たぐいまれな美貌とファム・ファタールな魅力で殿方を虜にし、40~50年代ハリウッドで活躍した女優のラナ・ターナー。複雑な家庭環境で育ちながら、スカウトされて映画界入り。端役のスタートだったが、豊満な胸を強調したタイトなニット姿で「セーター・ガール」と呼ばれて注目を集める。
その後もブロンド髪とグラマラスなボディを武器に、第二次世界大戦中にはピンナップ・ガールとしても人気を博す。46年の映画『郵便配達は二度ベルを鳴らす』では、官能的なヒロイン役が評判を呼び、一流スターの座を確立。ハリウッドで最もギャラを稼ぐ女優となり、大衆文化のアイコンとしてもてはやされた。
恋愛遍歴の賑やかさでも知られ、8回の結婚、離婚を繰り返す。また恋多き女としてクラーク・ゲーブルやタイロン・パワー、ヴィクター・マチュアといったスターたちとも浮き名を流した。58年には娘シェリルがラナの愛人を刺殺するという事件が起き、スキャンダルに馴れっこだったハリウッドを騒然とさせている。
ラナ・ターナーの本名はジュリア・ジーン・ターナー。1921年2月8日にアイダホ州ウォレス市で生まれた。父ジョンは鉱山労働者だったが、一家の暮らしは苦しく、ジュリアが6歳のときサンフランシスコへ移住する。
しかし父が家を出てしまい、美容師の母ミルドレッドが夜遅くまで働くようになる。まだ小さかったジュリアは、ミルクとクラッカーだけで週の大半を過ごしたこともあった。
家出した父はカードゲームのギャンブラーとして生計を立てていたが、大金を稼いだ帰り道で強盗に遭い、殴打されて死亡。この不幸な事件は、父親っ子だったジュリアにショックを与え、のちの脅迫観念的な恋愛に繋がっていったとされている。
やがてジュリアは里親の元に預けられるが、そこで身体的な虐待を受けるという辛い日々を送った。それを知った母親に連れ戻されるも、その母が呼吸器の病気を患ってしまい、医師の勧めで乾燥した気候のロサンゼルスに引っ越す。
LAに移ったとき、ジュリアはすでに15歳。鬱々とした日々を送る彼女の息抜きは、ランチのお金を節約して週末に映画館へ出かけることだった。そしてケイ・フランシス(当時の人気女優)のようなファッショナブルな女性に憧れ、母親が持っていたヴォーグ誌の隅々まで目を通したという。
ある日、友達と学校をサボってカフェでコーラを飲んでいると、映画業界誌を手がけるウィリアム・ウィルカーソンに声を掛けられる。「演技に興味があるか」と尋ねられたジュリアはすぐに「イエス」と答え、エージェントのゼッポ・マルクス(マルクス兄弟の5男)を通して、ワーナーブラザース社のマービン・ルロイ監督を紹介された。
するとルロイ監督が撮影中だった『They Won't Forget 』(37年)の端役にキャスティング。映画冒頭に殺される女子学生という役だったが、豊満な胸を強調したニット姿で「セーター・ガール」と呼ばれ、世間の注目を集める。
しかしジュリア自身はこのニックネームをひどく嫌がり、映画出演はこれっきりと考えたが、ルロイ監督は次回作『The Great Garrick』(37年)にも彼女をキャスティング。こうしてジュリアは映画女優の道に進むことになり、“ラナ・ターナー” の芸名を名乗ることになった。
ワーナー社では端役として数本の映画に出演したあと、MGM社へ引き抜かれたルロイ監督に誘われて同社と契約。役者として基礎的な訓練も受けておらず、まだ演技の拙かったラナは、ワーナー社でなかなか芽を出せないでいた。
MGM社に移った38年には、ジュディ・ガーランドとミッキー・ルーニーの人気子役コンビによる『初恋合戦』に出演。MGM社のトップであるルイス・B・メイヤーは、この映画でラナの官能的魅力に気づき、半年前に亡くなったジーン・ハーロウ(30年代のセックスシンボル 26歳没)の後継者になりうると考えた。
すると徐々に重要な役を任されるようになり、演技の上達とともにラナの知名度も上がっていく。自信を付けたラナは、話題作『風と共に去りぬ』のオーディションを受けるが、スカーレット・オハラ役を射止めることは出来なかった。それでもラナのファム・ファタール(宿命の女)な魅力は輝きを増してゆき、ついには『ルック誌』の表紙も飾る。
40年2月には、ロマンチックコメディ『Dancing Co-Ed』で共演したアーティー・ショウと19歳で電撃結婚する。2回デートしただけで決めたという衝動的な結婚は、MGM社重役の眉をしかめさせた。案の定、二人の結婚生活は長く続かず、4ヶ月後には離婚。そのあと妊娠が判明するも、中絶を余儀なくされる。
41年にはミュージカル映画『美人劇場』で初主演。この作品でラナの演技は評価され、同年には『風と共に去りぬ』でレッド・バトラーを演じた大スター、クラーク・ゲーブルと『無法街』で初共演。映画はこの年MGM社最大のヒット作となり、一気に看板女優へと駆け上がった。
この時期には共演者のゲーブルやヴィクター・マチュアらとの関係がゴシップ誌で取り沙汰され始めるが、あくまで噂レベルに留まっている。
41年末にアメリカが第二次世界大戦へ参戦すると、ラナはピンナップガールとしてその人気が沸騰。戦場の兵士たちから「テンペスト・ターナー」と呼ばれるほどのお気に入りとなり、戦闘機の機首にもその姿を飾った。
42年6月、戦時国債を売るためのイベントツアーへ出発。このツアー中、ラナが「債券を5,000ドル以上購入された方には、甘いキスをお約束する」とリップサービス。すると戦時国債は飛ぶように売れたという。
同年7月には、元俳優でレストラン経営者のステファン・クレインと結婚。だがクレインと前妻との間で離婚が成立していなかったことで、結婚は無効となってしまう。このあとラナの妊娠が判り、クレインの離婚成立後に彼と再結婚する。47年7月、ラナは難産の末に娘を出産。初めての子は「シェリル」と名付けられた。
しかしギャンブルに溺れるクレインとの結婚生活はこの頃すでに破綻しており、44年8月に離婚となっている。
そんな私生活の一方、43年に出演したコメディ映画『Slightly Dangerous』ではその演技を絶賛されるなど仕事は順調。44年出演の『Week-End at the Waldorf』(32年『グランドホテル』のリメイク)はヒットを記録。着実に女優としてのキャリアを積んでいく。
戦争が終わった46年、ノワールサスペンスの名作を映画化した『郵便配達は二度ベルを鳴らす』に出演。男をそそのかす官能的な悪女像が評判を呼び、映画は大ヒットを記録。ラナは単なるセックスシンボルから脱却し、俳優としての新境地を拓いた。
47年には歴史ドラマ大作『大地は怒る』に出演。元々キャサリン・ヘプバーンが主役としてキャスティングされていた作品であり、大女優の代わりを任されたラナは、自慢のブロンドを黒髪に染めてシリアスなヒロインを熱演。「私はキャサリンから一番遠い女優です。でもこういう役をやりたかったの」と喜びを口にしている。
『大地は怒る』の撮影中にはタイロン・パワーとの恋愛が始まり、彼の子供を身ごもるが、不倫による情事だったことから47年の秋に中絶。また同時期にはフランク・シナトラやハワード・ヒューズとも関係を持つなど、多くの有名人と浮き名を流した。小さい時に父親を失ったラナは、男性への依存を強めるようになっていたのだ。
そうした出逢いを求め、夜な夜なパーティーで歓談を楽しむラナの姿は、いつしか「ナイトクラブの女王」と呼ばれるようになる。
仕事では『Cass Timberlane』(47年)『帰郷』『三銃士』(48年)『悪人と美女』(52年)など話題作、ヒット作に次々と出演。キャリアの絶頂期を迎えたラナは、「ハリウッドで一番ギャラを稼ぐ女優」と言われた。
48年には社交界の名士であるヘンリー・J・トッピングと4度目の結婚。彼との間に男の子を身ごもるが、流産という悲しい結果となった。このあと酒癖の悪い夫との関係は悪化。ラナの自殺騒動を経て52年12月に離婚する。
53年9月には俳優のレックス・パーカーと5度目の結婚。死産(56年)とういう試練を乗り越え、二人の絆は深まったかに思えた。だが夫のレックスが、10歳だった(57年当時)娘のシェリルに性的虐待を行なっていたことが発覚。それを知ったラナは怒り狂い、部屋で眠っていたレックスの頭に拳銃を突きつけ、夫を家から追い出したという。
この時期ラナの人気は下り坂にあり、ヒット作にも恵まれなくなっていた。そして56年に主演した史劇『Diane』は大赤字を記録、MGM社から契約を打ち切られてしまう。
レックスとの離婚が成立した57年には、20世紀FOX社の『青春物語』に主演。青少年の性を大胆に扱った作品は大きな話題を呼び、高校生の母親を演じたラナはアカデミー賞主演女優賞にノミネート。オスカーは逃してしまうが、変わらぬ存在感を見せた。
この頃、金目当てでラナに近づいてきたのが、ジョニー・ストンパナートという男。最初こそ熱心なファンに見えたが、LA暗黒街のボスであるミッキー・コーエンとも深い関わりを持つという、札付きのヤクザ者だった。
やがて思惑通りラナと愛人関係を結ぶと、たちまちその本性を露にし、暴力性を見せ始めるストンパナート。ラナが別れ話を持ち出したときには、薬を飲ませて意識を失わせ、彼女のヌード写真を撮って脅したという。
58年始めにはイギリス映画『Another Time, Another Place』に主演。相手役は当時まだ無名の若手俳優、ショーン・コネリーだった。撮影が行なわれていたロンドンを訪れたストンパナートは、スタジオ訪問をラナに拒否され怒り心頭。無理矢理セットに入ると、撮影中のラナとコネリーに拳銃を突きつけた。
だがコネリーは怯むことなく、彼の手首をひねって拳銃を取り上げると、ストンパナートは尻尾を巻いてスタジオから逃げ去った。このあとロンドン警察に拘束され、アメリカに強制送還されている。
その後も二人の愛人関係は続いたが、58年4月、アカデミー賞の式典に臨むことになったラナとの同伴出席を断られ、またもやストンパナートが激怒。ビバリーヒルズの自宅に押しかけると、無理矢理彼女の寝室に入り込んで激しい暴行を加えた。
すると隣の部屋で危機を感じた娘のシェリル(当時14歳)が、母を救うためにナイフを手に飛び込みストンパナートを刺殺。この衝撃的なニュースは、ラナのスキャンダルに馴れっこだったハリウッドをも騒然とさせる。
裁判の結果、正当防衛が認められて娘は無罪放免となる。ラナが事件後に出演した『悲しみは空の彼方に』(59年)は、世間の注目を集めてこの年最大のヒットを記録。興行収入の歩合制で契約を結んでいたラナは、相当のギャラを稼いだとされる。だがその成功の裏で、事件のトラウマに苦しみ、撮影中にはパニック障害に陥った事もあった。
60年11月、名門百貨店の経営者一族で、カルフォルニアに牧場を持つフレッド・メイと6度目の結婚。二人は62年10月に離婚となるが、別れたのちも終生の友人であり続けた。65年には10歳下の実業家で、映画プロデューサーでもあるロバート・イートンと7度目の結婚。4年間の結婚生活のあと、ロバートの浮気により69年4月に離婚している。
ロバートとの離婚が成立した数週間後、LAのディスコで知り合ったロナルド・ダンテと8度目の結婚。この男は催眠術師を名乗っていたが、その正体はロナルド・ペラーを本名とする詐欺師。ラナは投資話を信じて3万5千ドルを提供したが、半年後にそれが嘘だと分かり離婚。また1万ドル相当の宝石も、いつの間にか無くなっていた。
離婚後ラナは「一人の夫に七人の子供を持つのが夢だったけど、それが逆になっちゃった」と自虐的に語り、以降は独身を通した。
一人娘のシェリルは、事件後たびたび自殺未遂と家出を繰り返し、ようやく精神ケア施設の療養で心の安定を取り戻す。のちに彼女は「21歳になるまで14の自宅、7つの学校、3つの施設、6人の家庭教師、5人の義父の中で生き延びてきた」と自著で告白している。
だがこの苛烈な経験を経て、シェリルはたくましく成長。父ステファン・クレインが立ち上げた福祉関連会社で懸命に働き、ついには副社長を務めるまでになる。
一方、60年代後半から落ち目となってしまったラナは、映画の仕事がなくなり70年代初頭に舞台女優へと転身。東海岸の様々な都市を巡回して活動した。だがこの頃からアルコール依存症に苦しむようになり、体重は激減。舞台の仕事にも支障をきたしてしまう。
また若手時代からヘビースモーカーとして知られ、片時も煙草を手放さなかったため、彼女の写真にはしばしばエアブラシによる消去加工がなされた。健康を害してからはアルコールを断ったものの、煙草は止められなかったという。
その長年のアルコール依存症と喫煙習慣がたたり、92年夏には咽頭がんを発症。痛みを伴う放射線療法を乗り越え、93年の始めには寛解が発表された。しかし94年7月には悪性腫瘍が再発。もはや手の施し用はなかった。
94年9月にはスペインの国際映画祭に招かれ、車椅子のまま生涯功労賞を授与された。そしてラナにとってこれが、公での最後の姿となる。9ヶ月後の95年6月29日、娘に見守られながらロサンゼルスの自宅で永眠。享年74歳だった。