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ヴィヴィアン・リー 情熱と苦しみの生涯

 

風と共に去りぬ」の記憶

映画史に燦然と輝くハリウッド超大作『風と共に去りぬ』(39年)で美貌のヒロインを演じ、今もその存在感が強烈な印象を残すヴィヴィアン・リー。彼女には『哀愁』(40年)、『要望という名の電車』(51年)という代表作もあるが、人々の記憶に残るのはスカーレット・オハラの艶やかな姿である。

 

観る者を射すくめるようなエメラルド色の瞳と、佇まいの気高さ。あの謎めいた微笑みには、どこか脆く危険な香りと秘めた狂気、そして同時に人を惹きつけてやまない魅力が潜んでいる。

 

シェークスピア俳優ローレンス・オリヴィエとの激しい恋でも知られ、情熱を芝居に捧げる53年の生涯を送ったヴィヴィアン。だが後半生は精神的な疾患に苦しみ、心身ともにボロボロの状態となってこの世を去って行った。

 

大女優の夢

ヴィヴィアン・リーこと本名ヴィヴィアン・メアリ・ハートリーは、1913年11月5日に英国領インドのダージリンに生まれた。父はカルカッタの株式仲買人、ヴィヴィアンは両親から敬虔なクリスチャンとしての教育を受けて育った。

20年、母親の意向でロンドン・ローハンプトンのカトリック修道院付属学校に入学。美しくて成績も良く、大人びた雰囲気のヴィヴィアンは全女子修道院生の憧れの的であったという。学校には演劇と音楽のレッスンがあり、彼女もいつしか女優に関心を抱くようになった。

この修道院学校にはのちに女優となった2歳年上のモーリン・オサリバン(アイルランド出身、ミア・フォローの母)がおり、彼女と親しくなったヴィヴィアンは「私は女優になりたいわ。大女優に!」と夢を打ち明けるまでになっていた。

その後両親を説得、パリの有名学校でコメディ・フランセーズの女優から演劇全般を学ぶ。やがてオサリバンが映画女優になったことを知ると、18歳のヴィヴィアンも女優を目指しロンドンの王立演劇学校に入学した。しかしその頃出席したパーティーで、13歳上の法廷弁護士ハーバート・リー・ホルマンと出会い、彼女はたちまち恋に落ちてしまう。

32年に2人は結婚。ヴィヴィアンは王立演劇学校を休学し、翌年には娘のスーザンが誕生する。だがハーバートリーとの結婚生活はごく平凡なもので、演劇に興味のない夫との間に共通の話題もなく、いつしか新妻の心にすきま風が吹き始める。

寂しさからたびたび観劇に出かけたヴィヴィアンは、颯爽とした振る舞いと男の色気を見せるローレンス・オリヴィエに魅了されていった。彼の舞台姿は様々な意味で彼女に強い影響を与え、その才能に惹きつけられるだけではなく、性的魅力さえ感じるようになっていた。

 

やがてヴィヴィアンはファッションカメラマンのモデルを務めることになり、彼女の落ち着かない気持ちを察していた夫も、渋々ながらそれを認めた。そしてヴィヴィアンは小遣い稼ぎと称し、端役で映画に出演するようにもなった。

そのうち女優ベリル・サムスンの知遇を得て、彼女の紹介で新人女優を探している代理人の事務所を訪れる。そこで会った代理人と契約を結び、彼からの提言を受け、夫のミドルネームを借りて “ヴィヴィアン・リー” を芸名とした。

35年、舞台劇の『美徳の仮面』に出演。その演技が評価され、新聞の演劇欄にも取り上げられるようになった。それをきっかけにイギリス映画界の重鎮アレキサンダー・ゴルダにも認められ、ロンドンフィルムと契約を結ぶことになる。

長年の夢への道が開けたことに、有頂天となるヴィヴィアン。あるパーティーの帰り、タクシーの中で劇場の看板にかかるローレンス・オリヴィエの名前を見た彼女は、憧れの俳優に近づきつつあることを実感する。

そしてお祝いを言いに自宅に尋ねてきたベリルに、「私はきっとオリヴィエと結婚するわ」と宣言。驚いたベリルは「彼は結婚しているし、あなたもそうよ」とたしなめた。ゴルダもヴィヴィアンがオリヴィエに夢中なのを知り「彼はとても幸福そうだから」と忠告を与えている。

 
運命の作品

世の中に名前を知られるようになったヴィヴィアンは、舞台の楽屋を訪問するなどしてオリヴィエに接近する。37年、ロンドンフィルム社の『無敵艦隊』で2人は共演、14週間に及ぶ撮影が終わったとき、ヴィヴィアンとオリヴィエは離れられない関係となっていた。

やがて2人は一緒に暮らし始めるが、互いの配偶者が離婚を拒否したため内縁としての関係が続く。するとスキャンダルを恐れた会社は、この事実を世間に隠し通した。39年、オリヴィエはハリウッド映画『嵐が丘』(ウィリアム・ワイラー監督)の主役が決まり、アメリカに渡る。

ヴィヴィアンも恋人オリヴィエのあとを追ってアメリカに渡ったが、そこにはヒロイン探しをしている『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラ役を射止めたいという野心もあった。そして彼女はオリヴィエの代理人の紹介で、製作者デヴィッド・O・セルズニックと面会。すると難航していたスカーレット役は、まるで用意されていたかのようにヴィヴィアンのものとなった。

 

身体に潜む精神の病い

風と共に去りぬ』の大成功で、一躍大女優の仲間入り(アカデミー主演女優賞受賞)を果たしたヴィヴィアン。40年には長引いていた離婚協議も解決し、オリヴィエと正式に結婚。同年に主演した『哀愁』も大きな評判をとった。

こうして27歳で人生の絶頂期を迎えたヴィヴィアンだが、彼女の名声が高まるにつれ、身体の中に潜んでいた病が姿を現わす。45年に『シーザとクレオパトラ』へ出演。その撮影中に妊娠が判明するが、結局流産となってしまった。その直後からヴィヴィアンはたびたび狂躁症状の発作を起こすようになる。

雑談をしているとき突然暴れ出したかと思うと、1時間後には床にうずくまって大声を出して泣き、発作が治まるとヴィヴィアンはもう何も覚えていなかった。彼女は興奮すると詰問をするような口調になり、大声で叫ぶ異常な姿はオリヴィエに衝撃を与えた。

一旦は病状が回復したものの、再びぶり返すと発作は激しさと頻度を増していく。オリヴィエは時に力づくでヴィヴィアンを取り押さえたが、普段は気品と節度ある態度を見せる彼女が、ひとたびヒステリーを起こすと信じられないほど乱れた。

我を忘れて人前で裸になったり、下品でみだらな言葉を叫んだりと、手のつけられない状態になっていくヴィヴィアン。叫び声を上げながら部屋中を荒らし回る彼女の醜態は、夫の心をズタズタに引き裂いた。

それでもヴィヴィアンとオリヴィエの2人は、二十年間の結婚生活の時間をぴったりと寄り添い、たくさんの舞台や映画で共演を果たす。ヴィヴィアンの発作も、不思議なことに舞台の直前には病状が収まり、大事な舞台に穴を空けるようなことはなかった。

 

オリヴィエとの別れ

49年にはテネシー・ウィリアムズによる戯曲『欲望という名の電車』の舞台劇に、主役のブランチ・デュボア役で出演。作品は大評判をとり、翌年にはマーロン・ブランドを共演に迎え、映画化(エリア・カザン監督)された。ヴィヴィアンはこの作品で、2度目のアカデミー主演女優賞を受賞する。

だが56年に再び流産、ヴィヴィアンの躁鬱状態はいっそう酷くなり、オリヴィエの仕事にも大きな支障をきたし始めた。58年には結婚生活がついに破綻し、ヴィヴィアンは俳優ジョン・メリヴェールと不倫関係になる。ヴィヴィアンとの生活に疲れ果てていたオリヴィエは、彼女をメリヴェールに譲る形で身を引くことになった。

60年にヴィヴィアンとオリヴィエは正式に離婚、その後まもなくオリヴィエは20歳年下の女優ジョーン・プロウライトと3度目の結婚をする。その知らせを新聞記者から聞いたヴィヴィアンは、平静を装いながら彼に祝福の言葉を贈った。

だがそれからしばらくしてヴィヴィアンはふさぎ込むようになり、酒に浸り始めて目つきも変わってきた。ジョンと暮らしながら彼女のベッドの傍らには、オリヴィエと演じた『ロミオとジュリエット』の写真が飾ってあり、別れてもなお、元夫への未練と愛情が残っていたのだ。

67年7月7日、舞台出演から自宅に戻ったジョンが寝室を覗くと、ヴィヴィアンはベッドで目を閉じ眠っていた。だが30分後に再び寝室のドアを開けたジョンが目にしたのは、床に崩れ落ち息絶えた彼女の姿だった。死因は肺に飲み物が溜まったことによる窒息、享年53歳だった。

彼女の葬儀には、ジョン・メリヴェール、ローレンス・オリヴィエ、ハーバート・ホルマンの3人の夫が参列したと言われる。