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アイルランド魂の役者 スペンサー・トレイシー

 

ハリウッドの名優

スペンサー・トレイシーといえば、米アカデミー賞主演男優賞ノミネート9回、ゴールデングローブ主演男優賞ノミネート4回を誇るハリウッドの名優。37年の『我は海の子』と38年の『少年の町』では、立て続けに主演賞のオスカーを獲得している。

 

決して美男俳優ではないが、『少年の町』のフラナガン神父、『花嫁の父』のエリザベス・テイラーの父親、『老人と海』の孤独な漁師、『ニュールンベルグ裁判』の老判事など、一徹で誠実な男性像を演じ、アメリカの観客に広く支持された。

 

こうした役柄から、善良で落ち着いたイメージをもたれがちなトレイシーだが、実際はアイルランド系そのものの激しい気性の持ち主。初めの頃は殺人者やギャングなど、荒くれ者の役がほとんどだったという。

 

そんな性格で周囲との衝突も絶えなかったというが、名女優のキャサリン・ヘプバーンとは公私にわたるパートナーシップを結び、長く名コンビぶりを見せている。

 

舞台俳優から映画界へ

スペンサー・トレイシーは1900年4月5日、ウィスコンシン州ミルウォーキーで生まれた。父親は自動車工場の重役ながら、喧嘩っぱやいアイリッシュとして知られ、息子のスペンサーもその血筋を引き継ぐ。

アイリッシュにとって喧嘩は成長のための通過儀礼。スペンス少年は町でも学校でも喧嘩に明け暮れ、何度も退学処分になって、高校卒業まで15回も転校を繰り返したという。

1921年、医者を目指して地元の大学に進むが、演劇に興味を抱き、翌年ニューヨークに出て演劇アカデミーで演技を学ぶ。

そして卒業後に舞台俳優としてデビューを果たし、ドサ廻り公演で力をつけて、徐々に若手の演技派としてブロードウェイで頭角を現していった。

1920年代後半、『ジャズ・シンガー』(27年)の成功で映画はサイレントからトーキーの時代に移り変わり、ちゃんと台詞を喋れる役者が必要とされた。そこでニューヨークで活躍する多くの舞台俳優が、ハリウッドに引き抜かれていく。

スペンサー・トレイシーも、一度スクリーンテストを受けようとハリウッドの撮影所に向かうが、「背が低い(165㎝)」「醜い。といって悪役が出来るほどでもない」の理由で門前払いされてしまったそうだ。

こうしてブロードウェイに戻ったトレイシーだが、舞台初主演作『The Last Mile』がヒット。その舞台を観た、同じアイリッシュ系のジョン・フォード監督にスカウトされ、『河上の別荘』(30年)の主役に抜擢されることになる。

ちなみに、この映画で同じく映画初出演を果たしたのが、終生トレイシーの親友となるハンフリー・ボガートである。

トレイシーが男臭い脱獄囚を演じた『河上の別荘』はヒット。数年前に彼を「醜い」と言って門前払いした20世紀フォックス社とも契約を結ぶ。

 

ハリウッドきっての演技派俳優へ

トレイシーの演技は高く評価され、5年間で20作以上に出演するも、その顔立ちから与えられるのは悪役や荒くれ者の役ばかり。これに不満を抱いた彼は、「こんな愚作に出れるか」と平気で会社に文句をつけ、監督とは殴り合いの喧嘩をした。

酒で暴れてはセットを壊し、警察のお世話になることもしばしば。トレイシーに手を焼いたフォック社は、ついに彼との契約を打ち切ってしまう。

そんなトレイシーを救ったのが、彼の才能を評価していたMGM社の製作部長、アーヴィング・タルバーグ。大反対するルイス・B・メイヤー社長を「彼はMGMで最も貴重なスターとなる」と説得し、問題児を迎え入れた。

その期待に応え、36年に主演した『激怒』(フリッツ・ラング監督)が好評価。同年にクラーク・ゲーブルと共演した『桑港 / サンフランシスコ』が大ヒットを記録する。トレイシーはアカデミー賞主演男優賞に初のノミネート、映画スターの道を歩み始める。

翌37年の『我は海の子』(ヴィクター・フレミング監督)ではポルトガル漁師を好演、アカデミー主演男優賞に輝く。38年の『少年の町』で不良少年を更生させる実在の神父を演じ、2年連続で主演賞のオスカーを手にした。

 

トラブルの数々

こうしてハリウッドきっての名優としての地位を確立。ドル箱俳優としても、38年から51年の間に10度の “マネー・メイキング・スター” トップテン入り。クラーク・ゲーブルを凌ぐMGMの稼ぎ頭となる。ゲーブルとの仲は良かったが、MGMトップスターの座を巡っては、激しい敵愾心を見せたという。

しかし大スターとなっても彼の荒い気性は変わらず、作品の内容や序列をめぐってたびたび監督や俳優仲間と衝突する。

55年にウィリアム・ワイラー監督のサスペンス劇『必死の逃亡者』への出演が決まるが、クレジット第一位の序列を争って親友のハンフリー・ボガートと対立。結局降板してしまった。

56年には西部劇『悪人への貢ぎ物』の撮影に臨むも、当時新人監督だったロバート・ワイズを侮り、我がままのし放題だった。

撮影には遅刻する、監督の支持には従わない、ついにはロケ地が気に入らないから変えろと言い出す始末。これには若いワイズ監督も大激怒、大先輩のトレイシーをクビにする事件にまで発展する。

 

生涯のパートナー キャサリン・ヘプバーン

そんな扱いにくい男を、温かい眼と尊敬の念をもって見守ってくれたのが、公私ともにパートナーとなったキャサリン・ヘプバーンだった。

キャサリンは『我は海の子』でトレイシーを観て以来、彼との共演を熱望。42年の『女性No.1』(ジョージ・スティーブンス監督)で初共演を果たす。

二人の初対面で、170㎝と長身のキャサリンが「私のほうが背が高いみたいね」と話しかけると、トレーシーは「心配することはない。私の身長に合うように君を切ってしまうから」とワイルドに返答。

ハリウッドの優男に辟易としていたキャサリンは、トレイシーの男っぽさにたちまち惹かれていく。二人はすっかり意気投合、以後生涯9本の映画で名コンビとして共演し、互いに愛し合うようになる。

ハリウッドで二人の関係は公然の秘密。“じゃじゃ馬” と呼ばれたキャサリンが、かいがいしくトレイシーの世話をし、トレイシーも「マイ・ケイト」と親しく呼んだ。あの頑固者のアイリッシュが、キャサリンの言葉だけには素直に言うことを聞くという仲の良さだった。

実はトレイシーは妻子のある身。23歳で年上の女優ルイーズと結婚して、2人の子供をもうけたあと別居をしていた。だがカトリック教徒であることと、妻ルイーズが難聴者の息子を苦労して育てたという負い目があり、離婚することはなかった。

キャサリンはそんなトレイシーに理解を示し、妻ルイーズも二人の仲を知りながらトレイシとの良い関係を続けた。後年トレイシーが病に倒れると、キャサリンとルイーズが交代で彼を看病したという。

 
名優の死

壮年を過ぎてからも『老人と海』(58年、ジョン・スタジュース監督)、『ニュールンベルグ裁判』(61年、スタンリー・クレイマー監督)などで渋みを増した名演技を披露。67年の『招かざる客』(キャサリン・ヘプバーンシドニー・ポワチエ共演)では、9度目のアカデミー主演賞にノミネートされている。

だが、『招かざる客』クランクアップ17日後の67年6月10日、心臓発作で倒れたトレイシーをキャサリンが発見。病院に運ばれた彼は、25年をともに過ごしたパートナーに看取られながら、67年の生涯を閉じた。その葬儀に、キャサリンは「ルイーズに申し訳ない」という理由で出席していない。

スペンサー・トレイシーが亡くなって50年以上経つが、名優の繊細かつ自然体な演技は、今でも俳優たちの目指す模範となっている。