「ドリブルキングの転落」
”ペダラータ” と呼ばれる高速シザーズを駆使し、寄せてくる相手を眩惑。変幻自在の足技で相手DFを手玉にとり、「レイ・デ・ドリブレ(ドリブルキング)」と呼ばれた。小柄ながらフィジカルは強く、敵を引きつけてからのパスでチャンスを演出。観る者を魅了し「新しいペレ」と称されたのが、ロビーニョ( Robson de Souza )だ。
少年時代から「天才ドリブラー」としてその名を知られ、19歳でスペインの名門レアル・マドリードと契約。3トップの一翼を担って06-07、07-08シーズンのリーガ・エスパニョーラ2連覇に貢献する。そのあとACミランでも活躍するが、13年に起こした性犯罪により、懲役9年の有罪判決。輝けるキャリアに暗い陰を落とした。
ブラジル代表では、07年のコパ・アメリカ優勝に貢献。6ゴールを挙げてチームの攻撃を牽引し、大会得点王とMVPに輝く。06年ドイツW杯では「カルテット・マジコ」の壁に阻まれ出場機会は少なかったが、10W杯南ア大会ではレギュラーとして4試合に出場。だが準々決勝でオランダに逆転負けし、目標の優勝に届かなかった。
ペレの認めた天才少年
1984年1月25日、ロビーニョことロブソン・デ・ソウザは、サンパウロ州の港町サントス近隣にあるスラム街、サン・ビセンテで生まれた。父ジルバンは配管工、母マリーナは清掃員として働くも、一人息子にロクな食事が与えられないほど、暮らしは貧しかった。そのため背が伸びずに育った少年は、友達から「ロビーニョ」(ちっちゃなロブソン)のあだ名で呼ばれる。
幼い頃からテニスボールを蹴って遊び、4歳でストリートサッカーに熱中。すると子供レベルを超えた足捌きが関係者の目に止まり、6歳でフットサルチームの「ベイラ・マール」に入団。コーチの指導を受けてドリブルテクニックを磨いていった。
9歳になると有名フットサルクラブ「ポルトゥアリオス」に移籍。1シーズンで73ゴールを挙げなど驚異的な活躍を見せ、「天才少年現る」と注目される。
フットサルでプレーを続けていた99年、地元で開催された大会での活躍をきっかけに、15歳でサントスFCのフットサル部門へ引き抜き。ここで3ヶ月プレーしたのち、サッカーへの転向を目指して、サントスユースのセレクションに挑戦。見事合格を果たし、プロ選手への道を進み始める。
そのサントスユースで臨時コーチを務めていたのが、クラブのレジェンドOBであるペレだった。ロビーニョの華麗な足技を目にしたペレは、彼のプレーに一目惚れ。「君には才能がある。若い頃の自分を見るようだった」と、少年を激励したという。
その期待に応え、01年のU-17サンパウロ州選手権では得点王の活躍で優勝に貢献。かつて貧弱だった身体も、充分な栄養とトレーニングにより強靱な肉体へと変貌していた。
すると02年には18歳でトップチーム昇格を果たし、3月のグアラニ戦でプロリーグデビュー。同シーズンのブラジレイロ(全国選手権)では30試合10ゴールの好成績を残し、クラブ20年ぶりの優勝に貢献する。
翌03シーズン、ブラジルチャンピオンのサントスはコパ・リベルタドーレスに出場。ロビーニョは6ゴールの活躍でチームを40年ぶりの決勝に導くも、アルゼンチンの強豪ボカ・ジュニアーズに敗れて南米制覇に届かなかった。
誘拐事件と移籍騒動
プロ3年目の04シーズン、ブラジレイロで35試合21ゴールと大活躍。2年ぶり優勝の立役者となり、国内最優秀選手賞にも輝く。こうしてブラジルで最も期待される若手となったロビーニョには、スペインの名門レアル・マドリードへの移籍も噂されるようになった。
そんなときに起こったのが、母マリーナの誘拐事件。ヨーロッパで大金を掴むであろう有望選手から、身代金をせしめるための犯行だった。
この事件により、レアルとの間で進められていた移籍交渉は中断。ロビーニョは犯人側の要求で試合にもトレーニングにも参加出来ず、不安な日々を過ごす。
結局ロビーニョと父親は政府機関からお金を借り、20万レアルの身代金と引き替えに母親を解放。40日あまりの監禁から解き離れた母はひどく衰弱していたものの、身体は無傷で済んだ。
そのあとレアルとの交渉が再開するも、高額の移籍金を求めるサントスとの話し合いは難航。レアルへの移籍交渉は暗礁に乗り上げた。これに業を煮やしたロビーニョは、サントスの練習をボイコット。クラブに無断でレアルのメディカルチェックを受ける。
するとこの行動がサントス側とサポーターの反感を買い、ブラジルサッカー連盟を巻き込んだ大騒動へと発展。事態はさらに紛糾するかに思えたが、そこへロビーニョを擁護するペレが仲裁。サントスの移籍金要求は減額され、05年7月にレアルとの5年契約が成立する。
移籍したレアルではルイス・フィーゴの後釜として10番を与えられ、1年目の05-06シーズンは、サイドハーフとして公式戦51試合12ゴールの好成績。次シーズンのさらなる飛躍に大きな期待が寄せられた。
03年7月、CONCACAFゴールドカップ(北中米・カリブ海選手権)のメキシコ戦で、国際Aマッチデビュー。招待出場だったブラジルはこの大会にU-23チームを送り込んでいたため、04年9月のW杯南米予選・ボリビア戦が、ロビーニョのフル代表初キャップとなった。
翌05年2月の香港戦で代表初ゴールを決めると、6月にドイツで開催されたコンフェデレーションズカップに出場。日本戦などで2ゴールを挙げ、ブラジルの優勝に貢献する。
W杯南米予選では18試合中8試合に出場(2ゴール)するも、ロナウド、ロナウジーニョ、カカ、アドリアーノで構成する強力攻撃陣「カルテット・マジコ」の壁に阻まれ、レギュラーの座は掴めず。それでもW杯メンバーの23人に選ばれ、初の大舞台に臨むことになった。
06年6月、Wカップ・ドイツ大会が開幕。ブラジルは初戦のクロアチアに1-0、第2戦のオーストラリアに2-0と連勝を収め、早くもグループ突破を決定。ベンチメンバーのロビーニョは、いずれも後半途中にロナウドと代わってピッチに立った。
最終節の相手は、母国の英雄ジーコ率いる日本。主力5人を休ませたブラジルは、FWの先発にロビーニョを起用。初めてロナウドと2トップを組ませた。試合は前半に日本の先制を許すも、ロナウドのW杯通算最多得点記録を更新するゴールなどで4-1の圧勝。ロビーニョにゴールは生まれなかったが、得意のドリブルで日本の守備をかき回した。
トーナメント1回戦ではガーナを3-0と退け、準々決勝でフランスと対戦。0-1のビハインドで迎えた後半の79分、カカに代わってロビーニョが2試合ぶりにピッチへ登場。だが交代直後に放ったシュートはゴールを捉えきれず、レ・ブルーの堅守の前に敗れ去った。
レアルの10番
06-07シーズン、イタリアの名将ファビオ・カペッロがレアルの監督(9年ぶり2度目)に就任。ファンニステルローイやカッサーノを重用するカペッロ監督により、ロビーニョの先発機会は激減。32試合6ゴールの成績でリーガ制覇に寄与するも、他チームへの移籍が囁かれる。
だがカペッロ監督は1年でチームを去り、07-08シーズンはベルント・シュスターが後任の監督に就任。ロビーニョは新監督のもとで先発の座を取り戻し、32試合11ゴール14アシストの大活躍。シーズン後半は怪我で長期の離脱を余儀なくされるも、リーガ2連覇に大きな役割を果たした。
しかしシーズン終了後の08年夏、クリスティアーノ・ロナウド獲得にあたり放出要員として名前が挙がったことに激怒。クリロナの加入はお預けとなってロビーニョは残留するも、08-09シーズンの開幕戦当日、同郷の名将フェリペ・スコラーリが監督を務めるチェルシーへの移籍希望を表明する。
レアルはロビーニョの慰留を諦めて移籍を認めるが、中東資本となったばかりのマンチェスター・シティから横やりのオファー。チェルシーを上回る好条件を提示されたロビーニョは、一転してシティと契約を結ぶ。
だがシティ入団の記者会見で、「チェルシーの出した素晴らしい条件を受け入れた」と失言。この言い間違いは波紋を呼び、プレミア挑戦は不吉さを感じさせるスタートとなった。
コパ・アメリカ優勝の立役者
07年6月、ベネズエラ開催のコパ・アメリカに出場。ロビーニョは主力不在のセレソンでエースストライカーを務め、G/Lのチリ戦でハットトリックを記録。続くエクアドル戦でもPKによる決勝点を挙げ、グループ突破の原動力となった。
準々決勝でも、再び対戦したチリを相手に2得点の活躍。準決勝のウルグアイ戦はPK戦にもつれるが、1番手として登場したロビーニョが落ち着いてシュートを沈め、勝利に結びつけた。
決勝の相手はアルゼンチン。ブラジルはメッシ、テベス、リケルメ、ベロン、マスケラーノと主力を揃えた宿敵に怯むことなく、主導権を握って3-0の快勝。2大会連続8度目の優勝を飾る。
6得点を挙げて優勝の立役者となったロビーニョは、大会得点王とMVPを獲得。セレソンの新たな攻撃リーダーとして名乗りを上げた。
過ちの日々
シティ1年目の08-09シーズン、チームの主力を務めて31試合14ゴールの活躍。しかし英国に来てからの素行は悪く、09年1月にスペインのテネリフェで行なわれた強化合宿を無断で離脱。25歳の誕生日を家族で祝いたいという理由で、ブラジルに一時帰国してしまう。
クラブへ戻ったロビーニョには30万ユーロの罰金を課せられたが、同じ月にはリーズのナイトクラブでの性的暴行容疑により、地元警察に一時拘束される騒動。そんなお騒がせぶりからクラブや監督との関係は悪化し、翌09-10シーズンはパフォーマンスが大きく低下。怪我による3ヶ月の離脱もあり、公式戦12試合1ゴールと低迷する。
こうしてチームの構想外となったロビーニョは、10年1月に古巣のサントスへ6ヶ月間のレンタル移籍。すると故郷のクラブで輝きを取り戻し、数々の貴重なゴールを決めてパウリスタ選手権とコパ・ド・ブラジルの2冠獲得に貢献した。
南アW杯の活躍
セレソンの主力となったロビーニョは、09年に南アフリカで行なわれたコンフェデレーションズカップ優勝に貢献。W杯南米予選でも15試合4得点と存在感を見せた。
10年6月、Wカップ・南ア大会が開幕。初戦は11大会ぶり出場の北朝鮮に苦戦するも、2-1の白星スタート。第2戦で難敵コートジボワールを3-1と下し、グループ突破を決める。
第3戦はポルトガルと0-0で引き分け、グループ首位でベスト16進出。トーナメント1回戦で南米の好敵手チリと戦う。セットプレーから先制した直後の前半38分、カウンターで左サイドを突破したロビーニョが中央のカカにパス。そこからルイス・ファビアーノの追加点が生まれ、2-0のリードでハーフタイムを折り返す。
後半59分、クリアミスを拾ったラミレスからロビーニョにボールが渡り、ワンタッチシュートでのダメ押し点。試合は3-0の快勝を収め、一番の活躍を見せたロビーニョが「マン・オブ・ザ・マッチ」に選ばれる。
準々決勝の相手はオランダ。開始早々の10分、フェリペ・メロのスルーパスに抜け出したロビーニョが、鮮やかに決めて先制。これで主導権を握ったかに思えたブラジルだが、後半立て続けにスナイデルのゴールを許し、1-2と逆転されてしまう。
終盤の73分にはF・メロが一発退場。ここ一番での脆さを露呈してしまったブラジルは、2大会続けてのベスト8敗退。ロビーニョの好調さを活かせなかった。
服役囚ロビーニョ
レンタル期間終了後もサントスへの残留を臨んだロビーニョだが、保有権を持つシティがそれを拒否。トルコのクラブへの放出が画策されるも、10年の夏にACミランからオファーが舞い込み、イタリアへ活躍の舞台を移すことになった。
移籍1年目の10-11シーズン、34試合14ゴールの活躍でミランの7季ぶりとなるスクデット獲得に貢献。20代半ばとなっていたロビーニョは、これからキャリアのピークを迎えると思えた。
しかしこのあとたび重なる故障に悩まされ、次第に成績は低迷。出場機会に恵まれない期間が続いた。14年には再びサントスへレンタル移籍をするも、ミランとの契約が切れた15年には中国の広州恒大へ移籍。しかし芳しい成績を残せず、16年2月にはブラジルのアトレティコ・ミネイロに移る。
そんな迷走の時を過ごしていた17年11月、イタリアの裁判所から、集団レイプ事件の罪で懲役9年の実刑判決。ミラン時代の13年、ナイトクラブで若い女性に酒を飲ませて眠らせ、5人の男と共に性的暴行を加えて、起訴されたというのがその内容だった。
しかし女性とは合意の上だったと主張するロビーニョは、無罪を訴えて上告。国民の身柄引き渡しを禁止するブラジルに居続けたため、イタリア当局による逮捕は逃れた。
ブラジル代表では、怪我により自国開催となる14年W杯の出場を逃し、15年のコパ・アメリカを最後に代表活動を終了。17年には1年半ぶりに代表へ呼ばれ、コロンビア戦で通算100キャップを刻んでファイナルゲームを飾った。実質13年間の代表歴で、28ゴールを記録している。
そのあとトルコでのプレーを経て、20年10月には古巣のサントスと3度目の契約。しかしロビーニョの婦女暴行容疑によりクラブは世間の批判を浴び、1週間もしないうちに契約を解除される。
22年1月、イタリアの最高裁判所で婦女暴行の有罪判決が確定。しばらくフリーの状態だったロビーニョは、同年7月に38歳で正式な現役引退を発表した。
24年3月、ブラジルの法廷でもロビーニョの有罪が認定され、サントスの自宅で逮捕されて連邦警察署に連行。現在はサンパウロのサルガド刑務所で服役中である。