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異端の貴公子 モンゴメリー・クリフト

 

演技派の美男スター

陰影を帯びた美しいマスクと、知性に裏付けられた確かな演技。そのナイーブな佇まいに、危うさの魅力で観客を惹きつけたモンゴメリー・クリフト。”モンティ” の愛称で人気を博す一方、周りに酌みしない反骨心を持ち、同年代のマーロン・ブランドジェームズ・ディーンとともに「反逆のスター」と呼ばれた。

 

若くして舞台俳優としての名を馳せ、高い演技力で「天才少年」とも謳われた。しばらく映画界からの誘いを断り続けるが、1948年の『山河遙かなり』でスクリーンデビュー。いきなりアカデミー賞の主演男優賞にノミネートされ、一躍ハリウッドの寵児となる。

 

銀幕のスターとなりながらも出演作を厳選。『陽の当たる場所』『地上ここより永遠に』『ニュールンベルグ裁判』などの作品で名を残すが、自分が演じたいと思わなければ、どんな大作・話題作だろうとオファーを受けなかったという。

 

しかし着実にキャリアを築いていた56年、自動車事故を起こして顔面粉砕の致命的重傷。整形手術を繰り返して俳優に復帰するも、痛みの後遺症から薬物やアルコールに頼るようになり、自身の寿命を縮めていった。

 

演劇界の天才少年

モンゴメリー・クリフト1920年10月17日、ネブラスカ州のオハマに双子の兄妹として生まれた。父ビルはウォール街の株式仲買人として成功した人物で、モンティは家族や家庭教師とともに度々ヨーロッパ旅行へ出かけるなど、裕福な環境で育つ。

しかし29年にニューヨーク株式の大暴落が起きると、続く世界大恐慌で父親の事業は破綻状態。モンティが13歳のときフロリダ州サラソタへの移住を余儀なくされ、一家は質素な暮らしを始めた。

年少の頃からヨーロッパの演劇に触れ、演じることに興味を持ったモンティは、移り住んだサラソタのアマチュア劇団に入所。その後マサチューセッツ州シャロンに引っ越すと、母サニーの勧めでブロードウェイ劇のオーディションに挑戦。見事合格を果たす。

33年、『世間並みの夫』で初舞台を踏むと、35年の『フライ・アウェイ・ホーム』ではメインキャストに抜擢。その演技はニューヨークの地元紙に「驚くべき落ち着きと器用さ」と注目され、プロデューサーからは「天性の役者本能」と称賛。17歳のときには戯曲『ディム・ネイチャー』の主役を務め、若くして舞台俳優としての名を馳せた。

その後いくつもの舞台で好評価を得るなど、うなぎ登りに名声を高めていったモンティ。彼のもとにはハリウッドからの誘いが舞い込むも、制約だらけの契約条件に反発。以降、舞台に情熱を傾けていた演劇界の若手が、映画に興味を示すことはなかった。

 

ハリウッド進出

そんな男の心を動かしたのが、ハリウッドの名監督ハワード・ホークス。モンティの舞台での演技に感銘を受けたホークス監督は、西部劇『赤い河』(ジョン・ウェイン主演)への出演をオファー。モンティがその脚本に関心を寄せると、製作・配給を担当したユナイテッド・アーティスツ社も彼の条件を呑んだため、ついに25歳にしてのハリウッド進出が決った。

『赤い河』に続いて出演したのが、フレッド・ジンネマン監督の『山河遙かなり』(MGM社、48年)。先に撮影に入った『赤い河』の完成が遅れてしまったため、モンティの銀幕デビュー作はこちらの方となった。

モンティの自然な演技を初めて目にしたジンネマン監督は、「こんな上手い奴を、どこから見つけてきたんだ?」と驚嘆。第二次世界大戦の悲劇を描いたヒューマンドラマは観客の感動を呼び、主役のモンティはいきなりアカデミー賞の主演男優賞にノミネート。『赤い河』も同賞の2部門にノミネートされ、一躍世間からの注目を浴びる。

こうして期待の新星となったモンティには、引く手あまたの映画オファー。しかし大手スタジオに縛られるのを嫌い、専属契約を拒んでパラマウント・ピクチャーと3本の出演契約。それはモンティに監督・脚本選びの権限が与えられたうえ、いつでも自分から契約を打ち切れるという破格の条件だった。

 

映画界の異端児

パラマウントでの出演第1作は、名匠ウィリアム・ワイラー監督の『女相続人』(49年)。しかしモンティの気むずかしさは、ワイラー監督や共演のオリビアデ・ハビランドを悩ましたと言われる。

51年にはジョージ・スティーブンス監督『陽の当たる場所』に出演。この作品で出会ったのが、終生の友人となるエリザベス・テイラー(リズ)である。以前からモンティのファンだったリズは、その素晴らしい演技に感激。また知的で生真面目な人柄にも惹かれていったという。

『陽の当たる場所』では、屈折した青年の不安と挫折の感情を、モンティーが繊細な “メソッド演技” で好演。2度目となるアカデミー賞の主演男優賞にもノミネートされ、彼の代表作となった。

そのあと2年間の休業期間を経て、53年には『私は告白する』(アルフレッド・ヒッチコック監督)、『終着駅』(ヴィットリオ・デ・シーカ監督)、『地上より永遠に』(フレッド・ジンネマン監督)と、名匠たちの3作品に出演。

地上より永遠に』ではトランペット吹きの米兵役を演じるにあたり、徹底した役づくりに務め、バートランカスターと共にアカデミー賞の主演男優賞にノミネート。映画は同賞の作品賞・監督賞など7部門で栄冠に輝くが、モンティのオスカー獲得とはならなかった。

ハリウッドの若手演技派として評価を確立したモンティだが、このあとしばらく映画のオファーを断り、ニューヨークの舞台に復帰。チェーホフの名作戯曲『かもめ』を演じた。モンティが断った映画は『サンセット大通り』『真昼の決闘』『波止場』『エデンの東』『シェーン』と粒ぞろい。しかしハリウッドの喧騒を嫌い、どんな話題作・大作の話にも耳を傾けることはなかった。

その暮らしは有名スターに似つかわしくない地味さ。ニーヨークでは安アパートを借り、ひとり静かに生活。ナイトクラブやデートに出かけることもなく、余暇の時間はもっぱら読書と裁判の傍聴に費やしていたという。そんな質素な生活スタイルを貫くモンティを、ハリウッドは「反逆のスター」「異端児」と呼んだ。

 

自動車事故の後遺症

舞台『かもめ』の公演が終了すると、俳優業を再び休止。体調不良もあって薬とアルコールに頼るようになり、精神的にも疲弊。約3年の間、スクリーンにも舞台にもその姿を現さなかった。

そんなモンティの様子を心配したのが、友人のエリザベス・テイラー。リズは出演の決まっていた『愛情の花咲く樹』(エドワード・ドミトリク監督)の共演者として、モンティを指名。渋る彼を説き伏せ、ハリウッド復帰への道を開いた。一時は恋仲も噂された二人だが、実のところモンティは同性愛者。リズとの関係はプラトニックなものであったとされる。

撮影が始まって間もない56年5月、リズ夫妻主催のパーティーに招待されたモンティが、暗くなった頃を見計らって早々と退散。自ら車を運転して帰路につくも、途中のヘアピンカーブを曲がりきれず、電柱と衝突して車両の前方が大破。飲酒と疲れからの事故だったと言われている。

事故の目撃者からの知らせを聞き、リズやパーティーの出席者たちが現場に急行。ロック・ハドソンによって車外に助けられたモンティだが、その顔面は血まみれでグチャグチャだった。リズに抱きかかえられたモンティが「折れた歯が喉に詰まっている」と訴えると、彼女は自ら指を差し込み、彼を窒息から救ったという。

このあと大がかりな整形手術による顔の再建治療が行なわれ、理学療法とリハビリを経て2ヶ月後には現場復帰。しかし神経麻痺の後遺症により、顔の左半分はほとんど動かなくなっていた。

撮影復帰後も怪我の痛みは続き、赤痢に罹患。慢性的なアレルギーと大腸炎にも悩まされ、いよいよ薬とアルコールに溺れるようになる。すると精神のバランスも崩れだし、ホテルの外を素っ裸で徘徊するという奇行。友人たちを戸惑わせた。

 

苦難の晩年

58年、同世代の友人であるマーロン・ブランドと『若き獅子たち』(エドワード・ドミトリク監督)で初共演。しかし二人一緒のシーンはなかった。

59年には『去年の夏、突然に』でリズと3度目の共演。だがこの頃のモンティは長時間の撮影に耐えられなくなっており、マンキウィッツ監督により降板させられそうになるが、リズと共演者キャサリン・ヘプバーンの反対で役にとどまった。

61年にはマリリン・モンローとクラーク・ケーブルの遺作となった、『荒馬と女』(ジョン・ヒューストン監督)に出演。モンローからは「私よりひどい薬物中毒者に、初めて出会った」とさえ言われた。

同年にはスタンリー・クレーマー監督による社会派劇『ニュールンベルグ裁判』にキャスティング。わずか7分間の出演シーンながら強烈な印象を残し、アカデミー賞助演男優賞にノミネートされる。

62年、伝記映画『フロイド/隠された欲望』(ジョン・ヒューストン監督)に主演。しかし長年の薬・アルコール漬けに加え、白内障により視力も悪化。モンティのせいで撮影は遅れに遅れ、予算は大幅にオーバー。ユニバーサル社から提訴されるという事態を引き起こし、モンティ有利の和解で決着を見るも、以降トラブルメーカと見なされ、ハリウッドから干されてしまう。

映画界から締め出されたモンティは、テレビやラジオに仕事の場を移して活動。音楽番組やドキュメンタリー番組でナレーターを務めるなどした。

66年、4年ぶりとなる映画『ザ・スパイ』(独仏合作)に出演。この作品のあと、リズとの共演による『禁じられた情事の森』の撮影が予定されていた。

だが撮影開始を1ヶ月後に控えた7月23日、ニューヨークの自宅で心臓発作を起こし死亡。専属看護師との間でかわされた、「(昨晩TV放映された)『荒馬と女』は観たの?」「いや、まったく観てないよ」が生前最後の会話になったという。享年45歳。

遺作となった『ザ・スパイ』はモンティの死後に公開。『禁じられた情事の森』(ジョン・ヒューストン監督)は代役にマーロン・ブランドを立て、67年に公開されている。