「炎のストッパー」
DFとしては175㎝と小柄ながら、抜群の運動能力と研ぎ澄まされた守備技術で相手の攻撃を封じた。ボール奪取能力に長け、空中戦にも対人にも強く、突破を阻止するスライディングタックルは超一級品の切れ味。リーダーシップも備えてイタリアが生んだ世界最高のストッパーと呼ばれたのが、ファビオ・カンナバーロ( Fabio Cannavaro )だ。
若くしてナポリで頭角を現し、移籍したパルマではブッフォン、テュラムと強力な守備陣を形成してコッパ・イタリアとUEFAカップ(現EL)優勝に貢献。そのあとインテル・ミラノ、ユベントス、レアル・マドリードと名門クラブを渡り歩き、世界屈指のセンターバックとして勇名を轟かせた。
イタリア代表でも長らくアズーリの守りを支え、4度のワールドカップと2度のユーロ大会に出場。だがユーロ2000の決勝では勝利を目前にタイトルを逃し、02年W杯では疑惑のジャッジの前に敗退。だが06年W杯ではアズーリを念願の優勝に導き、バロンドールとFIFA最優秀選手に輝いている。
カンナバーロは1973年9月13日、イタリア南部の都市ナポリで生まれ、3人姉弟の真ん中として育った。銀行員として働く父親は、下部リーグでのプレー経験もある元サッカー選手。その影響を受けて、弟のパオロとともに小さい頃からサッカーに親しんだ。
地元クラブでのプレーがスカウトの目に止まり、ナポリの下部組織に入団。クラブのボールボーイを務めたカンナバーロは、ディエゴ・マラドーナやチロ・フェラーラといった憧れの選手のプレーを間近で目にし、クラブ初のスクデット獲得という熱狂も味わった。
ナポリユースでは当初MFとしてプレーしたが、対人の強さとファイティングスピリットを買われてCBへ転向。トップチームとの練習ではマラドーナに荒々しいスライディングを仕掛け、周りの選手やスタッフに叱られるも、当のディエゴにはそのチャレンジン精神を褒められるというエピソードを持つ。
93年3月、19歳でトップチーム昇格。ホームのユベントス戦でセリエAデビューを飾った。マラドーナは前年チームを去っていたが、ジャンフランコ・ゾラにプロとしての姿勢を学んだ。
翌93-94シーズンはマルチェロ・リッピ監督によってレギュラーに抜擢され、経験豊富なフェラーラとCBコンビを組んで急成長。ベテランの薫陶を受けたカンナバーロは、若くしてチームの中心選手に育っていく。
94-95シーズンはACミラン戦で初ゴールを記録するなど、リーグ戦29試合に出場して活躍。しかし財政難に陥ったナポリは、ゾラ、フェラーラ、カレカ、フォンセカといった主力たちを次々と放出。クラブの期待の星だったカンナバーロも、95年夏にパルマへ売却されることになった。
90年にセリエA初昇格を果したパルマは、巨額を投じてゾラ、アスプリージャ、ストイチコフ、インザーギといった有力選手たちを大量補強。ここ数年で優勝争いを演じるまでになっていた。
カンナバーロは移籍1年目の95-96シーズンからチームのDFリーダーとなり、翌96-97シーズンは下部組織出身のGKジャンルイジ・ブッフォン(当時18歳)、モナコから新加入のDFリリアン・テュラムとともに強力な守備陣を形成。パルマの過去最高成績となるリーグ2位確保を支えた。
97-98シーズンはリーグ5位に終わるも、コッパ・イタリアでは昇格8年で4度目のベスト4入り。新興パルマは着実にセリエAでの地位を築いていく。
代表キャリアの開始
チェーザレ・マルディーニ監督率いるアンダー代表でリーダーとしてチームを牽引し、94年と96年の欧州U-21選手権連覇に貢献。96年大会では3歳下のアレッサンドロ・ネスタと息の合ったCBコンビを組み、大会MVPにも輝いている。
96年7月にはマルディーニ監督が指揮する五輪代表に選ばれ、アトランタ大会に出場。だがイタリアはグループ最下位に沈み予選リーグ敗退となった。
このあとマルディーニがA代表監督に就任すると、96年12月にはカンナバーロが初招集。年明け97年1月の親善試合・北アイルランド戦の後半にコスタクルタと代わっての出場を果し、23歳でのフル代表デビューを飾った。
このままW杯欧州予選を戦うメンバーの一員となり、翌2月には敵地ウェンブリー・スタジアムで行なわれたイングランド戦に出場。カンナバーロは相手エースのアラン・シアラーを厳しいマークで封じ、1-0の勝利に貢献する。
しかし首位をキープするイングランドに1ポイント及ばずグループ2位。ロシアとのプレーオフ第1戦は、ヴィエリのゴールで先制するもカンナバーロのオウンゴールで1-1の引き分け。それでもホームの第2戦で1-0と勝利し、イタリアのW杯出場が決定。完封に貢献したカンナバーロは、第1戦の失態を埋め合わせた。
98年6月、Wカップ・フランス大会が開幕。初戦のチリ戦は、サモラノ、サラスの強力2トップを抑えきれずに2失点。終盤にロベルト・バッジオのPKで追いつき、ようやく引き分けへ持ちこんだ。
第2戦はカメルーンに3-0の快勝。第3戦のオーストラリア戦は、開始早々の4分に相棒のネスタを負傷で失うも、代わりに入った大ベテラン、ベルゴミとの安定したコンビネーションで2-1の勝利を収める。
トーナメントの1回戦は、高さのあるノルウェーを封じて1-0の勝利、準々決勝で開催国フランスと対戦した。堅守を誇る両チームは、互いに譲らず延長120分を戦ってスコアレス。だがアズーリは90年大会準決勝アルゼンチン戦、94年大会決勝ブラジル戦に続いて、PK戦で涙を飲むことになった。
パルマでのタイトル獲得
パルマはクレスポ、ベロン、キエーザ、ディノ・バッジオと強力な戦力を揃え、98-99シーズンはCL出場権を得られるリーグ4位を確保。コッパ・イタリア決勝ではバティストゥータ擁するフィオレンティーナを破り、7季ぶり2度目の優勝を果す。
UEFAカップも順調に勝ち上がり、初の決勝に進出。決勝ではオリンピック・マルセイユに3-0の快勝を収め、クラブ初となるヨーロッパタイトルを得た。
99-00シーズンは、当時18歳の弟パウロがパルマに加入。185㎝と長身のパウロもディフェンダーで、ときおり兄弟共演によるCBコンビが見られた。
しばらくタイトルから遠ざかっていたが、01-02シーズンにはクラブ5度目となるコッパ・イタリアの決勝に進出。中田英寿のアウェーゴールなどで強豪ユベントスを下し、3季ぶりの栄冠に輝く。
しかしオーナー企業パルマットの財政破綻によりチーム事情が厳しくなり、カンナバーロは7シーズンを過ごしたパルマを離れて、02年の夏に名門インテル・ミラノへ移籍。ここで悲願のスクデット獲得を狙うも、監督との対立で本職でないSBやボランチに起用されるなど、不本意な2シーズンを送った。
インテルではついにタイトルを手にすることなく、04年の夏にはファビオ・カペッロ監督のラブコールを受け、ユベントスと契約を交わす。
優勝を逃したユーロ2000
2000年6月にはベルギー/オランダ共催のユーロ大会に出場。カンナバーロはネスタ、パオロ・マルディーニ、ユリアーノとともに強固なDFラインを形成し、G/Lを3戦全勝の2失点で1位突破。ノックアウトステージでは準々決勝のルーマニア、準決勝のオランダを堅守で封じ、ついに8大会ぶりの決勝へ進む。
決勝はW杯王者フランスとの戦い。前半を0-0で折り返し、後半カンナバーロがアンリのシュートを阻止した直後の55分、ペソットからのクロスをデルベッキオがボレーで決めて先制。このあとイタリアは守備を固め、得意の逃げ切りにかかった。
しかし勝利を目前としたロスタイムの4分、カンナバーロがヘッドでクリアしたボールがヴィルトールに渡り、シュートを打たれて不覚の同点弾。決勝は土壇場で延長へともつれた。
そして延長前半の103分、カンナバーロからのパスをアルベルティーニがコントロールミス。ボールを奪ったピレスがPエリアに切り込んでの折り返し、それをトレゼゲに叩き込まれてゴールデンゴールでの決着。イタリアはほとんど手中にしかけていた優勝杯を逃してしまった。
輝けなかった日韓W杯
2年後の02年6月、ユーロの屈辱を晴らすべくWカップ・日韓大会に出場。初戦はエクアドルを2-0と退けるも、第2戦はクロアチアに1-2の逆転負け。前半24分にネスタが負傷し、代わりに入ったマテラッツィが経験不足で機能しなかったのが痛かった。
第3戦はメキシコと1-1で引き分け、イタリアはグループ2位でベスト16へ進んだ。しかしカンナバーロは累積2枚となる警告を受け、次戦を出場停止となってしまう。
トーナメントの1回戦はホスト国の韓国と対戦。前半18分にヴィエリのヘディング弾で先制するも、動きの鈍った終盤の88分に薛琦鉉のゴールを許して同点。延長の103分にトッティが2枚目のイエローで退場となり、117分には安貞桓にゴールデンゴールを決められ終戦。イタリアの敗退が決まった。
モレノ主審による疑惑のジャッジが物議を醸した試合だったが、2人のレギュラーCBを欠いたことも、イタリア敗戦の大きな要因となった。
このあとカンナバーロはマルディーニからキャプテンマークを引き継ぎ、2年後のユーロ04(ポルトガル開催)に臨んだ。しかし初戦でデンマークに0-0と引き分けると、第2戦もスウェーデンと1-1の引き分け。第3戦でブルガリアに2-1と勝利するも、得失点差で及ばずG/L敗退となってしまった。
移籍したユベントスでは、フェラーラ、テュラム、ブッフォンらかつての同僚たちと再会。ここでセリエA最強の守備陣を築き、念願のスクデットを獲得。翌05-06シーズンもリーグを連覇した。
守備だけではなく、06年1月のエンポリ戦では得意のヘディングで2得点を挙げ攻撃でも貢献。2シーズンを守備の要としてフル稼働し、計6得点を記録するなど、キャリア最高の時期を過ごした。
しかし06年の春、以前から囁かれていた大規模不正疑惑 “カルチョポリ” がスキャンダルへと発展。主犯とされたユベントスの首脳陣に八百長買収の嫌疑がかけられ、カンナバーロやブッフォンらの選手たちも、警察当局に事情聴取されたり家宅捜査を受けたりと、騒動に巻き込まれていった。
ワールドカップ・ドイツ大会の奮闘
イタリアが “カルチョポリ” 騒動に揺れる中、06年6月にはWカップ・ドイツ大会が開幕。代表を率いるマルチェロ・リッピ監督も不正疑惑に巻き込まれた一人で、開幕の半月前に嫌疑が晴れて続投が決まったばかりだった。だがそんな逆風が、却ってアズーリを結束させることになる。
G/Lの初戦は、中盤にタレントを揃えたガーナの攻撃を封じて2-0の完勝。第2戦はアメリカの勢いに押されてオウンゴールで失点するも、引き分けとして勝点を得た。
4チームとも決勝トーナメント進出の可能性を残す大混戦となった最終節は、チェコとの戦い。序盤から攻勢をかけるチェコは、11分、15分とネドベドが強烈なミドルシュート。守護神ブッフォンの好セーブで得点を許さなかったが、17分にはネスタが股関節を痛めて退場。イタリアは苦しい展開に追い込まれる。
だが26分、ネスタの代わりに投入されたマテラッツィが、トッティの右CKに頭で合わせて先制。前半ロスタイムにはチェコのポラクが2枚目の警告で退場となり、流れは完全にイタリアのものとなった。終盤の87分には、途中出場のインザーギがカウンターから追加点。2-0と勝利したイタリアがグループ1位突破を果した。
トーナメントの1回戦は、名将フース・ヒディンク監督率いるオーストラリアと対戦。イタリアはフィジカルで押してくる相手に手を焼き、前半を0-0。後半開始早々の50分にはマテラッツィが一発レッドで退場、数的劣勢の状況で激しく攻め立てられる時間が続く。
ここでアズーリのピンチを救ったのが、キャプテンでDFリーダーのカンナバーロだった。的確な位置取りでドリブル突破を防ぎ、読みの鋭さとヘディングの強さで相手クロスボールを封殺。熟練のラインコントロールでDF陣を統率し、オーストラリア波状攻撃の前に立ちはだかった。
このまま延長に突入するかと思えた後半ロスタイム、ドリブル突破を図ったグロッソがPエリアで倒されPK。これをトッティが勢いよく決め、イタリアが1-0の勝利。勝利の立役者となったカンナバーロがマン・オブ・ザ・マッチに選ばれる。
準々決勝はバルザーリとCBコンビを組み、シェフチェンコ擁するウクライナを3-0と完封。準決勝では開催国ドイツを延長で2-0と破り、ついに決勝へ進出する。ドイツのクローゼに一本もシュートを打たせないなど、カンナバーロの働きは際立っていた。
イタリアを優勝に導いた「ベルリンの壁」
ベルリンで行なわれた決勝は、ユーロ2000ファイナルの因縁が残るフランスとの対戦。カンナバーロにとって代表通算100キャップとなる節目の試合だった。
開始6分、マテラッツィのファールでPKを与えてしまい、これをジダンに決められ早々にリードを許す。しかし19分にピルロからの右CKをマテラッツィが頭で叩き込み、イアタリアはすぐにゲームを振り出しに戻した。
このあと双方の堅い守りで試合は膠着状態となり、1-1のまま延長戦に突入。延長後半の110分、マテラッツィに挑発されたジダンが頭突きをお見舞いして一発退場。だがこれで戦況が変わることなく、PK戦での決着となった。
PK戦はフランス2人目トレゼゲのシュートがバーを叩き失敗。イタリアは5人全員が決め、24年ぶり4度目の優勝杯を手中にした。
カンナバーロは全7試合にフル出場して一度もカードを貰うことなく、CBコンビが入れ替わりながらも、極上のパフォーマンスで5試合のクリーンシートを達成。その鉄壁さは、決勝の地にちなんで「ベルリンの壁」と讃えられた。
大会MVPこそジダンに譲ったが、この年のバロンドールとFIFA最優秀選手賞をダブル受賞。純粋なDFとしては初となる快挙だった。
キャリアの終盤
W杯後、“カルチョポリ” の主犯格であるユベントス前2年のタイトル剥奪と、セリエBへの降格処分が決定。デル・ピエロ、ブッフォン、トレゼゲ、ネドベドら主力たちが残留を表明する中、カンナバーロはカペッロ監督とともにレアル・マドリードへ移籍する。
3シーズン在籍したレアルでは、06-07、07-08シーズンのリーグ連覇に貢献。しかしチャンピオンズリーグでは3季続けてトーナメント1回戦敗退。念願のビッグタイトルを手にすることが出来なかった。
レアルでの契約が終了したあと、09-10シーズンはフェラーラが監督を務めるユベントスに復帰。しかし3年前にチームを裏切ったと考えるサポーターの視線は冷たく、前年に負った怪我の影響もありパフォーマンスは低下した。
すでに選手としてのピークは過ぎ、シーズン後ユベントスとの契約更新はされず、帰郷を望んだナポリからのオファーもなし。やむなくUAEクラブのアル・アハルと契約を結ぶ。
引退後は指導者に
ユーロ08の大会直前、練習中に左足首靱帯損傷の怪我を負って出場断念を余儀なくされる。10年6月にはWカップ・南アフリカ大会に出場。しかし前回王者のイタリアは世代交代に失敗。組み合わせに恵まれながら0勝2分け1敗の成績でグループ最下位となり、あっけなく大会から去って行った。
W杯終了後、代表からの引退を発表。14年間の代表歴で136試合に出場し、ゴールも2つ記録した。通算キャップ数はこの時点で代表歴代最多だったが、13年にブッフォンに抜かれて(通算176キャップ)2位となった。
アル・アハリで1シーズンを過ごしたあと、11年7月に37歳で現役を引退。引退後は指導者の道に進み、中国やサウジアラビアのクラブ監督を歴任。19年3月にはマルチェロ・リッピの後任として中国代表監督に就任するが、わずか2試合を指揮しただけで1ヶ月後に辞任している。