“スリーピング・アイ” と呼ばれる眠たげな目と、がっしりとした体格が印象的なロバート・ミッチャム。クールなタフガイとしてアクション映画で鳴らし、熟年期に入ってからは演技派へ転身。戦後のハリウッドで異彩を放った人気俳優だ。
1945年の『G・I・ジョウ』でアカデミー助演賞にノミネートされて注目を浴び、「バッドボーイ」のイメージで売り出して『十字砲火』『帰らざる河』『眼下の敵』などのフィルム・ノワール、西部劇、戦争映画などで活躍。50を過ぎてから出演した『ライアンの娘』『さらば愛しき女よ』といった作品では、風格の演技に男の哀愁を滲ませた。
若い頃はすさんだ生活を送り、俳優になってからも孤独癖の強いアウトローとしてふるまった。ハリウッド人種を嫌って華やかなパーティーやセレモニーをことごとく欠席。喧嘩っ早さでたびたびトラブルを起こし、大スターとなってからも「バッドボーイ」の姿勢を貫き続けた。
ロバート・ミッチャムは1917年8月6日、コネチカット州の港湾都市ブリッジポートで生まれた。1歳のときに造船所の労働者だった父が鉄道事故で死亡。その後母親が再婚し、一家でデラウェア州に移り住む。
子供の頃から皿洗いや農園の手伝いなどの労働に従事。しかし反抗的な態度で母親に持てあまされ、12歳のとき祖父母に預けられる。いよいよ孤独を深めたロバート少年は、騒動を起こして13歳で中学校を退学処分となってしまう。
そのあとニューヨークへ出て姉ジュリーと一緒に暮らすが、1年後にまたも学校を退学処分となる。家を飛び出したロバートは、鉄道をタダ乗りしながらアメリカ中を旅する放浪生活。排水溝工事や炭鉱夫などの仕事をしながら各地を巡った。
だが16歳のとき、保守的な南部のジョージア州サバンナで放浪罪により逮捕。チェーンギャング(囚人同士を鎖で繋ぎ、肉体労働に従事させること)の刑罰を受けている。
この放浪時代には、腕っぷしの強さを生かしてストリート・ファイター(街角の賭けボクサー)稼業。指を骨折してボクサー生活から退き、19歳となった36年には、再び姉を頼ってカルフォルニア州に向かう。姉のジュリーは少し前から女優を目指して、カルフォルニア州のロングビーチで働いていたのだ。
ロングビーチではステージバンドのメンバーとして活動し、ナイトクラブで歌う姉のために作詞をしたりもした。やがてその生活にも見切りをつけ、40年には幼なじみのドロシー・スペンサーと結婚するためデラウェア州に帰郷する。
第二次世界大戦中はロッキード社の飛行機工場に働き口を見つけるが、作業機械の騒音にストレスを募らせ、難聴と視力障害を患って退職。アマチュア劇団で演技の経験を積んだあと、姉のマネージャーの紹介を受けて、42年にボブ・ミッチャムの名前で俳優デビューを果す。
しばらくはエキストラとしての下積み時代を送るが、そのうち端役を得て20本あまりの映画に出演。ヒーローに殺される敵役をもっぱらとした。44年、『東京上空三十秒』で演じた爆撃機乗組員・ボブ・グレイ中尉役がRKO社の目に止まり、西部劇『ネバダ男』の主役に抜擢される。
するとその異彩を放つキャラクターが注目され、45年の戦争映画『G・I・ジョウ』でアカデミー助演男優賞にノミネート。飛躍のチャンスを得た。
だが新人なら誰でも喜んで出席する授賞式を、ミッチャムは「そんな派手なところには行きたくない」と欠席。そのことからアカデミー委員会の不興を買い、以後、賞とはほとんど縁のない俳優人生を送ることになる。
このあとユダヤ人問題を扱った『十字砲火』(47年)、悪女に翻弄される私立探偵を演じた『過去を逃れて』(47年)といったフィルム・ノワールの傑作に出演。クールなタフガイのイメージで人気を博していく。
そんなキャリアの登り坂にあった48年9月、新人女優の家で開かれたマリファナ・パーティーに出席し、一本吸い始めたところを警察に踏み込まれて現行犯逮捕。ハリウッドを騒がす大スキャンダルへと発展する。
ミッチャムは2年前にも、妻ドロシーの姉に暴力を振るって2日間拘留されるという事件を起こしており、マスコミは彼の過去を暴いて新進スターを批判した。
しかし皮肉なことに、ゴシップ・ジャーナリストが叩けば叩くほどミッチャムの人気は上昇。RKO社にはファンレターが殺到し、逮捕前に撮影した『荒原の女』は公開されるや大ヒットを記録する。元々彼が「バッドボーイ」イメージのスターであり、ハリウッド俳優のマリファナ使用など犯罪にも当たらないと思われたのである。
それまでの道徳意識に収まらないミッチャムのアンチ・ヒーローな佇まいが、新しい価値観を求める戦後の若者には魅力的なキャラクターと写っていたのだ。
ミッチャムは事件に対して特に弁明することなく、2ヶ月の禁固刑を言い渡されても涼しい顔。刑務所での取材では「規則正しい生活が送れていい休養になる」と、無頓着な態度でコメントするだけだった。
その2年後、ミッチャムの逮捕事件は、実は仕組まれた罠だったことが判明。アプレゲール(既成の道徳・規範にとらわれない戦後派)を快く思わない保守派によって、「バッドボーイ」の代表格だったミッチャムが狙われたのだと言われている。
51年1月にはロサンゼルスの裁判所と地方検事局によって冤罪が認定。そんな渦中にあっても何事にも動じず、「バッドボーイ」を貫いたミッチャムの人気はますます高まっていった
こうして人気者となったミッチャムは、マリリン・モンロー共演の『帰らざる河』(54年)、狂気の殺人鬼を演じた『狩人の夜』(55年)、Uボートと戦う駆逐艦艦長を演じた『眼下の敵』(57年)、戦争叙情大作『史上最大の作戦』(62年)、グレゴリー・ペック共演のサスペンス『恐怖の岬』(62年)、ジョン・ウェイン共演の西部劇『エル・ドラド』(66年)と、娯楽作を中心に多くの代表作となる映画に出演。
それらの作品では、異常犯罪者、タフな軍人、哀愁漂う中年ガンマンなど様々な人物を演じて役柄の幅を広げ、アカデミー賞こそ縁がないものの、淡々とした芝居で魅せる高い演技力が評価された。
だが大スターとなっても、「バットボーイ」の武闘派としての血が収まることはなかった。51年のコロラド州のあるホテルで起こった出来事では、バーで飲んでいるところを一人の大男に絡まれて殴り合いの乱闘。ピアノ一台を壊す大立ち回りの末に、床へ沈めたその大男は、なんとヘビー級の現役ボクサーだったという。
カリブ海の島でロケした『白い砂』(56年、ジョン・ヒューストン監督)の撮影中には、共演のデボラ・カーらとバーで飲んでいる最中にアメリカ水兵3人に絡まれ、無口なミッチャムは黙って彼らをノックアウト。それまで敬遠されていたデボラからも、「彼とまた仕事がしたい」と信頼を寄せられるようになる。
また熟年期を過ぎた82年にも、女性記者の態度に腹を立てて彼女のカメラを破壊。訴訟沙汰となる騒動を起こす。83年に珍しく雑誌のインタビューを受けたときも、酒に酔って人種差別の放言を繰り返し、釈明を求められるハメとなった。
70年には巨匠デヴィッド・リーン監督の『ライアンの娘』に出演。若い妻の浮気に苦悩しながらも、夫としての矜持を失わない中年教師を好演。演技派として新たな境地を拓いた。
74年には『ザ・ヤクザ』(シドニー・ポラック監督)で高倉健と共演。75年に出演したレイモンド・チャンドラー原作の『さらば愛しき女よ』では、探偵フィリップ・マーロウを風格の存在感で演じ、78年の『大いなる眠り』でも再びマーロウ役を務めた。
その後も長く映画やテレビドラマで活躍し、91年には『恐怖の岬』のリメイクとなる『ケープ・フィアー』(マーティン・スコセッシ監督)にグレゴリー・ペックとともにカメオ出演。同年には映画界への貢献により、全米映画審査委員から生涯功労賞が贈られた。
97年7月、カルフォルニア州サンタバーバラで肺がんと肺気腫の合併症により死去。79年11ヶ月の生涯だった。23歳の時に結婚した幼なじみのドロシー(2014年没)とは、終生を連れ添っている。