イタリア伝統の攻撃型左サイドバックとして活躍。長身で身体能力にも優れ、安定した守備力でセンターバックも務めた。親子二代でACミランのキャプテンとなり、サッカー界のサラブレッドと呼ばれたのが、パオロ・マルディーニ( Paolo Cesare Maldini )だ。
ファケッティ、カブリーニと続いたアズーリ左サイドバックの系譜を受け継ぎ、このポジションで世界最高の称号を得た。世界屈指の守備文化を持つカルチョの国でも、その存在は際立っていたとされる。
バンディエラを貫いたACミランで数々のタイトル獲得に貢献したが、4回出場したWカップと3回出場したユーロでは、ついに優勝を手にすることはなかった。
パオロ・マルディーニは1968年6月26日、ミラン60年代黄金期のキャプテンを務めていたチェーザレ・マルディーニの長男として、ミラノで生まれた。
現役引退後はサッカー連盟の委員として多忙を極めていた父親から、直接手ほどきを受けることはなかったが、パオロ少年は自然の流れでサッカーに親しむようになる。
幼少時は当時最強を誇ったユベントスに憧れるも、10歳のとき父親に「入団テストを受けたいクラブは?」と尋ねられ、迷わずミランを選択。ここからロッソネロ一筋のサッカー人生が始まった。
こうしてミランの下部組織に加わるが、父親の名声というプレッシャーに、ユース時代のパウロ少年は苦しめられることになる。プレーの善し悪しにかかわらず、「チェーザレの息子」という色眼鏡でしか見られなかったという。
それでも己を貫いたパウロ少年は、育成組織ではまず右ウィングとして、やがて左サイドバックとして卓越した才能を開花。84年、その能力に注目したリードホルム監督によって、16歳でトップチームに引き上げられる。
85年1月、ウディネーゼ戦で途中出場のプロデビュー。84-85シーズンの出番はこの1試合に終わるが、翌85-86シーズンは公式戦40試合に出場、早くもレギュラーSBの座を掴んだ。
86-87シーズンはリーグ戦29試合に出場、87年1月のコモ戦で初ゴールを記録している。当時のミランは財政難にあえぎ低迷が続いていたが、86年にクラブを買収したメディア王のベルルスコーニが会長に就任。チームを取り巻く環境は一変することになる。
87-88シーズン、ゾーン・プレス戦術を掲げるアリゴ・サッキがミランの監督に就任。フリット、ファン バステンといった強力な戦力も加わり、ミランは9シーズンぶりとなるセリエA制覇を果たす。
1対1の強さ、ヘディング、優れた状況判断、ピッチを縦横無尽に駆け抜ける走力、安定した守備と、SBに必要な資質をすべて兼ね備え、すぐにチームの主力となったパオロ。CBのバレージ、コスタクルタ、右SBタソッティで形成する守備陣は、リーグ30試合で僅か14失点という鉄壁さを誇った。
88-89シーズンは20季ぶり3度目のチャンピオンズ・カップ優勝を達成。ちなみにミランが初めてチャンピオンズ・カップ制覇を果たした62-63シーズンに、キャプテンを務めていたのは父親のチェーザレ。マルディーニ親子は二代にわたって、ミランでビッグイアーを手にすることになった。
翌89-90シーズンもチャンピオンズ・カップを連覇。トヨタカップでも2年連続優勝という偉業を成す。90年のトヨタカップは肩の脱臼で途中交代となったが、攻守で黄金期のチームを支えたパオロの名声は、父チェーザレを超えるものとなった。
若くして代表の主力へ
86年からU-21イタリア代表で活躍。この時の監督は父親のチェーザレだった。88年3月、18歳でA代表に初招集。31日に行われたユーゴスラビアとの試合で代表初キャップを刻む。
88年ソウル五輪のメンバー候補にもなるが、同年に行われた欧州選手権本大会(西ドイツ開催)のメンバーに選ばれたことでA代表に専念。初めての大舞台のピッチを踏むことになった。
イタリアはG/Lを西ドイツに続く2位で勝ち抜き、トーナメントの準決勝へ進出。準決勝では知将ロバノフスキー監督率いるソ連に0-2と完敗を喫するが、パウロは4試合すべてに先発出場を果たしている。
90年、自国開催のWカップに出場。イタリアはG/Lを3戦全勝で勝ち上がり、トーナメント1回戦でウルグアイを2-0、準々決勝でアイルランドを1-0と撃破し、準決勝へ進む。
イタリアの守備陣は、ここまでの5試合を無失点に押さえるという堅実さ。攻撃陣ではR・バッジオ、スキラッチといった新しいスターが躍動し、国民の期待は高まっていた。
準決勝は大会2連覇を狙うアルゼンチンとの戦い。前半17分、スキラッチのゴールでイタリアが先制。だが後半の67分にカニーヒアのヘディングゴールを許し同点。イタリアGKゼンガの無失点記録は、518分で途切れてしまう。
試合は1-1で延長に突入するも、120分を終わっても決着はつかず、勝負はPK戦にもつれる。PK戦はGKゴイゴチェアの読みが当たってアルゼンチンが制し、イタリアは準決勝敗退となった。
3位決定戦はイタリアがイングランドに2-1の勝利。パオロは7試合すべてにフル出場を果たし、アズーリ堅守の一翼を担ったが、地元優勝にはあと一歩届かなかった。
ACミランの90年代黄金期
91-92シーズン、ファビオ・カペッロがミランの監督に就任。ミランはリーグ戦34試合を無敗という、セリエA初の快挙を達成する。そのあとも92-93、93-94シーズンとリーグ3連覇。
この栄光の3年間でリーグ102試合を戦い、失ったのは僅か5ゲーム。94年にはパオロが専門誌の世界年間最優秀選手に選ばれている。
チャンピオンズリーグ(92年から改称)も92-93、93-94、94-95と3季連続で決勝に進出。94-95シーズンはクライフ監督の「ドリームチーム」バルセロナと戦い、事前の不利予想を覆して4-0の圧勝。パオロは欠場したバレージの代わりにCBを務め、自身3度目の栄冠に輝いている。
イタリアはユーロ92(スェーデン開催)のブロック予選で敗退、本大会出場を逃してしまうが、パオロが副キャプテンに任じられたWカップ予選では、無事1位通過を果たす。
悪夢のPK戦
94年6月、Wカップ・アメリカ大会が開幕。アリゴ・サッキ監督率いるイタリアは、初戦のアイルランド戦を0-1と落とし黒星スタート。次のノルウェー戦も大苦戦となる。
前半21分、イタリアのGKパリウカが反則行為を犯して退場処分。サッキ監督は第2キーパーを急いで送り出すと、代わりにエースのR・バッジオをベンチに下げた。
後半の48分には、キャプテンのバレージが膝を痛めて負傷退場。バレージはこのあと戦線離脱を余儀なくされ、その穴をパオロが埋めることになった。苦しい戦いを強いられるイタリアだが、69分にディノ・バッジオの決勝点が生まれてノルウェーに1-0。薄氷を踏む勝利で勝ち点を得た。
最終節はメキシコと1-1の引き分け。グループ全日程を終えて4チームが勝ち点・得失点差で並ぶという大混戦になるが、イタリアは辛うじて決勝トーナメントに勝ち上がった。
トーナメント1回戦はナイジェリアとの対戦。前半25分にパオロのクリアミスを拾ったアムニケのゴールでリードを許すと、後半の75分には、途中出場のゾラが僅か13分のプレーで一発退場。数的不利となったイタリアは、敗退の瀬戸際に追い込まれる。
だが終了直前の88分、R・バッジオが起死回生の同点弾。延長の100分にもR・バッジオがPKで決勝点を決め、息を吹き返したイタリアが準々決勝へ勝ち上がる。
準々決勝のスペイン戦も、R・バッジオの殊勲弾で2-1の勝利。準決勝ではブルガリアをR・バッジオの2得点で2-1と下し、ついにイタリアは82年大会以来の決勝へ進む。
決勝の相手は王国ブラジル。アメリカに残って膝の内視鏡手術を受けたバレージが、リハビリを経て24日ぶりにチームへ復帰。パオロとCBコンビを組む。
酷暑の中で行われた決勝は、両チームの選手の動きが重く、試合は淡々と進んだ。延長の120分が終わっても得点は生まれず、優勝杯の行方はPKに持ち込まれる。
イタリアは1人目のバレージ、4人目のマッサーロが外し、最後はRバッジオのシュートがバーを超えて、勝利の女神はブラジルに微笑んだ。
96年6月、ユーロ96(イングランド開催)の本大会に出場するも、イタリアはG/L3位で予選敗退を喫する。バレージはこの大会を最後に代表から退き、97年6月には選手生活を貫いたミランで現役を引退。
パオロはバレージから代表とミランのキャプテンを引き継ぎ、チームを牽引するリーダーシップとピッチで見せる存在感で「イル・カピターノ(ザ・キャプテン)」と呼ばれるようになる。
届かなかった代表タイトル
イタリアのキャプテンとなったパオロは、98年6月から始まったWカップ・フランス大会に出場。アズーリを率いる監督は、父親のチェーザレだった。
G/Lを2勝1分けと順調に勝ち抜き、トーナメント1回戦でノルウェーを1-0と完封。準々決勝は開催国フランスとの対戦になった。
フランスは出場停止明けのジダンを中心に多彩な攻めを展開。イタリアはパオロ、カンナバーロを中心とした堅い守りから速攻に繋げ、互角の戦いを繰り広げた。
後半フランスはアンリ、トレゼゲを投入。イタリアも不調のデル・ピエロに代えてR・バッジオを送り出すが、両者無得点のまま延長を終えてPK戦に突入する。
PK戦では5人目のディ・ビアッジョが外して準々決勝敗退。イタリアは3大会続けて、PK戦に涙を飲むことになった。
このあとユーロ2000(オランダ/ベルギー共催)の決勝でも再びフランスと相まみえるが、1点をリードした後半ロスタイムに追いつかれ、延長戦でゴールデンゴールによる逆転負け。またも代表のタイトルに届かなかった。
最後のワールドカップ
00年10月、Wカップ欧州予選のルーマニア戦で、ディノ・ゾフの歴代最多代表キャップ数を更新する113キャップを記録。02年6月には自身4度目となるWカップ、日韓大会に出場する。
フランス、アルゼンチンといった優勝候補が予選敗退を喫する中、イタリアもG/Lで苦戦。最終節のメキシコ戦でデル・ピエロの劇的な同点弾が生まれ、どうにかグループ2位でベスト16に勝ち上がる。
トーナメント1回戦の対戦相手は開催国の韓国。開始4分に韓国がPKのチャンスを得るも、安貞桓アン・ジョンファンが失敗。命拾いしたイタリアは、18分にヴィエリがCKから豪快なヘディングゴール。逆にリードを奪う。
だがこのあとモレノ主審の不可解なジャッジによりイタリアのチャンスは摘み取られ、韓国選手のラフプレーにペースを崩されていく。
後半イタリアは逃げ切りにかかるが、韓国は3枚の攻撃カードを次々に投入。攻勢を強める相手に、アズーリは次第に劣勢となっていった。
88分、パヌッチのクリアミスから韓国が同点ゴール。試合は1-1で延長に突入する。95分にトンマージのゴールがオフサイド判定で取り消されると、103分にはPエリアで倒されたトッティが逆にシミュレーションを取られて退場処分となる。
延長後半の117分、韓国の上げたクロスにパオロが安貞桓と競り合うも、ゴールデンゴールを決められ逆転負け。イタリアは失意のうちに大会を去ることになった。
パオロはこの試合を最後に、34歳で代表を引退する。代表の15年で刻んだ126キャップは、現在ブッフォン、カンナバーロに続くイタリア歴代3位の記録。そのうち74試合でキャプテンマークを巻いている。
4回出場したワールドカップではドイツのマテウス(25試合)に続く23試合に出場。だがその殆どでフル出場を果たしているため、出場時間(2,217分)では歴代1位となった。
02-03シーズンは、4回目となるチャンピオンズリーグ優勝を達成。03-04シーズンは7度目となるスクデットを獲得した。
04-05シーズンのチャンピオンズリーグ決勝では、パオロが開始1分で先制点を挙げるなど前半を3点リードしながら、後半に追いつかれてリバプールに「イスタンブールの奇跡」と呼ばれる屈辱の敗戦を喫してしまう。
06-07シーズン、雪辱を期して再びCL決勝でリバプールと対戦。2-1と勝利して2年前の借りを返し、キャプテンのパオロは5度目となるビッグイアーを掲げた。
07年12月には、日本で開催された第4回FIFAクラブワールドカップに出場する。準決勝の浦和レッズ戦で途中出場を果たすと、決勝のボカ・ジュニアーズ戦はフル出場。ミランの初優勝に貢献する。
09年5月、シーズン最終節のフィオレンティーナ戦をもって40歳で現役を引退。25シーズンを過ごしたACミランでは、公式戦902試合に出場、33ゴールの記録を残す。
引退後はガッリアーニ会長との確執でしばらくミランを離れるが、ガッリアーニ退陣後の18年にクラブに復帰。現在はミランのスポーツディレクターを務めている。