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グレタ・ガルボ 女神の沈黙

 

神秘の美貌

神秘のベールに閉ざされた北欧の美女、グレタ・ガルボ。彼女がスクリーンで浮かべる面持ちは、いつも冷たくどこか寂しげ。それ以外の表情、ことに歓びや幸せの顔など、滅多に見せることはなかった。

 

だが、そんな彼女の寡黙さと妖しい美貌は世界中のファンを惹きつけ「神秘の女性」と、憧憬をもって崇められた。

 

映画がサイレントからトーキーの時代に移り変わっても、その魅力と高い演技力でトップ女優であり続けた。36歳で銀幕の世界から姿を消すが、そのことがいっそう彼女の神話性を深めていく。

 

女優を目指すまで

のちに大女優となるガルボは、1905年9月18日、スウェーデンの首都ストックホルムに生まれた。本名はグレータ(グレタ)・ルヴィータ・グスタフソン、貧しい労働者家庭の3人兄妹の末っ子だった。

幼い頃から引っ込み思案で、兄や姉と遊ぶより一人で空想の世界に浸ることを好んだ。学校に行ったのも13歳まで。充分な教育を受けられなかったこともあり、何年ものあいだ人前できちんと話もできなかったという。

14歳のとき父親がスペイン風で死去。アルコール好きで手のつけられない事もあったが、そんな父親が大好きだったグレータは、いっそう孤独を深めることになる。

学校卒業後、理髪店の見習いとして働き始めるも、猥談を楽しむ男客の相手をすることに嫌気がさし、知人の紹介でデパートの従業員に転職する。

初めは帽子や婦人服売り場の販売員として働いていたが、やがてデパートのカタログモデルを勤めるようになり、同店40周年記念のPR映画にも出演。これが俳優への道を開くことになった。

このあともう一本のPR映画にエキストラモデルとして参加し、それが縁となって22年に短編コメディ映画へ出演。子供の頃から演劇に興味を抱いていたグレータは、これを機にデパートを辞めて王立演劇学校のオーディションを受け、奨学金を得て2年間演技を学ぶ。

24年、新人女優を探しに演劇学校を訪れたモーリス・スティルレル監督にスカウトされ、19歳で映画『イェスタ・ベルリングの伝説』のヒロインに抜擢される。

スティルレル監督は、内気でまだ演技もぎこちないこの若手をいたく気に入り、社交の心得から映画の演技法までみっちり教え込んで、一人前の女優へと育て上げていった。グレタ・ガルボという名前は、この時スティルレルが彼女に与えたもの。ガルボとは、スカンジナビア語で “森の妖精” という意味である。

 

ミステリアスな北欧美女

25年にはスティルレルの推薦で、ドイツの名匠G・W・パプスト監督の『喜びなき街』に出演。だがカメラがガルボの顔をクローズ・アップで撮ろうとすると、なんと彼女の顔面は緊張による引きつけを起こし始めた。

頭を抱えたパプストがスティルレルに相談すると、「自分も困ったが、とにかくフィルムを早回しにして、技術的にごまかすしかない」との回答。当時のガルボは、俳優としての自信などまるで持ち合わせていなかったのだ。

この頃スティルレルは、ベルリンを訪れていたMGMの総支配人、ルイス・B・メイヤーと面談。MGM社と監督契約を交す際に、ガルボの売り込みも行った。

メイヤーがガルボを最初に見たときの印象は「ぽっちゃりしていて垢抜けない」というものだったが、その眼差しに魅力を感じ、MGMは二人と契約を交すことになった。

このあとアメリカに渡ったガルボは、歯列矯正を受けるほかダイエットにも励み、ハリウッド第一作『イバニエスの激流』(26年)に主演。作品は不評だったが、ガルボの演技はまずまずの評価を得て、スティルレル監督による第二作『明眸めいぼう罪あり』の撮影に臨む。

だがスティルレルが、スタッフや主演のアントニオ・モレノと揉めて途中降板。MGMとの契約を解除し、パラマウントに移ってしまった。

ガルボはMGMに残って撮影を続行。内向的なうえ、知り合いもいないので一人ぼっちでいることが多く、最初のうちは外出も出来ずに、黒人のメイドから英語を教わっていたという。

そんな環境でガルボは、自然とカメラの前に自分の居場所を求めるようになっていた。子供の頃ひとり空想にふけったように、自分の演じるキャラクターにのめり込んでいったのである。こうして『明眸罪あり』での演技は高く評価され、ガルボ出世作となった。

26年、MGMのトップスターだったジョン・ギルバートと『肉体と悪魔』で初共演。当時としては刺激的な 「水平のラブシーン」が話題となり、映画は大ヒットを記録する。

この作品でガルボの、“ミステリアスで官能的な北欧美女” のイメージが確立。一躍トップスターの仲間入りをすることになった。

このとき、故郷の友人に宛てた手紙には「こちらには、私のようなタイプはいないのです」と成功の理由を記しながら、「だからしっかり演技を勉強しないと、やがて愛想尽かしをされてしまうでしょう」と自分を戒めている。

ギルバートと再び共演を果たした『アンナ・カレニナ』(27年)、『恋多き女』(28年)も大ヒット。公私ともに親しくなった二人は「最高の美男美女カップル」と呼ばれ、ロマンスの噂も囁かれた。

 

ガルボが喋る!

ガルボは29年の『接吻』まで、MGMの看板スターとして10本のサイレント映画に主演。ハリウッドを代表する女優に駆け上がった。

だがその人気が高まっていくのと反対に、ガルボは自分の世界に閉じこもっていく。最初こそマスコミのインタビューに応じていたが、あるとき北欧訛りの英語を笑われたことから、一切の宣伝活動を拒否。パーティーや式典にも出席せず、マスコミからは「スウェーデンスフィンクス」と呼ばれるようになる。

この頃ハリウッドの映画界は、『ジャズ・シンガー』(27年)の大成功によって、サイレントからトーキーの時代へと移り変わっていた。

29年にはジョン・ギルバートが、自身初のトーキーとなるミュージカル大作『ハリウッド・レヴィユー』に出演。だが彼の甲高い声を聞いた観客たちは、甘い二枚目イメージとのあまりのギャップに失笑。サイレントスターの人気は急落していく。

翌30年、ガルボのトーキー第1作『アンナ・クリスティ』が公開。この映画のキャッチコピーは、「ガルボトークス!(ガルボが喋る!)」と単純明快なもの。劇場に詰めかけたファンは、固唾をのんでファーストシーンを見守った。

酒場シーンでの第一声は「ギミ・ア・ウィスキー、ジンジャエール・オン・ザ・サイド(ジン・ウィスキーをちょうだい)」とのちに有名になったセリフ。特徴的な北欧訛りと、その低音ハスキーボイスは、彼女のクールでミステリアスなイメージにマッチしていた。

映画は大好評を博し、同じ年に公開された『ロマンス』の演技とともに、ガルボはアカデミー主演女優賞へ初ノミネート。しかし授賞式会場にガルボは姿を現さず、主演賞受賞も逃している。

 

「私は一人になりたい」

31年には、実在の女スパイを演じた『マタ・ハリ』が記録的大ヒット、ガルボはトーキーの時代にあっても不動の人気を保ち続けた。

32年、オールスター群像劇『グランド・ホテル』に出演。この映画でガルボが言った「私は一人になりたい」のセリフは、彼女の神秘性を象徴する言葉となる。

ただこの言葉が有名になりすぎたおかげで、彼女の出演する映画には、なにかにつけて「一人○○」という枕詞が被せられるようになった。

困惑したガルボはのちに「私自身は “一人になりたい” なんて言ったことはない。“一人にしておいて” は言ったことがあるけど、それは意味が違う」と友人に語っている。

33年の『クリスチナ女王』では、当時落ち目となっていたジョン・ギルバートを相手役に指名。映画はヒットしたものの、ギルバートの人気回復とはならず、二人の最後の共演作となった。

2度目の映画化となる『アンナ・カレニナ』(35年)と、自身一番のお気に入りという『椿姫』(36年)で、2年連続の「ニューヨーク批評家協会賞・主演女優賞」を受賞。『椿姫』では2回目のアカデミー主演女優賞にノミネートされるなど、演技者としての評価も定着し、「眼差しだけですべて表現できる」俳優と賞賛されるようになっていた。

 

神話の世界へ

だが37年の『征服』が興行的に大失敗。ガルボはイメージチェンジを図るべく、初のコメディ挑戦となる『ニノチカ』(39年)に出演する。映画のキャッチコピーは「ガルボ・ラフス!(ガルボが笑う!)」、もちろん『アンナ・クリスティ』で使ったキャッチコピーを、もじったものである。

ニノチカ』はヒットし、41年には2度目のコメディ作品『奥様は顔が二つ』に出演する。だがクールな彼女がコメディを演じる姿には違和感が伴い、映画は不評に終わる。36歳とまだ働き盛りのガルボだったが、人気の衰えを感じざるを得なかった。

さらに第2次世界大戦が勃発すると、映画製作の環境も大きく変化し、スクリーンから遠ざかるにつれガルボの演技に対する意欲も減少。結局『奥様は顔が二つ』が最後の作品となる。

 

生涯独身の人生

終戦後もいくつかのオファーが舞い込んだが、ガルボは気乗りしないまますべての出演依頼を断った。引退という言葉を使うことはなく、いつしか自然に隠棲生活を送っていたのである。もともと人嫌いで派手な生活を好まないうえ、堅実な資産運用を行い、生活に困ることもなかった。

ハリウッドから身を遠ざけたガルボは、神秘な雰囲気を保ったままニューヨークで後半生を過ごし、54年にはアカデミー賞の名誉賞が贈呈されるも、本人が公衆の前にその姿を見せることはなかった。

1990年4月15日、肺炎で死去。享年84歳だった。ジョン・ギルバートや音楽指揮者ストコフスキーと浮き名を流すこともあったが、生涯独身を貫いた。