「 ワンダーボーイの苦悩 」
緩急の変化と一瞬の加速でDFを置き去りにし、天性のシュート術で得点を量産した稀代のゴールゲッター。10代にして卓越したストライカーとしてのシーンを見せつけ、世界を驚かせたイングランドの「ワンダーボーイ」が、マイケル・オーウェン( Michael James Owen )だ。
17歳5ヶ月の若さでリバプールのトップチームに昇格すると、いきなりデビュー戦で初ゴールを記録。2年目の97-98シーズンに史上最年少で得点王となり、翌シーズンも連続得点王に輝いた。00-01シーズンにはFAカップ、リーグカップ、UEFAカップ優勝の三冠獲得に貢献。代表での活躍と合わせてバロンドールに選ばれている。
イングランド代表でも18歳3ヶ月の同国史上最年少デビュー。98年W杯のアルゼンチン戦で衝撃的なゴールを決め、一躍21世紀のスーパースター候補に名乗りを上げた。そのあとイングランドのエースとして活躍を続けるが、06年W杯で大会中に重傷を負い無念の帰国。20代半ばでキャリアのピークを終えた。
「ワンダーボーイ」の登場
マイケル・オーウェンは1979年12月14日、イングランド北西部チェシャー州の中心都市チェスターに、サッカー選手テリー・オーウェンの4番目の子供として生まれた。マイケル少年は兄弟の中で最も運動能力に秀で、ボクシングやゴルフでも非凡なものを見せていたという。
7歳の時に本格的なサッカーを始め、ジュニアゲームの20分間で9ゴールを決めるなどさっそく天賦の才能を発揮。8歳でデイーサイド・スクールのU-11チームに選出され、9歳でキャプテンに就任。10歳からの2シーズンで97得点のチーム記録を打ち立て、早くも多くのスカウトから注目される選手となった。
マンチェスター・ユナイテッド、チェルシー、アーセナルといった名門クラブから関心を寄せられる中、ハイスクールに進学した13歳でリバプールの下部組織に入団。そのあとFAのサッカースクールにも通い、英才教育を受けている。
そして15歳のときユース代表に選ばれ、20試合で28得点を記録するなど、いくつものストライカー・レコードを更新。もはやオーウェンの輝ける将来を疑う者はいなかった。
16歳になるとリバプールとの練習生契約を結び、18歳の選手が占めるユースチームでプレー。FAユースカップでは2度のハットトリックを達成し、決勝でも得点を奪ってリオ・ファーディナンド、フランク・ランパードを擁するウェストハム・ユースを4-1と撃破。5試合11ゴールの大活躍で優勝の原動力となる。
そのあと17歳の誕生日にクラブとプロ契約。その5ヶ月後の97年5月6日、シーズン終盤のウィンブルドン戦で試合後半に交代出場。オーウェンは出場1分足らずでプロ初ゴールを記録し、ゲームは1-2と敗れたものの、鮮烈なプレミアデビューを飾った。
翌97-98シーズン、エースストライカーとして期待されたロビー・ファウラーの故障離脱により、FWのレギュラーに抜擢。すると36試合で18ゴール(3選手が同得点)を決めるという期待以上の働きで、プレミア史上最年少の得点王に輝くとともにPFA年間最優秀若手選手にも選ばれ、「ワンダーボーイ」と呼ばれるようになった。
衝撃のワールドカップゴール
97年6月、マレーシア開催のワールドユース選手権に出場して4試合で3得点を記録。そのパフォーマンスはすでにユースレベルを超えており、国民からの期待の高まりを受けて、同年10月にはフル代表に初招集される。
そして翌98年2月11日の親善試合、チリ戦でA代表デビュー。この時オーウェンは18歳と59日。これはイングランド50年代の伝説的プレーヤー、ダンカン・エドワーズの代表最年少出場記録を43年ぶりに更新するものだった。
デビュー戦でゴールは生まれなかったが、チリ守備網を切り裂いたオーウェンのスピードはグレン・ホドル監督を納得させ、98年W杯のメンバーに選出。本番直前のテストマッチ、モロッコ戦で史上最年少の代表初ゴールを記録する。
98年6月、Wカップ・フランス大会が開幕。初戦のチュニジア戦で2-0とリードした終盤85分に、交代による初出場を果たす。そして続くルーマニア戦、1点をリードされた後半73分に投入。その5分後、ベッカムのパスからシアラーがゴール前に折り返し、それに反応したオーウェンが同点ゴールを決めた。
試合は終了直前に勝ち越し点を許して、1-2の敗戦。するとG/L突破を懸けた最終節は、オーウェンがW杯初先発。同じく初先発となったベッカムのFKでコロンビアを2-0と下し、ベスト16に進んだ。
トーナメントの1回戦はアルゼンチンと対戦。開始6分、バティストゥータのPKでアルゼンチンが先制。だがその4分後、DFラインを抜け出したオーウェンがPエリア内で倒されてPKを獲得。これをシアラーが決め同点とする。
さらにその6分後、センターライン付近でベッカムのパスを受けたオーウェンが、相手DFを振り切り40mを独走。エリア前に立ちふさがるアジャラも軽快なステップでかわし、右足による勝ち越し弾を叩き込んだ。
しかし前半終了直前に追いつかれると、後半に入った47分、シメオネへの報復行為でベッカムが一発退場。10人となったイングランドは必死の防御でPK戦に持ち込むが、相手GKの好守に阻まれ敗退となった。
それでも世界に強烈なインパクトを与えた18歳オーウェンのシュートは、21世紀のニュースター誕生を印象づけるものとなった。
バロンドール受賞
98-99シーズン、30試合18ゴール(3選手が同得点)で2年連続の得点王を獲得、持てるポテンシャルの高さを証明した。しかしシーズン終盤にハムストリングを痛めると残り試合を欠場、治療に予想以上の月日を費やし、これ以降オーウェンの故障は慢性化していく。
99-00シーズンは怪我に悩まされながらも27試合で11ゴール。00-01シーズンはコンディションを取り戻し、28試合で16ゴールを記録。チームはアーセナル、マンUとの優勝争いを演じリーグ2位。そしてFAカップ、リーグカップ、UEFAカップ優勝のカップ・トレブル(三冠)を達成する。
中でも01年5月に行なわれたFAカップ決勝のアーセナル戦では、残り10分でオーウェンが2得点を挙げて逆転勝利。53年FAカップ・ファイナル「マシューズの決勝」に掛けて、「マイケル・オーウェンの決勝」と呼ばれた。
同時期に行なわれていたW杯予選では、同組のライバルであるドイツ相手にハットトリックを記録するなど6得点の活躍。イングランドを2大会連続のW杯出場に導き、リバプールでの実績と合わせてこの年のバロンドールに選ばれた。
その後も怪我と付き合いながら、01-02、02-03シーズンは19ゴール、03-04シーズンはハムストリングを再発しながらも16ゴールを挙げ、常にチームのトップスコアラーであり続けた。
故障に苦しむ代表エース
00年6月にはユーロ2000(オランダ、ベルギー共催)に出場するも、故障の影響でコンディションは悪く、ルーマニア戦で1得点を挙げたのみ。イングランドはグループ3位で敗退となった。
02年6月、Wカップ日韓大会が開幕。「死のF組」に入ったイングランドは、第1戦でスウェーデンと1-1で引き分けた後、第2戦で因縁のアルゼンチンと対戦する。0-0で進んだ前半終了直前の44分、Pエリアで仕掛けたオーウェンが倒されPKを獲得。ベッカムが汚名返上のゴールを叩き込み、残り時間を全員で守り切って1-0の勝利。4年前の雪辱を果たした。
最終節はナイジェリアと0-0で引き分け、グループ2位でベスト16に進出。トーナメントの1回戦はオーウェンのゴールなどで前半デンマークを3点リードするが、古傷を痛めて後半に交代。オーウェンは故障を抱えたまま、準々決勝のブラジル戦に臨む。
それでも前半の23分、ヘスキーからのパスにオーウェンが巧みなコース取りでDFルッシオの裏を突き、キーパーと1対1。ループで頭上を抜いて先制点を挙げる。しかしその後リバウドとロナウジーニョのゴールで逆転を許し、動きの止まったオーウェンは79分に交代。イングランドは1-2と敗れて大会を去ることになった。
04年6月にはポルトガル開催のユーロ04に出場。オーウェンは18歳の「新ワンダーボーイ」ウェイン・ルーニーと2トップを組むが、そのプレーは精彩を欠き、グループ3試合で無得点。4得点を挙げたルーニーの陰に隠れてしまった。
G/Lをフランスに続く2位で突破したイングランドは、準々決勝で地元ポルトガルと対戦。開始3分、相手のミスからオーウェンが抜け出し体を回転させてのゴール。イングランドが早くも先制した。
27分にはルーニーが負傷退場。後半ルイス・フィーゴとクリスティアーノ・ロナウドを中心に攻勢をかけるポルトガルに対し、イングランドは徹底的に守りを固めて逃げ切りにかかる。
しかし終盤に入った83分、フィーゴに代わって投入されたポスティガがヘッドで同点弾。試合は延長戦に突入した。延長前半の100分、途中出場のルイ・コスタがドリブルで駆け上がり、右足を振り抜いて鮮やかな逆転弾。勝負は決まったかに思えた。
だが延長後半の115分、ベッカムの右CKをテリーが頭で折り返し。それをランパードがゴールに叩き込み、イングランドが土壇場で追いつく。
白熱したゲームの決着はPK戦へ。イングランドは1人目ベッカムがボールを吹かすも、ポルトガルのルイ・コスタもキックを失敗。オーウェンら続く選手がゴールを決め、勝負はサドンデスへと突入した。
そしてイングランド7人目のキックを、ポルトガル守護神リカルドがストップ。最後はそのリカルド自らがPKを成功させ、イングランドは敗退となった。
苦闘の日々
04-05シーズン、信頼を寄せていたジェラール・ウリエ監督の退任に伴い、長年過ごしたリバプールを離れレアル・マドリードへ移籍。「ロス・ガラティコス(銀河系軍団)」の一員となる。
レアルでは36試合13ゴールとまずまずの成績を残すが、スーパースターが居並ぶチームにあってその存在は埋没。05年の夏にクラブがロビーニョら新たなFW選手の獲得を発表すると、オーウェンは1シーズンでの退団を決意する。
移籍に当たって古巣リバプールへの復帰を希望するが、移籍金の条件が合わなかったためニューカッスルと契約。しかし移籍した05-06シーズンも故障に苦しみ、05年12月末の試合で右足第5中足骨を骨折。長期離脱を余儀なくされ、ようやく06年4月に戻ってくるも、足の状態が万全でないままシーズンを終えた。
イングランド代表にはW杯本番直前に復帰し、6月から始まったドイツ大会に出場する。故障明けのルーニー(4月に右足第4中足骨を骨折)がベンチスタートとなり、オーウェンはクラウチと2トップを組み先発出場。しかしコンディションは上がらず、第1戦のパラグアイ、第2戦のトリニーダード・トバコとともに後半開始10分で途中交代。それでもイングランドは2連勝でG/L突破を決めた。
最終節のスウェーデン戦は、戦線復帰したルーニーとともに先発出場。しかし開始わずか51秒、タッチライン沿いで芝生に足をとられたオーウェンが膝をねじり、右膝前十字靱帯断裂の重傷。無理に無理を重ねた結果だった。
担架で運ばれたオーウェンが無念の帰国をしたあと、イングランドは準々決勝まで勝ち上がるが、ベッカムが足の負傷、ルーニーがレッドカードで退場となり、ポルトガルに敗れてしまった。
ガラスの神童
怪我の治療には1年近くを費やし、ようやく06-07シーズンの終盤に復帰。07-08シーズンは11ゴールと復活の兆しを見せるが、ハムストリング負傷の再発、ヘルニアの手術など、故障と闘う日々が続いた。
08-09シーズン、ニューカッスルはプレミア18位に沈み、2部リーグへ降格。クラブをフリーとなったオーウェンは、ファーガソン監督からのアプローチを受けマンチェスター・ユナイテッドと契約。レアル・マドリードへ移籍したC・ロナウドに代わり、栄光の背番号7を背負うことになった。
ユナイテッドではデビュー戦でゴールを挙げるなど順調なスタートを切るが、ここでも故障に苦しみ19試合3ゴールの成績。翌10-11シーズンも鼠径部を痛め11試合2ゴールと低迷すると、11-12シーズンは完全に出番を失い、カップ戦と合わせて2試合の出場。クラブとの契約は打ち切られた。
12-13シーズンはストーク・シティへ移籍。しかしここでもハムストリングの故障により満足なプレーが出来ず、挙げたゴールはわずかに1つだった。そして13年5月19日、シーズンラストのサウサンプトン戦を最後に33歳で現役を引退する。
11年の代表歴で89試合40得点を記録。プレミアリーグでは通算150ゴールを挙げているが、そのうち118ゴールは25歳在籍在籍したリバプール時代のもの。“神童” と呼ばれた男の早すぎるピークだった。
引退後はサッカー界から離れ、企業のイメージキャラクターとして活動するほか、競馬好きが高じて百頭以上を抱える厩舎のオーナーを務めている。