ハリウッドでギャング映画がさかんに作られるようになったのは、1920年代の後半。27年公開『暗黒街』(ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督)がその走りとされている。
当時、禁酒法の網の目をかいくぐって犯罪組織が急成長。アル・カポネのようなギャングが暗黒街のヒーローとなった。そして29年の大恐慌以降は、銀行強盗として名を馳せたデリンジャーやプリティ・ボーイ・フロイドといった凶悪犯も登場。そんな時代背景の中、派手な銃撃戦とアンチヒーローの美学が描かれるギャング映画が人気を博すようになる。
こうしたギャング映画の中でも特に大ヒットを記録したのが、エドワード・G・ロビンソン主演の『犯罪王リコ』(30年、マーヴィン・ルロイ監督)である。二枚目とはほど遠い容姿のエドワードだが、独特の人間味で新たなギャングのイメージをつくりだし、観客の共感を呼ぶキャラクターを生みだした。彼はこの映画一本で人気スターとなったのである。
エドワード・G・ロビンソンの本名はエマニュエル・ゴールデンバーグ。1893年、ルーマニアのブカレストに生まれたユダヤ人である。
当時のルーマニアではユダヤ人に対する差別がひどく、一家はエマニュエルが9歳のときにアメリカへ移住。イタリア人、ギリシャ人、ポーランド人などの移民が暮らすニューヨーク・マンハッタンのロワー・イースト・サイドに住みつき、父親が肉体労働者として大家族を支えた。
貧しい中で弁護士を目指してニューヨーク市立大学シティーカレッジに進むが、やがて演劇に興味を持ち転向。アメリカ演劇芸術アカデミーの奨学金を得て演技を学ぶ。
卒業後はブロードウェイの舞台に立ち、エドワード・ゴールデンバーグ・ロビンソンと改名。当初から170㎝の小さな体と個性的な顔つきで、性格俳優の道しかないと割り切り、シリアスな役柄をもっぱらとする。
たまに端役として映画に出演することもあったが、自分の本領はブロードウェイ舞台にあると信じ、若い頃はハリウッドに行って映画俳優になろうなどとは考えもしなかった。
ところが27年に舞台劇『ラケット(脅迫)』で初めてギャング役を演じてから、エドワードの人生は大きく変わることになる。
彼のアクの強い顔つきがハリウッドの目に止まり、主演映画のオファーが舞い込んだのだ。スタンバーグ監督の『暗黒街』以降、ハリウッドでは次々とギャング映画が作られるようになり、映画界はダークヒーローを演じられる個性的な俳優を探していたのである。
最初はMGM社の名プロデューサー、アービング・タルバーグじきじきの出演交渉を受けるも、エドワードは3年契約100万ドルの好条件を断る。その理由は舞台へのこだわりと、自分の容貌へのコンプレックスにあったと言われる。
実は29年の映画『壁の穴』で悪役を演じたとき、ラッシュで自分のクローズアップを観て「なんて醜い顔だ!」と仰天し、思わず試写室を飛び出したというトラウマがあったのだ。
しかし30年にワーナー社から『犯罪王リコ』の企画が持ち込まれると、脚本を読んだエドワードは従来の考えを改め、「この役はぜひやらして欲しい」と自ら売り込む。そこに描かれていた主人公は単なるギャングではなく、友情や愛情に飢えている孤独な一匹狼。エドワードはこの人物像に大きな魅力を感じた。
また舞台俳優と映画俳優では出演ギャラも雲泥の差、この時37歳のエドワードが稼いでいたのは週50ドルに過ぎなかった。エドワードは4年前に舞台女優のグラディス・ロイスと結婚しており、子連れの彼女との結婚生活を維持するためにもお金が必要だったのだ。こうしてニューヨークの舞台を離れてのハリウッド行きを決意する。
主役を演じた『犯罪王リコ』は公開されるや大ヒット。冷酷非情に振る舞いながら、孤独を抱える暗黒街のボス役はエドワードのキャラクターにピタリとはまり、たちまちハリウッドの人気スターとなった。
以降ハリウッドの犯罪映画に欠かせない存在となり、大金を稼ぐようになったエドワードだが、終生「舞台という芸術を捨て、映画というお金になるエンターテインメントに走った」罪悪感にさいなまれていたという。エドワードは8ヶ国語を話すインテリでもあったのだ。
これらの罪悪感がエドワードを “絵画コレクター” という趣味に走らせることになるが、56年に妻グラディスと離婚するとき、慰謝料捻出のためこれらのコレクションを300万ドル以上で売り払って話題となっている。
実は戦後グラディスが精神に異常をきたし、精神病院への入退院を繰り返すようなったため、二人は結局別れざるを得なくなった。
40年代以降は持ち前の演技力を生かし、性格俳優として活躍。『運命の饗宴』(42年、ジュリアン・デヴィヴィエ監督)『深夜の告白』(44年、ビリー・ワイルダー監督)『飾窓の女』(44年、フリッツ・ラング監督)『キー・ラーゴ』(48年、ジョン・ヒューストン監督)など、名監督のもとで重厚な脇役を演じる。
またユダヤ人として高い政治意識を持ち、ドイツにヒトラーが現れナチスが台頭すると、エドワードは積極的に反ナチズムの運動に参加。ヨーロッパからアメリカに亡命してくるユダヤ人組織に加わり、ナチスに反抗する共産主義者とも連帯。第二次大戦中はロンドンにわたり、フランス・レジスタンスを支援するラジオ番組にも出演した。
そして戦争が終わると、今度は黒人差別への反対運動に力を入れ、彼らの労働の権利平等を訴える団体を支持するなど積極的に活動。
だがこうしたリベラルな活動が仇となり、戦後ハリウッドに “赤狩り” の嵐が吹き荒れると、エドワードは保守派に狙い撃ちされることになる。
「共産主義シンパシー」としてブラックリストに載り、47年、50年、52年と3回にわたってワシントン非米活動委員会の聴聞会に召喚。このことが影響して映画の仕事は激減した。しかし彼は終始「自分は真のアメリカ人であるからヒトラーに反対した」と自分の姿勢を崩すことはなく、また赤狩りの犠牲となり投獄された脚本家のドルトン・トランボへの支援も辞さなかった。
この間、映画界を離れてブロードウェイの舞台に復帰。主演舞台「Middle of the Night 」はロングランヒットとなった。そして朝鮮戦争休戦後は赤狩り運動も沈静化し、56年には史劇大作『十戒』(セシル・B・デミル監督)に出演、“裏切り者デイサン” を演じて再びハリウッドで脚光を浴びた。
そして65年に出演した『シンシナティ・キッド』(ノーマン・ジュイソン監督)では、スティーブ・マックイーンと対決するポーカーの伝説的名手、“ザ・マン” を貫禄たっぷりに演じ、晩年期の代表作となる。
72年、アメリカ芸術アカデミーは、癌を患い病床にあったエドワード・G・ロビンソンに対し、永年の映画界への貢献に敬意を表してアカデミー特別賞を贈ることを決定。それまで映画賞に縁のなかったエドワードは、病院のベッドでその知らせを聞いて大変喜んだという。
しかしアカデミー賞授賞式を2ヶ月後に控えた73年1月26日、79歳で死去。同年公開で100本目の映画出演となった『ソイレント・グリーン』(リチャード・フライシャー監督)が遺作となった。