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サッカーの歴史や人物について

高校サッカー界の名将 小嶺忠敏監督 死去

〈2022年1月8日の記事〉

 

多くの人材を育てた名監督

7日の早朝、全国選手権優勝6回など高校サッカー界の名将として知られた小嶺忠敏さんが、肝不全により長崎市内の病院で死去した。享年76歳だった。

その50年あまりの指導の中で、大久保嘉人高木琢也三浦淳寛、永井英樹、勝矢寿延徳永悠平平山相太ら代表級の選手を始め、Jリーグで活躍する多くの人材を育てている。

小嶺さんは1945年(昭和20)生まれの長崎県南島原出身。7人きょうだいの末っ子で、生まれたとき父親はすでに太平洋戦争で戦死していたそうだ。

堂崎中学校時代はバレーボール部に所属し、島原商業高校に入学してから本格的にサッカーを始める。3年生のときには九州選抜チームに選ばれ主将を務めている。

家計が苦しい中、兄たちの援助で大商大学に進学。大学ではサッカー部の練習後にも夜間授業を受講し、教職課程を履修する。

 
高校サッカー界への功績

1968年には商業科教諭として母校の島原商業に赴任し、サッカー部の監督に就任。この時の島原商業は部員13名の弱小チームで、雑草だらけのグラウンドに、鉄管と魚網で作った簡易ゴールという劣悪な環境から指導が始まった。

自らハンドルを握ったマイクロバスで全国を巡り、強豪校と試合を重ねてチームを強化。徹底して走り込ませる猛練習と、個性を伸ばす熱血指導で選手を鍛えた。

74年には全国サッカー選手権に初出場、以降83年までに10大会連続出場を果たした。77年には長崎県勢初となるインターハイ優勝を成し遂げている。

84年に長崎県立国見高へ赴任。当初は練習グラウンドもない状態で、自腹を切ってゴールを設置したという。

ここでも妥協を許さない猛練習を選手に科し、全国クラスの人材を育成。86年の全国サッカー選手権では初出場で準優勝を果たすという快挙を見せ、翌87年には初優勝。以降、全国選手権優勝6回、準優勝3回。インターハイ優勝5回、準優勝2回。全日本ユース優勝3回、準優勝2回と、輝かしい実績を積み重ねていった。

00年には国見高校の校長に就任。総監督という立場からサッカーの指導を続け、06年に定年退職により現場を退く。

定年退職後は長崎サッカー協会会長、県教育委員会参与など要職を歴任。V・ファーレン長崎の設立にも尽力し、初代社長を務めた。07年には自民党公認候補として参議院選挙に立候補している。

選挙は落選となり、同年11月に長崎総合科学大学の特任教授に就任。11年から同大学付属高校のサッカー部監督として現場復帰した。

肝臓などに持病を持っていたものの、最近まで精力的に活動していたという。しかし昨年12月に体調が悪化、現在開催中の第100回・全国高校サッカー選手権大会ではベンチ入りを果たせなかった。

長崎市内の病院に入院したときは意識がはっきりしない状態だったが、長崎総合科学大付の試合中継が始まると奇跡的に目を覚ましていたという。1月2日にチームのベスト16敗退を見届け、その5日後に静かに息を引き取った。