サイレントノイズ・スタジアム

サッカーの歴史や人物について

《サッカー人物伝》アリエン・ロッベン(オランダ)

 

「電光石火の爆走王」

電光石火のドルブルでサイドを切り裂き、相手DFを混乱に陥れた爆速ウィンガー。一気の縦突破から中央へ鋭くカットインし、左足から放たれる正確無比のシュートでゴールを奪った。あまたの名将に重用され、多くのタイトル獲得に貢献。オランダ史上最高のアタッカーと呼ばれたのが、アリエン・ロッベン( Arjen Robben )だ。

 

エールディヴィジで若き快速王の名を馳せると、04年に移籍したチェルシーでも攻撃の主力として活躍。プレミア新勢力のリーグ2連覇に貢献する。そのあとレアル・マドリードを経て09年にはバイエルン・ミュンヘンに移籍。フランク・リベリーと黄金の両翼を形成し、ブンデスリーガ1強を誇るチームの中核を担った。

 

オランダ代表では3度のW杯と3度のユーロに出場。10年W杯南アフリカ大会では初の栄冠を目前にしながら、肝心な場面でシュートを外してしまいスペインに優勝をさらわれた。14年W杯ブラジル大会ではそのスペインと初戦で再戦。鮮やかな2ゴールを決めて前回王者を予選リーグ敗退に追い込んだ。

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パオロ・タビアーニ監督 死去

 

イタリアの兄弟監督

『父 パドーレ・パドローネ』『グッドモーニング・バビロン!』などの作品で知られるイタリアの映画監督兄弟、弟のパオロ・タビアーニさんが2月29日に、ローマ市内の病院で亡くなったことが伝えられた。

死因は明らかにされていないが、近年は闘病生活を送っていたという。享年92歳。

パオロさんは1931年11月生まれのトスカーナ地方のサン・ミニアート出身。兄のヴィットリオさんとは2つ違いだった。父親はアンチ・ファシズムの弁護士で、兄弟は音楽教育(パオロはヴァイオリン、ヴィットリオはピアノ)を受けて育ったという。

一家がピサに移住すると、兄弟は地元の高校・大学に通い、パオロは文学を、ヴィットリオは法律を専攻。だが48年にロベルト・ロッセリーニ監督の『戦火のかなた』を観て刺激を受けた二人は、大学を中退。ミラノでシネクラブの活動をしたあと、54年にローマに出てドキュメンタリー映画を撮った。

しばらくの間、他者との共同制作によるドキュメンタリー作品を発表し続け、67年には初めて兄弟だけによる監督作品『危険分子たち』を発表。74年の『アロンサンファン/気高い兄弟』はカンヌ国際映画祭で上映され、徐々に注目される。

77年、サルディーニャの羊飼いの息子から言語学者になったガヴィーノ・レッダの半生を描いた『父 パドーレ・パドローネ』がカンヌ国際映画祭パルムドールを受賞。その後も『サン★ロレンツォの夜』(82年)『カオス・シチリア物語』(84年)と話題作を発表し、世界に知られる監督兄弟となる。

87年、D・W・グリフィス監督『イントレランス』(1916年)の撮影現場を舞台にした『グッドモーニング・バビロン!』を発表。作品は日本でもヒットを記録し、話題となった。

二人の共同監督ぶりは、徹底した平等主義。兄弟で同じカメラを交互に覗き、映画を構築していったという。

2012年には『塀の中のジュリアス・シーザー』がベルリン国際映画祭金熊賞を受賞。18年には兄ヴィットリオが88歳で亡くなってしまうが、パオロさんはそのあとも一人で仕事を続け、22年の『遺灰は語る」が遺作となった。

《サッカー人物伝》ウェイン・ルーニー(イングランド)

 

「赤い悪魔の怪童」

スピード、パワー、テクニック、運動量とすべてに秀でた万能ストライカー。高い決定力と献身性を備え、チームを勝利に導いた。またパスセンスにも優れ、チャンスを見極める戦術眼も確か。現代プレミアリーグを代表するFWとして活躍したのが、ウェイン・ルーニー( Wayne Mark Rooney )だ。

エバートンの練習生時代に、アーセナルの30戦無敗記録を止める殊勲弾。プレミアリーグ最年少ゴール記録を更新し、「神童現る」と世界を騒がせた。13シーズンを過ごしたマンチェスター・ユナイテッドでは、常に攻撃の中心として活躍。ファーガソン政権後期の黄金期を支えた。

イングランド代表でも、史上最年少の17歳で国際Aマッチデビュー。04年のユーロでは4ゴールを挙げる活躍を見せ、その実力がフロックでないことを証明する。しかし06年W杯と10年W杯は期待を裏切る成績。代表ではいまひとつ輝けないまま終わった。

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元西ドイツ代表DF アンドレアス・ブレーメ死去

 

90年W杯優勝メンバー

20日、元西ドイツ代表DFで90年W杯優勝メンバーのアンドレアス・ブレーメ( Andreas Brehme )さんが、心不全によりミュンヘンで急死したことが同氏のパートナーを通じて伝えられた。享年63歳。

現役時代のブレーメさんはプレースキックの名手として活躍。ドイツの強豪バイエルン・ミュンヘやイタリアのインテルミラノでタイトル獲得に貢献。西ドイツ代表では主に左サイドバックを務め、正確なクロスを供給して90年W杯イタリア大会制覇に大きな役割を果たした。

西ドイツ代表の同僚だったカール・ハインツ・ルンメニゲからは、「アンディは非情に忠実で信頼できるプレーだった。彼が63歳で亡くなったことをとても悲しく思う」とのコメントが寄せられている。

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異端の貴公子 モンゴメリー・クリフト

 

演技派の美男スター

陰影を帯びた美しいマスクと、知性に裏付けられた確かな演技。そのナイーブな佇まいに、危うさの魅力で観客を惹きつけたモンゴメリー・クリフト。”モンティ” の愛称で人気を博す一方、周りに酌みしない反骨心を持ち、同年代のマーロン・ブランドジェームズ・ディーンとともに「反逆のスター」と呼ばれた。

 

若くして舞台俳優としての名を馳せ、高い演技力で「天才少年」とも謳われた。しばらく映画界からの誘いを断り続けるが、1948年の『山河遙かなり』でスクリーンデビュー。いきなりアカデミー賞の主演男優賞にノミネートされ、一躍ハリウッドの寵児となる。

 

銀幕のスターとなりながらも出演作を厳選。『陽の当たる場所』『地上ここより永遠に』『ニュールンベルグ裁判』などの作品で名を残すが、自分が演じたいと思わなければ、どんな大作・話題作だろうとオファーを受けなかったという。

 

しかし着実にキャリアを築いていた56年、自動車事故を起こして顔面粉砕の致命的重傷。整形手術を繰り返して俳優に復帰するも、痛みの後遺症から薬物やアルコールに頼るようになり、自身の寿命を縮めていった。

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《サッカー人物伝》アレッサンドロ・ネスタ(イタリア)

 

「イタリアの防波堤」

 
均整のとれた体格に、オールラウンドな能力を兼ね備えた世界最高峰のセンターバック。空中戦でもフィールドでも1対1に絶対的な強さを誇り、切れ味鋭くボールを刈り取るスライディングはもはや名人芸。相手の攻撃をことごとく打ち返すその頑強さから「イタリアの防波堤」と呼ばれたのが、アレッサンドロ・ネスタ( Alessandro Nesta )だ。
 
ラツィオの生え抜きとして17歳でトップチームデビューを果たすと、若き主力としてスクデット獲得、コッパ・イタリア制覇、UEFAカップウィナーズカップ優勝に貢献。2002年に移籍したACミランでもマルディーニとともに堅陣を築き、UEFAチャンピオンズリーグ優勝など多くのタイトルをチームにもたらした。
 
イタリア代表ではファビオ・カンナバーロとCBコンビを組み、ユーロ2000の準優勝に大きな役割を果たす。ワールドカップにも中心選手として3度出場するが、いずれも故障により1次リーグで戦線離脱。06年W杯優勝のビッグタイトルを得たものの、主役として輝くことは出来なかった。
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破滅の女神のスキャンダル ラナ・ターナー

 

官能の人気女優

たぐいまれな美貌とファム・ファタールな魅力で殿方を虜にし、40~50年代ハリウッドで活躍した女優のラナ・ターナー。複雑な家庭環境で育ちながら、スカウトされて映画界入り。端役のスタートだったが、豊満な胸を強調したタイトなニット姿で「セーター・ガール」と呼ばれて注目を集める。

 

その後もブロンド髪とグラマラスなボディを武器に、第二次世界大戦中にはピンナップ・ガールとしても人気を博す。46年の映画『郵便配達は二度ベルを鳴らす』では、官能的なヒロイン役が評判を呼び、一流スターの座を確立。ハリウッドで最もギャラを稼ぐ女優となり、大衆文化のアイコンとしてもてはやされた。

 

恋愛遍歴の賑やかさでも知られ、8回の結婚、離婚を繰り返す。また恋多き女としてクラーク・ゲーブルタイロン・パワーヴィクター・マチュアといったスターたちとも浮き名を流した。58年には娘シェリルがラナの愛人を刺殺するという事件が起き、スキャンダルに馴れっこだったハリウッドを騒然とさせている。

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