米アカデミー賞の7部門にノミネートされ、現在もなお感動作として人気の高い映画『ショーシャンクの空に』(95年、フランク・ダラボン監督)は、スティーヴン・キングの中編『刑務所のリタ・ヘイワース』を原作としたヒューマンドラマだ。
リタ・ヘイワースは第二次世界大戦中、ベティ・グレイブルと並ぶピンナップ・ガールとして一世を風靡した人気女優。『ショーシャンクの空に』の中では、刑務所で上映される映画『ギルダ』(46年、チャールズ・ヴィダー監督)に登場。彼女のポスターが脱獄のアイテムとして使われるほか、希望のメタファーとなっている。
健康的な脚線美と母性あふれる笑顔で男女ともに人気を博したベティに対し、官能的なリタは「サイレン(妖女)」と呼ばれる危険な魅力で戦場の兵士を虜にした。
体も顔立ちも大柄で、華やかな上に生まれながらのダンスの名手。マリリン・モンローより前に「ハリウッドのセックスシンボル」と呼ばれる。また男性遍歴も賑やかで、オーソン・ウェルズなど5度の結婚を経験。パキスタン王子アーリー・カーンとの結婚は世間を騒がせた。
リタ・ヘイワースの本名はマルガリータ・カルメン・キャンシノ。1918年10月17日にニューヨーク市のブルックリンで生まれた。
父エドワルド・キャンシノはスペイン出身のラテンダンサーで、英国系の母ボルガ・ヘイワースも歌劇団のダンサーだった。リタは3歳半頃から父親のダンスレッスンを受け始め、5歳でブロードウェイの舞台に出演。8歳の時にはワーナー・ブラザーズの短編映画で子役を務めている。
27年には一家でハリウッドに移住。父エドワルドはここで自分のダンススタジオを開設し、のちに映画スターとなるジェームズ・キャグニーやジーン・ハーロウなどを教えた。
12歳で父とのコンビ「ダンシング・キャンシノ」を結成し、年齢の若さによりカルフォルニアで働けなかったためメキシコへ出稼ぎ。ナイトクラブやバーなどで活動した。このときリタの髪は茶色から黒に染められ、挑発的な衣装をまとって “ラテン” らしさを強調していたという。
そのあと幾つかの映画にダンスエキストラとして出演し、スクリーンで彼女の踊りを観たFOX社の社長からスカウトされる。35年に『コブラ・タンゴ』の端役として本格的な映画女優デビュー、この時の芸名はリタ・キャンシノだった。
しかしFOX社では芽が出ず1年あまりで事実上のクビ。フリーとしていくつかのB級映画に出演したあと、37年に新興のコロンビア・ピクチャーズと契約する。
このときコロンビアの社長ハリー・コーンに「イメージがラテンすぎて役柄が広がらない」と指摘され、スペイン姓のリタ・キャンシノから、母方の姓であるリタ・ヘイワースに改名。同時に髪の毛を濃い赤に変え、電気針による脱毛で額を広げるなどのイメージチェンジを試みた。
37年には実業家のエドワード・C・ジャドスンと結婚。当時18歳のリタとは倍以上も年齢が離れているという、年の差結婚だった。そして夫ジャドスンの尽力により、39年にはハワード・ホークス監督の大作『コンドル』(主演ケーリー・グラント、ジーン・アーサー)に準主役としての出演を果す。
この映画がヒットしたことから注目を集め、41年にはワーナー社に貸し出された『いちごブロンド』(共演ジェームズ・ギャグニー)、FOX社に貸し出された『血と砂』(共演タイロン・パワー)と立て続けに主役級で出演。強烈なセックスアピールでたちまち人気に火が付き、ワーナー社からは契約買い取りを申し込まれさえした。
当時コロンビア社のスター女優といえばジーン・アーサーくらい。コーン社長はリタを新しい目玉にすべく、ミュージカルスターのフレッド・アステアを招聘。高額予算で製作した『踊る結婚式』で二人を共演させ、リタは素晴らしい踊りでスター女優としての地位を確立する。そして名手アステアに「いろんな女優とダンスパートナーを組んだが、好みに関しては彼女が一番」と言わしめるほどの腕前を見せた。
リタは42年にも『晴れて今宵は』でアステアと再共演。44年には『カバーガール』でジーン・ケリーとも共演し、「二人のミュージカルスターと踊った映画は人生の宝物」とのちに述懐している。
第二次世界大戦中の41年8月、22歳のリタは『LIFE』誌のピンナップ写真に登場。薄いネグリジェで魅惑のポーズをとるという、セクシーでグラマラスな写真は戦場で闘う兵士たちを高揚させ、ベティ・グレイブルと並ぶピンナップ・ガールとしてもてはやされた。
44年からは、3年連続でマネーメーキング・スターに選出。その絶頂期にあったリタが妖艶な魅力を発揮した作品が、46年にグレン・フォードと共演したフィルム・ノワール『ギルダ』である。
黒いサテンのドレスを身につけ「ファム・ファタール(魔性の女)」を演じたリタは、その官能的な妖しさで観客を魅了。映画は業界関係者からの高い評価を受け、興行的にも大成功。彼女の代表作となった。
リタのポスターはのちに『ショーシャンクの空』で使われるほか、ヴィットリオ・デ・シーカ監督の名作『自転車泥棒』(48年)にも登場。リタ・ヘイワースがいかに時代の「セックスシンボル」だったかが窺える。
だが46年に米軍が行なった「ビキニ環礁核実験」で、使用された原爆に “ギルダ” と名付けられ、主演した彼女の写真が貼られたことを知ったリタは大激怒。ワシントンで抗議の記者会見を開こうとしたが、コーン社長に止められ思い留まっている。
実業家ジャスドンとは43年に離婚。同年には、戦意高揚のためつくられた「マーキュリー劇団ワンダーショー」で知り合ったオーソン・ウェルズと再婚。娘レベッカをもうけるも、二人の結婚は5年で終わった。47年にはウェルズが監督・主演した『上海から来た女』に出演している。
49年には、パキスタンの王子アーリー・カーンとフランスのカンヌで結婚。リタは女優業を引退してプリンセスとなる。この「シンデレラ物語」は大いに世間を賑わし、ヤスミンと名付けられた王女にも恵まれた。
だが社交界と王族生活の煩わしさに最後まで馴れることができず、プレイボーイとして知られた夫の不穏な噂にも心を痛める日々。毎夜アルコールを痛飲してストレスを発散した。
そんなある日、夫カーンがナイトクラブで有名女優ジョン・フォンティーンと親しげにしている姿を偶然に目撃する。ついに堪えきれなくなったリタは、二人の娘を連れてネバダ州のリタへ逃れた。そしてヤスミンをめぐる親権争いのすえ、53年に離婚。グレン・フォード共演の『醜聞殺人事件』で4年ぶりの銀幕復帰を果す。
53年には歌手のディック・ヘイムズと4度目の結婚をし、再びスクリーンから引退。しかし金銭にも女性にもだらしない彼との関係はすぐに破綻し、55年に離婚。57年『海の荒くれ』で4年ぶりの再復帰となったが、すでにコロンビアのトップスターはキム・ノヴァクに代替わり。同年にフランク・シナトラ、キム・ノヴァクと共演した『夜の豹』が、彼女の最後のコロンビア作品となった。
40歳となった58年には映画プロデューサーのジェームズ・ヒルと5度目の結婚。しかし彼との結婚生活も長くは続かず61年に離婚。これが人生最後の結婚だった。
リタは父性的魅力を持つ男性に惚れやすい傾向があり、最初の夫ジャドスンと結婚していた42年には『My Gal Sal』で共演したヴィクター・マチュアと不倫。『ギルダ』などで共演したグレン・フォードとも断続的に関係を持った。
特にフォードとの関係は40年の長きにわたり、48年に共演した『カルメン』撮影中には彼の子供を妊娠。フランスで密かに中絶手術を受けたことが、二人の死後にフォードの遺族によって明らかにされている。
若い頃から酒飲みで知られたリタだが、結婚生活の失敗と仕事の浮き沈みの激しさでアルコール量を増やしてゆき、次第に体と心の健康が蝕まれていく。
酔うと怒りっぽくなり、過剰な飲酒で病院に運ばれることもしばしば。自殺を図ろうとして娘たちを困らせたこともあった。
その悪影響は仕事にも及び、最後の映画となった『サンタマリア特命隊』(72年)では、台本が覚えられないため出演シーンはセリフ1行ごとに撮影された。
74年にはリタの兄弟が相次いで亡くなり、アルコールの摂取量がさらに加速。76年には旅行中のロンドン・ヒースロー空港で泥酔した挙げ句に癇癪を起こし、飛行機の搭乗を拒否されるという騒動を起こす。
これらのトラブルはアルコール依存症によるものと思われていたが、80年になってアルツハイマー病を患ってのものと判明。81年には記憶障害の症状がいよいよ進行し、独立していた娘ヤスミンの保護を受けて暮らすようになる。
この頃リタは、レーガン大統領主催のパティーでオーソン・ウェルズと再会して、久しぶりに会話を交わしている。だが最初は彼が元夫だと気づかず、しばらくしてようやく思いだし、ショックで静かに泣き出したという。
ウェルズは85年に亡くなったが、その直前のインタビューでリタを「これまで生きてきた中で最も愛しくて甘い女性の一人」と語っている。
87年2月、リタはアルツハイマーの合併症で半昏睡状態に陥り、3ヶ月後の5月14日にマンハッタンの自宅で死去。享年68歳だった。