハッジはさっそく素晴らしいパフォーマンスを発揮し、「マン・オブ・ザ・マッチ」の活躍で1-0の勝利に貢献。最終予選で首位争いを演じていたザンビアをかわし、モロッコを2大会ぶり3度目のW杯出場に導く。

94年6月、Wカップアメリカ大会が開幕。ハッジはG/L初戦で先発出場を果すも、ベルギーと接戦を演じながら0-1の敗戦。第2戦はハッジが先発を外れ、後半72分に途中出場するが、サウジアラビアに1-2と競り負けてしまった。

第3戦のオランダ戦もベンチスタート。前半43分にベルカンプの先制ゴールを許すと、ブリンダ監督は状況を打開すべく後半開始の46分にハッジを投入。その直後の47分、ハッジのファーストタッチとなるパスからハッサン・ナデルが同点ゴール。強豪オランダに食い下がるも、終盤の77分に勝ち越しゴールを決められて1-2の敗戦を喫する。

2大会ぶり出場のモロッコはそれなりの健闘を見せたが、勝機に恵まれず3戦全敗でG/L敗退。残念な結果に終わってしまった。

 

バルセロナ戦の殊勲弾

95-96シーズンには、チームの主力としてASナンシーのディヴィジョン・アン(現リーグ・アン)昇格に貢献。その活躍により96-97シーズンにはポルトガルの名門、スポルティング・リスボンと契約する。

スポルティング・リスボンでは27試合3ゴールの成績を残すが、財政問題を抱えるクラブに不安を感じて4年契約を解除。モロッコ代表DFヌールディン・ナイベトの所属する、スペインのディポルティーボ・ラ・コルーニャへ移籍した。

ラ・コルーニャでは故障により活躍の機会は少なかったが、2年の在籍期間で一番のハイライトとなったのは、98-99シーズンに強豪バルセロナをホームに迎えた一戦だった。

0-0で迎えた後半の72分、ラ・コルーニャはハッジを投入。そのわずか3分後、フランからの折り返しにハッジが右足ダイレクトで叩き込んで先制点。そのあとリバウドのPKで追いつかれるも、終了間際にフランのゴールが決まって2-1。ラ・コルーニャ歴史的勝利の殊勲者となった。

 

「大会史上最も美しいゴール」

ロッコは94年大会、96年大会と続けてAFCON予選を敗退。低迷からの脱却を図るアトラス・ライオンズは、フランス人のアンリ・ミッシェルを代表監督に招聘。86年W杯でプラティニ擁するフランス代表を率い、チームを大会ベスト3に導いた実績を持つ名指導者だった。

ミッシェル監督はハッジを攻撃の司令塔に据えるとともに、多くの若手を抜擢してチームを活性化。そしてDFリーダーのナイベトを中心としたアフリカ屈指の堅陣を築き、低迷していたモロッコを再生させた。

96年9月から始まったW杯予選では、予選グループの6試合で5勝1分け0敗とダントツの成績。計14得点の攻撃力を見せつけ、アウェーのガーナ戦で2失点した以外の5戦は完封試合と、圧倒的な内容で最終予選を勝ち抜き、2大会連続のW杯出場を決める。

98年2月には3大会ぶりとなるAFCONの決勝大会(ブルキナファソ開催)に出場。G/Lを1勝1敗としたあと、ベスト8進出を懸けた第3戦でグループ最強とみられたエジプトと対戦する。

0-0で進んだ後半のロスタイム、右からのクロスにハッジがアクロバティックなバイスクルキックを突き刺し劇的決勝弾。土壇場で勝利を手にしたモロッコは、エジプトをかわしてグループを首位突破する。

準々決勝では惜しくも南アフリカに1-2と敗れてしまうが、ハッジのバイスクルキックは「大会史上最も美しいゴール」と絶賛される。ちなみに大会はこのあと、エジプトが優勝、南アフリカが準優勝となった。

 

アフリカ年間最優秀選手賞

98年6月、Wカップ・フランス大会が開幕。ヨーロッパで活躍するタレントを揃えたモロッコ代表は、ダークホースの一角にも数えられていた。

G/Lの初戦はノルウェーと対戦。モロッコの押し込む時間が続いた前半の38分、FWハッダのパスから左サイドを駆け抜けたハッジが、ゴール前でDFをかわして鮮やかな先制弾。しかし前半のロスタイム、セットプレーのボールをモロッコDFがクリアしきれずオウンゴール。1-1でハーフタイムを折り返す。

後半の59分、一発のロングパスからDFの背後に抜けたハッダが勝ち越し点。だがその1分後にまたもセットプレーからノルウェーの得点を許してしまい、試合は2-2と引き分けた。ハッジの華麗なプレーはスタンドを沸かせたが、ノルウェーの高さと粘りの前に白星を逃してしまう。

第2戦は優勝候補ブラジルを相手に歯が立たず、0-3の完敗。モロッコはグループ突破を懸け、最終節でスコットランドと戦った。

ハッジは試合開始から果敢に仕掛け、勢いを加速させたモロッコは前半22分にバシールのゴールで先制。さらに後半開始の46分、ハッジのアシストからハッダが追加点。終盤の85分には再びバシールがダメ押し点を決め3-0の快勝。モロッコ3大会ぶりのベスト16進出が見えたかに思えた。

しかし同時刻に行なわれていた同組の試合、終盤までブラジルに1-0とリードされていたノルウェーが、83分にT・A・フローのゴールで同点。さらに88分にはPKを獲得して2-1の劇的な逆転勝利。モロッコは勝点を5に伸ばしたノルウェーに1ポイント差で届かず、無念のG/L敗退となった。

それでもハッジはこの大会で一躍世界に名を知られる存在となる。そしてAFCONのエジプト戦とW杯ノルウェー戦の見事なゴールが認められて、アフリカ年間最優秀選手賞にも選ばれた。

 

コヴェントリー・シティーでの活躍

世界的プレイヤーとなったハッジには、ACミランなどビッグクラブからの誘いもかかるが、以前から抱えていた足の怪我をW杯後に悪化させてしまい、大きなチャンスを逃してしまう。

99-00シーズン、ハッジはモロッコ代表MFユセフ・シッポ(ポルト)とともに、プレミアリーグコヴェントリー・シティーと契約。ハッジ獲得には当時クラブの最高金額となる400万ポンドの移籍金が支払われた。

ハッジはシッポとともに息の合った中盤を形成。前線のガリー・マカリスターとロビー・キーン、そして両サイドのポール・テルファーとスティーブ・フロッグガットらをサポートしてエキサイティングなサッカーを展開した。

また中盤でタクトを振るうだけでなく、たびたびスーパーなゴールを決めてコヴェントリーのファンを魅了。特にホームで行なわれたアーセナル戦での芸術的なミドルシュートは地元サポーターを興奮させ、カルト的な人気を博すようになる。

ハッジは慢性的なつま先の痛みを抱えながら、痛み止めの注射を拒否し、患部に冷やした薄切り肉を巻いてプレー。この自己流の処方は意外と効果があったという。

しかしハッジの華麗なプレーはチームの勝利に結びつかず、マカリスター、キーン、フロッグガットら主力が抜けた00-01シーズンは19位に沈んで2部リーグ降格。サポーターに惜しまれながらもアストン・ヴィラへ移籍することになった。

 

サッカー巡礼者の引退

98年W杯後、モロッコ代表は再び低迷。00年、02年のAFCONで続けてG/L敗退を喫すると、00年6月から始まった日韓W杯アフリカ予選では、ブルーノ・メツ監督率いる新興セネガルと競り合いながら得失点差で敗退。3度目のW杯出場は叶わなかった。

このあと02年のマリ戦を最後に31歳で代表を引退。10年間の代表歴で63試合に出場、12ゴールの記録を残している。

アストン・ヴィラでは01年のインター・トトカップ優勝に寄与。ここで3シーズンを過ごすが、03年に就任したデヴィッド・オリアリー監督と対立。チームの構想外となったハッジは、スペインのエスパニョールへレンタル移籍する。

イングランドに渡るまで人種差別されることも多かったハッジだが、コヴェントリーとアストン・ヴィラではフェアに扱われ、「キャリア最高の時間を過ごせた」とのちに振り返っている。

4ヶ月在籍したエスパニョールではチームの1部残留に貢献。そのあと一時引退を決意するも、UAEアル・アイン、ドイツのザーリュブルッケン、ルクセンブルクのフォーラ・エシュなど、各国のクラブに請われてプレーを続ける。10年7月に38歳で現役を引退し、サッカー巡礼者の長旅を終えた。

 

ハリルホジッチとの対立

引退後はフランスとドイツでコーチングライセンスを取得。12~13年にはウル・サラル(カタール)のフランス人監督、ベルトラン・マルシャンのもとでアシスタントコーチを務めた。

14年にはモロッコ代表のアシスタントコーチに就任。15年に自国で開催されるAFCONへ参加する予定だったが、西アフリカのエボラ出血熱流行により開催地が変更され、それに難色を示したモロッコも出場を取り消された。

19年にヴァヒド・ハリルホジッチがモロッコ代表監督に就任すると、ハッジはアシスタントコーチに再任。モロッコカタールW杯出場決定に寄与するも、22年5月に協会との契約が延長されたハリル監督によって職務を解かれる。

ハリル監督は記者会見で「彼は私を『若い選手のメンタリティーを理解していない老人』と侮辱した。信頼を裏切られた」と非難。それに対しハッジは「何人もの若手選手が不当に排除されている」と応酬。さらに「解任に納得できないので法廷で事実を明らかにしたい」と名誉毀損で訴えた。

ハリル監督の解任も間近と噂される中、騒動は泥試合の様相を呈している。(追記:22年8月11日にハリルホジッチ監督解任)