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サッカーの歴史や人物について

《サッカー人物伝》アンドレイ・アルシャヴィン(ロシア)

 

「ロシアの小皇帝」

前線を動き回ってボールを引き出し、スピード感あふれるドリブルで相手を翻弄。味方を生かしながら自らもゴールを決め、守備にも貢献した現代フットボールの10番。小柄ながら両足の高い技術でボールを操り、優れたゲームメーク術で「ロシアの小皇帝」と呼ばれたのが、アンドレイ・アルシャヴィン( Andrei Sergeyevich Arshavin )だ。

 

ユーロ08では最初の2試合を出場停止で欠場となるも、第3戦のスウェーデン戦でゴールを挙げてロシアの決勝トーナメント進出に貢献。準々決勝では鮮やかな働きを見せて優勝候補と言われたオランダを粉砕。優勝したスペインに破れてベスト4に終わるが、3試合のみの出場にもかかわらず大きなインパクトを残して大会ベストFWに選ばれた。

 

キャリアを開始したゼニト・サンプトペテルブルクで長らく主力として活躍。07-08シーズンにはチーム23年ぶりとなるリーグ優勝と、UEFAカップ(現EL)初優勝の立役者となった。ユーロ08後にプレミアの名門アーセナルに引き抜かれ、移籍1年目のリバプール戦では1人で4得点を叩き出すという離れ業を演じている。

 

サンクトペテルブルクの少年

アルシャヴィンは1981年5月29日、当時ソビエト連邦レニングラード(現サンクトペテルブルク)で労働者階級の家庭に生まれた。アマチュアのサッカー選手だった父親の影響を受け、小さい頃からアパートの壁を相手にボールを蹴って遊ぶ毎日。少年時代に憧れたチームはFCバルセロナだった。

7歳のときに父親に連れられてゼニトのアカデミーに加入。だがこの頃から、アルシャヴィンの身に災いが降りかかるようになる。ある日、アカデミー近くの場所で車に轢かれて10m近くはね飛ばされるという交通事故に遭遇。それでも被害は打撲と擦り傷だけで済み、幸いにも命は取り留めた。

12歳のときには両親が離婚。母親に引き取られたアルシャヴィンは、狭い共同アパートの床に寝て暮らすという窮屈な生活を送る。そのあと父親が40歳で心筋梗塞により亡くなると、アルシャヴィンの心は益々すさんでいった。

チェスを得意とするなど明晰な頭脳を持っていたアルシャヴィンだが、学校では不良生徒の振る舞い。教師に「賢いが怠け者」と言われて通信簿には低い評価を付けられ、怒りのあまり登録簿を引きちぎり。この行為により学校を退学させられてしまう。

それでもサッカーの実力は折り紙付き。16歳のときに早くもシニアチーム入りをすると、18歳となった99年にはロシア2部リーグに所属するゼニトBでプレー。2000年にトップチーム昇格し、8月のインタートトカップブラッドフォード・シティイングランド)戦でプロデビューを飾る。

プロ2年目の01年シーズンは、中盤でセカンドストライカーの役割を担って、29試合4ゴール8アシストの成績でレギュラーの座を獲得。同年代のCF、アレクサンドル・ケルジャコフと「黄金の束」と呼ばれるコンビを組み、ロシア・プレミアリーグ昇格後(96年)最高順位となる2位に貢献。02年には、強豪CSKAチェスカモスクワに破れるもロシア・カップ準優勝を果した。

03年シーズン、FCサターン戦で初のハットトリックを記録するなど、27試合5ゴール10アシストの活躍でリーグ2位に貢献。翌04シーズンは、28試合で6ゴール16アシストを記録してアシスト王。ロシア屈指のMFとしての地位を確立し、ゼニトのサポーターからは “シャヴァ” の愛称で呼ばれるようになった。

 

ロシア代表での下積み時代

ロシア代表には20歳で初招集され、日韓W杯を目前にした5月の強化試合、ベラルーシ戦でフル代表デビュー。W杯メンバーの最終候補に残るも、選ばれたのはゼニトの同僚ケルジャコフアルシャヴィンはW杯の大舞台に立つことが出来なかった。

このあと主にU-21代表でプレーしたため、フル代表での出番は多くなかったが、03年2月のルーマニア戦で代表初ゴールを記録。しかし代表には定着しきれず、ユーロ予選に参加するも04年大会(ポルトガル開催)のメンバーには漏れてしまう。

それでもゼニトでの活躍が認められ、代表レギュラーとしてドイツW杯・欧州予選に参加。アルシャヴィンはチーム最多の5ゴールを記録するなど、ロシアの攻撃を牽引した。しかし予選では格下と思えたスロバキアに1ポイント及ばずグループ3位、あえなく敗退を喫し06年W杯の出場は叶わなかった。

 

ゼニトの牽引者

低調なスタートとなった06年シーズン途中の夏、オランダ人のディック・アドフォカードがゼニトの監督に就任。「リトル・ゼネラル(小将軍)」の異名を持つアドフォカードは豪腕をふるってチームを改造し、ゼニトをUEFA出場権の得られるリーグ4位に押し上げた。

翌07シーズン、エースのケルジャコフがスペインのセビージャに引き抜かれるも、アルシャヴィンは新加入のパヴェル・ポグレブニャクとともに新たな攻撃ユニットを構成。アドフォカード監督と衝突しながら30試合10ゴール13アシストと大活躍し、ソ連リーグ時代から23年ぶりとなる優勝の立役者となった。

ゼニトはUEFAカップでも快進撃を見せ、マルセイユレバークーゼンバイエルン・ミュンヘンなどの強豪を下して決勝に進出。決勝はここまで10得点のポグレブニャクを出場停止で欠いてしまうが、アルシャヴィンの2得点に絡む活躍でレンジャーズを2-0と撃破。マン・オブ・ザ・マッチの働きでチームをUEFAカップ初優勝に導く。

08年8月に行なわれたUEFAスーパーカップでは、チャンピオンズリーグ王者のマンチェスター・ユナイテッドと対戦。前半44分にポグレブニャクのゴールで先制すると、後半の59分にはアルシャヴィンのスルーパスからボニーが追加点。ゼニトが名門を2-0と封じ、2つめのヨーロッパタイトルを獲得する。

 

ユーロ08での大活躍

ソ連邦崩壊後(91年)低迷が続くロシア代表は、旧態依然たるチーム体制からの脱却を図り、06年に初の外国人監督となるフース・ヒディンクを招聘。ヒディンク監督はアルシャヴィンに10番とキャプテンの役割を託し、同年9月から始まったユーロ予選に臨んだ。

ユーロ予選は格下イスラエルに2-1で破れるなど苦戦続きとなったが、最終的に強敵イングランドを1ポイント差でかわしてクロアチアに続くグループ2位。ロシアはユーロ08本大会(オーストリア/スイス共催)の出場を決めた。だが最終節のアンゴラ戦で相手選手に暴力をふるってしまい、UEFA懲罰委員会によってユーロ大会2試合の出場停止処分を受けてしまう。

ヒディンク監督は仕方なくアルシャヴィンをキャプテンから解任するも、08年6月に始まったユーロ大会のメンバーに登録。彼の才能に賭けた。

国際大会で敗退が続くロシアの前評判は高くなく、初戦は豊富なタレントを揃えるスペインに1-4の惨敗。第2戦では前回王者のギリシャに1-0と辛勝し、どうにか持ちこたえた。

最終節のスウェーデン戦でアルシャヴィンがラインナップに復帰。前半24分に先制すると、後半50分にはジルコフのクロスに走り込んだアルシャヴィンが追加点。さっそくマン・オブ・ザ・マッチの活躍で北欧の雄を2-0と下し、スペインに続く2位でベスト8へ進む。

準々決勝は優勝候補のオランダと対戦。0-0で折り返した後半の56分、アルシャヴィンを起点にチャンスが生まれ、左からのクロスをパブリチェンコが左足ダイレクトで合わせて先制。このまま逃げ切りたいロシアだったが、終盤の86分にセットプレーからファン ニステルローイのヘディングゴールを許してしまい、試合は延長戦にもつれ込む。

延長後半の112分、左サイド深くに切り込んだアルシャヴィンの折り返しからトルビンスキーが勝ち越し弾。その4分後、ロングスローを受けたアルシャヴィンが巧にDFをかわしてダメ押し点。再三のドリブル突破でオランダを苦しめたロシアの10番は、2試合連続となるマン・オブ・ザ・マッチの働き。3-1と勝利しベスト4進出を果す。

準決勝では再びスペインと相まみえ、シャビを中心としたポゼッションサッカーに圧倒され0-3の完敗。スペイン戦では何もさせて貰えなかったアルシャヴィンだが、スウェーデン戦とオランダ戦での活躍により、パブリチェンコとともに大会ベストFWの4人に選出。その名を一気に世界へ知らしめた。

 

リバプール戦の4得点

08年のバロンドールにもノミネートされるなど注目の存在となったアルシャヴィンは、冬の移籍期限ぎりぎりとなる09年2月2日、イングランドの名門アーセナルと電撃契約。20日後のサンダーランド戦でプレミアデビューを飾った。

3月14日のブラックバーン戦でプレミア初得点を記録すると、シーズン終盤の4月には優勝争いを演じるリバプールとの試合に先発。アウェーの地で相手に押される時間が続いた前半の35分、セスク・ファブレガスの折り返しに反応したアルシャヴィンが先制点。アーセナルが1-0とリードしてハーフタイムを迎えた。

しかし後半に入り、F・トーレスとY・ベナユンに立て続けのゴールを決められ、あっという間の逆転を許す。流れを失ったかに見えたアーセナルだが、66分に相手ボールを奪ったアルシャヴィンが強烈ミドルで同点弾。その3分後にも、DFのクリアミスを拾ったアルシャヴィンが逆転弾。目の覚めるようなハットトリックでゲームをひっくり返す。

72分にはまたもトーレスのゴールで同点とされるが、90分にウォルコットのドリブル突破から4点目となるゴールを決めて再逆転。その瞬間アルシャヴィンは右手の指で4をかざし、沈黙を呼びかけるいつものパフォーマンスで喜びを爆発させた。

これでアーセナルが劇的勝利を飾るかと思えたが、アディショナルタイムの2分にベナユンのゴールを許して4-4の同点。壮絶な撃ち合いとなった一戦は引き分けに終わったものの、強烈なインパクトを残したアルシャヴィンはリーグ月間最優秀選手に選ばれる。

 

キャリアのかげ

このあと2シーズンをレギュラーとして過ごすも、次第に若手に出番を奪われるようになり出場機会は激減。11-12シーズンはベンチで過ごす時間が多くなり、冬の移籍期間の12年2月にローン移籍で古巣のゼニトへ復帰する。

12-13シーズンはアーセナルに戻るが、公式戦11試合1ゴール4アシストの成績を残したのみで契約を終了。13年6月にはゼニトへの正式移籍が発表された。

ロシアに戻ってからは、3人の子供を設けて9年間内縁関係にあった恋人と別れ、元モデルの女性と結婚。しかしアルシャヴィンの度重なる浮気により、1年で離婚となった。またパーティーで泥酔し、馬を借りて帰宅して騒動を起こすなど、私生活の乱れがプレーにも悪影響を及ぼすようになる。

 

墜ちた偶像

08年9月から始まったW杯欧州予選では3ゴールの活躍を見せるも、同組のドイツに及ばずグループ2位。スロベニアとのプレーオフではアウェーゴールの差で敗れるという不覚をとり、10年南アフリカW杯への出場を逃してしまう。

12年6月にはポーランド/ウクライナ共催のユーロ大会に出場。キャプテンのアルシャヴィンは3アシストを記録するが、チームはグループ3位で敗退。敗退後に責任を問われ「負けたのは我々の問題ではない。あなたたち(ファン)が問題にしているだけだ」と暴言。これが国内に大きな物議を醸し出し、謝罪を余儀なくされる。

同年8月、ユーロ12後最初の親善試合となるコートジボワール戦に後半から投入されると、ピッチに現れたアルシャヴィンには観客から大ブーイング。結局この試合が彼の最後の代表キャップとなった。11年の代表歴で75試合に出場、17ゴールの記録を残す。

ゼニトとの契約を終了したあと、15年7月には同リーグのFCクバンへ移籍。しかし思ったようなパフォーマンスを発揮出来ず、半年で契約を打ち切られた。

16年3月にはカザフスタンリーグのFCカイラットと契約。ここで3シーズンを過ごし、カザフスタンカップ優勝などに貢献する。18年12月、37歳での現役引退を発表。20年に及んだプロのキャリアを終えた。

引退後はゼニトの強化部長を務めるほか、テレビのサッカー・コメンテーターとして活動。また12年の大統領選ではプーチン支持者として登録されるなど、以前からの政治活動参加を継続している。