レイバンのサングラス、バンダナ、白い口ひげがトレードマーク、『ワイルドバンチ』『わらの犬』『ガルシアの首』など、その美しくも壮絶な暴力描写で “ブラッディ・サム(血まみれサム)” の異名をとった映画監督、サム・ペキンパー。
開拓者の血を引き、カルフォルニアの自然の中に育った誇り高い「西部の男」は、妥協を許さない性格と一徹な芸術家精神からプロデューサーや大スターとしばしば激突、既成の枠に収まらない強烈な個性で「ハリウッドのアウトロー」とも呼ばれた。
しかしその荒々しさの一方で心優しさや豊かな詩情も持ち、ペキンパーの作品は滅びゆく者やドロップアウトしていった人々への哀悼に溢れている。
ペキンパーは1925年、カルフォルニア州サン・ヨキアン・ヴァリーのフレスノに、三代続いた開拓者の子孫として生まれた。祖父、父、兄は地元の判事を務め、ペキンパーもはじめ法律の道を進もうとするが、第二次世界大戦が起きたことで海兵隊に従軍する。
帰国後大学に進んで演劇を学び、テレビ界に入ってドラマシリーズ『ガンスモーク』の脚本で西部劇ライターとしての地位を築く。その後も『ライフルマン』『風雲クロンダイク』といったドラマのアイデアが買われるようになり、西部劇シリーズのディレクターとなった。
61年、モーリン・オハラ主演の『荒野のガンマン』で映画監督デビュー。翌62年には、往年の西部劇スターであるジョエル・マクリーとランドルフ・スコットを起用し、出世作となった『昼下がりの決斗』を監督する。しかしこの2作目で、さっそくペキンパーはプロデューサーと衝突を起こしている。
それでも『昼下がりの決斗』を見たチャールトン・ヘストンからの依頼を受け、大作西部劇『ダンディ少佐』(65年)を監督。だが製作開始直後から、ペキンパーは脚本家や衣装デザイナーと対立。現場に酒臭い息で現れたりなどプロデューサーとも揉め、撮影は遅れて製作費もかさんでいく。
さらには自分を擁護してくれた主演のチャールトン・ヘストンともケンカ。ある日怒ったヘストンが、小道具の軍刀を持ってペキンパーを追い回すという事件まで起きた。撮影終了後にペキンパーは降板。フィルムは勝手に編集され、「あの映画はもはや自分のものではない」と吐き捨てている。
このあとスティーブ・マックイーン主演の『シンシナティ・キッド』(65年)で監督を務めるが、またもやプロデューサーとぶつかり、撮影開始1週間足らずでノーマン・ジェイスンと交代。その他にも、脚本を書いた『片目のジャック』(60年)ではマーロン・ブランド、『戦うパン・チョビラ』(68年)ではユル・ブリンナーと対立するなど「トラブルメーカー」のレッテルが貼られ、ハリウッドではしばらく仕事が出来なくなってしまった。
67年にやっとテレビプロデューサーから声がかかり、ドラマ『ヌーン・ワイン』を演出。これが同年のスクリーン・ライターズ・ギルド賞を受賞する。これがきっかけとなり69年の『ワイルドバンチ』で映画界へ復帰。その激しい暴力描写は賛否を呼んだが、滅びゆく西部劇へのノスタルジーが高い評価を受けた。
だがそれ以降も、ペキンパーの誇り高く血の気が多い性格は変わることなく、『ゲッタウェイ』(72年)ではスティーブ・マックイーンと衝突。『ビリー・ザ・キッド / 21歳の生涯』『戦争のはらわた』などでもプロデューサーたちと揉め事を起こした。
『コンボイ』(78年)の時は、主演のクリス・クリストファーやアリ・マックグローと波長が合わず、「あんなスター連中よりトラック・ドライバーたちのほうがずっといい」と不満を爆発。撮影に参加した本物のコンボイ・ドライバーたちと酒ばかり飲んで過ごした。その結果、「彼は好んで敵を作る。そうして闘争心をかきたてながら映画を撮っているんだ」と評されるようになる。
『ダンディ少佐』撮影中にはしばしばメキシコの娼館に出かけ、本物の娼婦を映画に出演させるなど、メキシコを愛しメキシコの女性も愛したペキンパー。生涯5度結婚し、うち3度は同じ相手だったが、その女性もメキシコ人女優のベゴニア・パラシオスだった。
ペキンパーは『ダンディ少佐』撮影中、20歳年下の彼女に一目惚れ。二人は愛し合ったが、ペキンパーがトレイラー・ハウスに住むような放浪癖の強い男だったため家庭を作ることが出来なかったのだ。晩年のペキンパーはアルコール中毒などで不調に陥いるが、断続的ながら二人の関係は長く続いた。
ペキンパーは84年に心不全により59歳で死去、その最後を看取ったのもベゴニアだった。西部を愛したペキンパーらしくモンタナ州に牧場を持っていたが、その牧場は死後に親友だったウォーレン・オーツの遺族に譲られている。