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サッカーの歴史や人物について

《サッカー人物伝》アレッサンドロ・ネスタ(イタリア)

 

「イタリアの防波堤」

 
均整のとれた体格に、オールラウンドな能力を兼ね備えた世界最高峰のセンターバック。空中戦でもフィールドでも1対1に絶対的な強さを誇り、切れ味鋭くボールを刈り取るスライディングはもはや名人芸。相手の攻撃をことごとく打ち返すその頑強さから「イタリアの防波堤」と呼ばれたのが、アレッサンドロ・ネスタ( Alessandro Nesta )だ。
 
ラツィオの生え抜きとして17歳でトップチームデビューを果たすと、若き主力としてスクデット獲得、コッパ・イタリア制覇、UEFAカップウィナーズカップ優勝に貢献。2002年に移籍したACミランでもマルディーニとともに堅陣を築き、UEFAチャンピオンズリーグ優勝など多くのタイトルをチームにもたらした。
 
イタリア代表ではファビオ・カンナバーロとCBコンビを組み、ユーロ2000の準優勝に大きな役割を果たす。ワールドカップにも中心選手として3度出場するが、いずれも故障により1次リーグで戦線離脱。06年W杯優勝のビッグタイトルを得たものの、主役として輝くことは出来なかった。

 

ラツィオの若きリーダー

アレッサンドロ・ネスタは1976年3月19日、ラツィオ州リエーティの小さな村に、3人姉弟の末っ子として生まれた。父ジュゼッペはイタリア国鉄の職員で、熱心なラツィアーレラツィオの愛称)だった。一家は父親の仕事の関係で首都ローマのチネチッタ地区に移り住み、アレッサンドロは3つ上の兄フェルナンドを追いかけるように、8歳で本格的なサッカーを始める。

するとその図抜けた才能が関係者の目に止まり、名門ASローマからスカウト。しかし生粋のラツィアーレだった父はその誘いを断り、アレッサンドロにSSラツィオの入団テストを受けさせた。

見事テストに合格したアレッサンドロは、9歳でラツィオの下部組織に入団。するとスピード、テクニック、フィジカル、戦術眼と、全てにおいて高い能力を発揮し、オールラウンドなMFとして活躍。ストライカーを務めることもあった。

12歳のときには急速な身長の伸びと激しい運動で脊椎せきついを痛め、一時サッカーを離れて療養の時期を過ごすも、この困難を乗り越えて1年で復帰。ここから成長のスピードを加速させ、チームの主力としてジョヴァニッシミ(13~14歳カテゴリー)リーグ優勝に大きく貢献。この活躍により、イタリアU-15代表にも選出される。

17歳となった93-94シーズンは、プリマベーラ(19歳以下カテゴリー)リーグで優勝。この頃からトップチームの練習にも参加するようになり、94年3月のウディネーゼ戦でセリエAデビューを果たす。

だが順調なプロキャリアを歩み始めた翌4月、練習中にポール・ガスコイン接触して片足骨折の重傷を負わせてしまう。危険なタックルを仕掛けてたガスコインに非があったが、責任を感じたアレサンドロはしばらくスランプに陥ってしまう。

それでも翌94-95シーズンは、プリマベーラとトップを往復しながらセリエAで11試合に出場。オールラウンダーとしてあらゆるポジションで試された期待の新星は、ようやくシーズン終盤に入ってセンターバックへと固定。19歳となった95-96シーズンは早くもレギュラーの座を掴み、23試合に出場した。

96-97シーズンも公式戦33試合に出場して安定感を増し、97-98シーズンは21歳にしてチームキャプテンへ就任。リーグ戦16連勝の快進撃を支えた。シーズン終盤に失速してスクデット獲得とはならなかったが、UEFAカップ(現EL)とコッパ・イタリアでは決勝進出を果たす。

UEFAカップインテル・ミラノに敗れてタイトルを逃すも、コッパ・イタリアではACミランを2戦合計3-2と打ち破って40年ぶり2度目の制覇。優勝を決める3点目を叩き出したのは、若き主将のネスタだった。その活躍により、この年のセリエA最優秀若手選手賞に選ばれる。

 

初めてのワールドカップ

96年3月には、まだ10代ながらU-21イタリア代表に選ばれて同カテゴリーの欧州選手権に出場。ファビオ・カンナバーロジャンルイジ・ブッフォンフランチェスコ・トッティクリスチャン・ヴィエリと次世代の大器が揃う中、守備の要としてイタリアの3連覇に貢献。本大会4試合のうち、スペインとの決勝で1失点したのみという鉄壁さだった。

この活躍により、6月にはユーロ96を戦うアズーリのメンバーに初選出。しかしイタリアは強豪ドイツと新興チェコの後塵を拝し、グループ3位で敗退。20歳のネスタはベンチ入りしたものの、1試合も出番がないまま大会を終える。

その後、7月のアトランタ五輪出場を経て、11月のW杯欧州予選・モルトバ戦でフル代表デビュー。3-1の勝利に貢献する。このまま代表レギュラーに定着し、3つ上のカンナバーロと強固なCBコンビを結成。W杯出場決定に大きな役割を果たした。

98年6月、Wカップ・フランス大会が開幕。初戦はサラス、サモラノを擁するチリに2-2と辛くも引き分けるが、第2戦でカメルーンに3-0と快勝。グループ首位突破を目指す第3戦の相手は、オーストリアだった。

だが試合開始4分、相手陣営に攻め入ったネスタがDFと激突して右膝前十字靱帯断裂の大怪我。ピッチに立つことは不可能となり、緊急帰国を余儀なくされる。このあと大ベテランのベルゴミがネスタの穴を埋め、イタリアは準々決勝まで進んだ。

 

悲願のスクデット獲得

98-99シーズンはワールドカップでの怪我により長期のリハビリを強いられるが、98年12月のコッパ・イタリア準々決勝で戦線復帰。チームに戻ったネスタはリーグ首位に立つチームを牽引するも、最後はザッケローニ監督率いるACミランに逆転されスクデットを逃す。

首位のミランとはわずか1ポイントという僅差だったが、UEFAカップウィナーズカップではスペインのマジョルカを退け初優勝。この年で終了した大会の最後のチャンピオントとなり、いくらかの溜飲を下げた。

翌00-99シーズン、ラツィオは前年の雪辱を果たすべくリーグ戦を快走。首位争いを演じるユベントスを1ポイント差でかわし、クラブ26年ぶり2度目となるスクデットを獲得する。さらにコッパ・イタリアも2年ぶりの優勝を果たし、タイトル2冠の快挙を達成。主将として2冠達成を支えたネスタは、初のセリエA最優秀ディフェンダー賞に輝く。

 

ユーロ準優勝とW杯の不運

2000年6月、ベルギー/オランダ共催のユーロ大会に出場。イタリアは1次リーグを3戦全勝と快調に勝ち抜き、準々決勝で難敵ルーマニアを2-0と撃破。準決勝は地元オランダと激戦を繰り広げ、PK戦を制して32年ぶり2度目の決勝に進む。

決勝の相手は、98年W杯王者のフランス。0-0で折り返した後半の55分、ペソットからのクロスをデルベッキオがボレーで決めてイタリアが先制。このあとネスタカンナバーロマルディーニを中心とした固い守備でフランスの反撃を阻み、試合はついに最終盤へ。イタリアの優勝が決ったかに思えた。

だがロスタイムの94分、カンナバーロがヘッドでクリアしたボールがヴィルトールに渡り、シュートを打たれて悪夢の同点弾。決勝は土壇場で延長へともつれる。

すると延長前半の103分、カンナバーロからのパスをアルベルティーニがコントロールミス。ボールを奪ったピレスの折り返しを、トレゼゲに叩き込まれてゴールデンゴールでの結末。イタリアは手中にしかけていた優勝を逃してしまった。

ユーロ後の9月から始まったW杯欧州予選では、世界屈指の守備陣をベースにグループ首位突破。8試合中6試合でクリーンシート、わずか3失点を喫したのみという堅陣さだった。

02年6月、Wカップ・日韓大会に出場。初戦はエクアドルに2-0の快勝を収め、順調なスタートを切る。第2戦はクロアチアと対戦。序盤から優位に試合を進めるイタリアだが、前半24分にネスタが負傷交代。イタリアは後半55分に先制するも、ネスタに代わって投入されたマテラッツィが機能せず、守備陣にミスが続いてしまう。

すると73分にはクロアチアに追いつかれ、直後の76分には逆転を許す。この試合を1-2と落としたイタリアは、最終節のメキシコ戦にグループ突破を懸けることとなった。

メキシコ戦でもネスタが先発に起用されるが、怪我の影響によりそのパフォーマンスは低調。後半終盤まで1点のリードを許す苦しい展開となる。だがイタリアが敗退の瀬戸際に追い込まれた85分、途中出場のデル・ピエロが値千金の同点弾。試合は1-1と引き分け、イタリアはグループ2位を確保して決勝トーナメントに進む。

しかしこのメキシコ戦でカンナバーロが累積警告を受けて次戦を出場停止。コンディションの上がらないネスタも先発を外れ、自慢のCBコンビを失ったイタリアは、トーナメント1回戦で地元韓国に1-2の逆転負け。主審の疑惑判定もあり、不運の敗退となってしまった。

 

ACミランへの移籍

02-03シーズンの開幕直前、サッカーバブルの崩壊により財政難に陥ったラツィオは、主力選手の売却を余儀なくされる。ネスタの獲得に名乗りを挙げたのはACミラン。生え抜きスター選手の放出にラツィアーレから抗議の声が上がるが、ネスタは「ラツィオを助けるためだ」とプロ生活の9年を過ごしたクラブを去って行った。

移籍したミランではさっそく守りの要として活躍。チームのバンディエラであるマルディーニと堅陣を築き、攻撃に偏っていたミランの守備を安定させた。

その活躍によりコッパ・イタリア優勝に貢献すると、チャンピオンズリーグではレアル・マドリードアヤックスインテル・ミラノといった強豪を打ち破り、8季ぶりとなる決勝へ進出。決勝はライバル、ユベントスとのイタリア対決となった。

強固な守備陣を誇る両チームの試合は互角の戦い。延長120分を終えて0-0とスコアは動かず、勝負の行方はPK戦にもつれ込んだ。PK戦は両者3人目まで進んでともに2人が失敗。先攻ユベントスの4人目も外すと、後攻に登場したネスタが冷静に沈めてPK成功。流れをぐっと引き寄せた。

そして最後はエースのシェフチェンコがゴール右隅に決め、PK戦を制したミランが9年ぶり6度目の栄冠に輝く。大会の全試合に出場したネスタは、チームの堅守を支えてビッグイアー獲得に大きく貢献。4年連続となるセリエA最優秀ディフェンダー賞に輝く。

翌03-04シーズンは移籍後初のセリエA優勝に貢献。04-05シーズンはリーグ2位に終わるも、イタリア・スーパーカップのタイトルを得る。チャンピオンリーグでは2季ぶりのファイナルへ進出。リバプールとの決勝は前半で3点をリードするが、後半に追いつかれてまさかのPK戦負け。「イスタンブールの奇跡(悲劇)」と呼ばれた歴史的敗戦を喫する。

05-06シーズンはリーグ2位に終わりタイトル無冠。だがシーズン終了後、セリエAを揺るがした一大不正事件、「カルチョポリ・スキャンダル」が発覚。これに関与したとされたミランも、勝点剥奪の処分を受けてしまう。

 

鬼門となったW杯

04年6月、ポルトガル開催のユーロ大会に出場。デンマークとの初戦をスコアレスドローとし、第2戦はスウェーデンと1-1の引き分け。最終節のブルガリア戦で2-1と勝利するも、得失点差でグループ3位に沈み敗退。前回準優勝のイタリアは早々と大会を去って行った。それでも9月から始まったW杯予選では、組み合わせに恵まれたこともあり危なげなく首位突破を決める。

06年6月、Wカップ・ドイツ大会が開幕。初戦はガーナを相手に2-0の完勝を収めるが、続く第2戦はアメリカの激しいプレスに苦しみ1-1の引き分け。グループ首位突破を懸ける第3戦は、チェコとの試合だった。

立ち上がりのチェコの攻勢を防いだ前半17分、ネスタが股関節の痛みを訴えてベンチへ退場。代わってマテラッツィが投入される。その10分後、トッティの右CKからマテラッツィが頭で合わせてイタリアが先制。終盤の87分にはインザーギの追加点が生まれ、2-0の勝利でグループ1位を決める。

負傷のネスタは戦線離脱を余儀なくされるが、イタリアはカンナバーロブッフォンを中心とした堅い守りで決勝へ進出。決勝ではユーロ2000で苦杯を舐めたフランスを延長・PK戦で下し、24年ぶり4度目の戴冠となった。

ネスタも優勝メンバーの一員として栄誉を手にしたが、決勝トーナメント以降は傍観者の立場。彼にとって、W杯は鬼門の大会。不本意な内容に終わってしまった。

このあとユーロ08予選でアズーリへの復帰を果たすが、たび重なる怪我により、07年8月に代表からの引退を表明。ネスタにとってW杯は鬼門の大会となってしまった。11年の代表歴では78キャップを刻んでいる。

 

ミランでのタイトル

06-07シーズン、肩を痛めたネスタはリーグ戦14試合の出場に留まるが、CLでは2大会ぶりの決勝進出に貢献。決勝では因縁のリバプールを2-1と打ち破り、「イスタンブールの悲劇」の雪辱を果たす。ファイナルのピッチに立ったネスタも、2度目のビッグイアーを掲げた。

07年12月には日本で行なわれたクラブW杯に出場。ネスタは決勝のボカ・ジュニアーズ戦で貴重な得点を挙げ、4-2の勝利に貢献。世界一クラブの名誉も手にする。

07-08シーズンには公式戦39試合出場と復調を果たすが、翌年は椎間板ヘルニアの手術を受けてシーズンのほとんどを棒に振ってしまう。それでも09-10シーズンにチームへ復帰すると、10-11シーズンは安定したパフォーマンスで7季ぶりとなるリーグ優勝に貢献。

そして翌10-11シーズンのプレーを最後に、10年間を過ごしたミランからの退団を発表。そのあとMLSモントリオール・インパクトに移籍し、13年10月に現役引退を表明した。しかし1年後の14年11月、代表の仲間だったマテラッツィに誘われ、彼が選手兼監督を務めるチェンナイインFC(インド・スーパーリーグ)で現役復帰。翌15年に36歳で現役を引退する。

引退後は北米サッカーリーグ(北米2部リーグ)マイアミFCの監督に就任。以降セリエBペルージャ、フロジノンの監督を経て、23年6月からはACレジェーナを率いている。