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サッカーの歴史や人物について

サッカー日本代表史 19. オシム / 岡田時代

 
川淵三郎会長の失言

06年のWカップで日本が1勝もできずに敗退すると、ドイツから戻った川淵会長は成田空港近くのホテルで緊急会見を行なった。その会見でジーコの後任となる代表監督の話になり、川淵はイビチャ・オシムの名前を口に出してしまう。

 

オシムが監督を務めていたジェフ市原とは話し合いの途中で、口を滑らせた川淵は慌てた。だがオシムが後任監督になることはもはや既定路線となり、翌月には予定通りに新監督が発表された。

 

ボスニア・ヘルツェゴビナ出身のイビチャ・オシムは、旧ユーゴスラビアの選手として64年の東京五輪に参加。日本代表と対戦して2得点を挙げている。90年のイタリアWカップでは、ストイコビッチ擁する旧ユーゴチームを率いベスト8に導く。『オシム語録』と呼ばれる比喩を使った表現が特徴的で、その実績から以前より待望論が起きていた人物である。

 

オシムが目指したのは「ボールも人も動くサッカー」。代表はジェフ市原の選手をベースに、田中マルクス闘莉王鈴木啓太田中達也前田遼一今野泰幸中村憲剛長谷部誠など新しい選手が起用された。オシムは多色ビブスを使った複雑なパズルのような練習を課し、常に考えながら動くサッカーを指導する。

 
北京五輪世代の始動

オシムの日本代表監督就任と同時に、北京五輪出場を目指すU-21チームの反町康治監督就任も発表された。反町は戦術に長けた理論派で、アルビレックス新潟をJ2からJ1に定着させた手腕を買われての抜擢だった。

反町は就任後すぐにU-21の選手を招集し、初のキャンプを行なうと、11月のカタールアジア大会サッカー競技に臨んだ。フル代表混在の大会で日本チームは健闘したが、惜しくも予選リーグで敗退してしまう。この時の主力には西川周作細貝萌、本田圭祐、カレン・ロバート豊田陽平家長昭博平山相太らがいた。

07年2月、北京五輪のアジア予選が始まった。日本は第2次となるこの予選を圧倒的な強さで勝ち抜き、6月には最終予選進出を決める。ちなみにこの時、長友佑都岡崎慎司李忠成がチームに加わっている。

7月に開催されたアジアカップは、インドネシア、マレーシア、タイ、ベトナムの4ヶ国共同開催の大会だった。オシムジャパンには一時代表を退いていた中澤佑二が復帰し、コンディションを考え招集を控えていた海外組、高原直泰中村俊輔の二人も加わっていた。

日本はグループリーグでカタールに1-1と引き分けたものの、続くUAE戦を3-1、ベトナム戦を4-1と勝利。グループ1位で決勝トーナメントへ進む。決勝T1回戦の相手は、ドイツWカップで手痛い逆転負けを喫したオーストラリア。オーストラリアは06年に連盟所属をオセアニアからアジアへ移しており、この大会が初参加だった。

試合は両チームの激しい攻防が繰り広げられ、1-1のまま延長戦でも決着しなかった。日本はPK戦でオーストラリアを退けるも、PK嫌いのオシムはローカールームへ引き上げ、勝利の瞬間を目にすることはなかった。

オーストラリアにはW杯の雪辱を果たしたものの、ほとんど同じメンバーで戦い続けた日本は、疲れもあり準決勝でサウジアラビアに2-3と敗れてしまう。韓国と戦った3位決定戦は、双方に疲労が溜まっていたのか荒れた試合となった。

ファールを繰り返した韓国選手が退場させられると、それに猛抗議した韓国の監督とコーチも退席処分となる。数的優位となった日本だが、ミスを多発。延長戦でもチャンスを逃し続け、スコアレスのまま120分を終了する。

またもオシムPK戦を見ることなくベンチから立ち去るが、今度は勝利の報が届かなかった。日本はPK戦で韓国に5-6と敗れ、4位で大会を終了する。オシムイズムの浸透には、もう少し時間が必要だった。

北京五輪出場 決定

8月、北京五輪アジア最終予選が始まった。チームには7月のWユース選手権に出場した選手から、新たに内田篤人柏木陽介らが加わっていた。最終予選は勝ち上がった12チームを3グループに分け、ホーム&アウェーの対戦の結果、各組1位のみが五輪出場権を得ることとなった。日本の組み合わせははカタールサウジアラビアベトナムとなっていた。

初戦はホームでベトナムを1-0と破り、手堅く勝ち点3を獲得。続くサウジアラビア戦は0-0と引き分けたが、強敵相手にアウェーで勝ち点1を獲得したのは悪くない結果だった。カタールをホームに迎えた第3戦で日本は退場者を出すものの、どうにか1-0と辛勝し、グループリーグ首位に立つ。

第4戦のカタール戦、アウェーの日本は先制するも、リードを守れず後半77分に追いつかれる。日本は慌てて逃げ切りに掛かるが、ロスタイムの93分、ハンドの反則でPKを与えてしまう。こうして1-2と逆転された日本は、予選で初めての黒星を喫してしまった。

それでも第5戦のベトナム戦はアウェーで4-0と快勝し、11月21日、ホーム国立競技場にサウジアラビアを迎えての最終戦を行なう。勝ち点でサウジを上回る日本は、引き分けでも五輪出場が決まる優位な状況だった。

だが必死に挑んでくるサウジに、前半押され気味となる日本。だが後半にはサウジにも疲れが見え、余裕の展開で相手の攻撃を押し返した。試合は0-0で終了し、日本は4大会連続となる北京五輪出場を決めた。

オシムの退任と岡田武史の再登板

実は日本が五輪出場を決める5日前、日本サッカー協会に凶報がもたらされていた。日本代表監督のオシムが、急性脳梗塞で倒れてしまったのだ。一時は危篤状態となるものの、懸命の治療によりなんとか命は取り留めた。だが現場での指導は不可能となり、道半ばにして代表監督の座を退くことになる。

12月、病に倒れたオシムの後任として、岡田武史の代表監督就任が発表された。当初オシムサッカーの継承を謳っていた岡田監督だが、やり方が合わないと悟り、自分流に方針を転換する。日本は南アWカップの第3次予選を戦い、所々苦戦するも、順当に最終予選進出を決めた。

オリンピック出場を決めた五輪代表チームは、5月のトゥーロン国際大会に参加するなど強化を図っていた。そのとき新しくチームに加わったのが、成長著しい吉田麻也森重真人香川真司だった。

森重と香川はU-20チームからの招集。一方、反町監督はOA枠として大久保嘉人遠藤保仁の二人を希望した。だが諸事情で二人の招集は叶わず、五輪代表はU-23世代だけで北京五輪に臨むことになった。

 

北京五輪の完敗

8月に北京五輪が始まり、日本は初戦でアメリカと戦った。ピッチコンディションは悪く、日本が得意のパスワークを発揮出来なかったのに対し、アメリカはフィジカルの強さで攻めてきた。

前半はどうにか凌いだが、後半開始直後アメリカのパワフルな攻め上がりに失点を喫してしまう。勝ちを目指す日本は、李、岡崎、豊田と次々に前線の選手を投入するが、攻撃に精度を欠き無得点に終わった。

初戦を落とし後のなくなった日本だが、第2戦もナイジェリアのスピードを活かした突破力に苦しむ。相手の攻撃に耐えて0-0で折り返した後半に、日本は岡崎と豊田を投入する。

だが58分にミスから失点すると、74分にも前掛かりになった裏を取られて追加点を許してしまった。5分後に豊田のシュートで1点返すものの、時既に遅く、0-2の敗戦で予選敗退が決まった。

最終節の相手はオランダ。日本は1勝を目指して戦うも、オランダは様子を見ながら個人技やアーリークロスで揺さぶってきた。こうして後半途中までは0-0の状況が続いたが、73分には本田がペナルティーエリアでファールを犯し、PKを与えてしまった。

先制された日本は、このあと香川、李、森本貴幸を投入して反撃を試みるが、攻勢虚しく0-1と敗れてしまう。この結果、日本はグループ3戦全敗で大会を去ることになった。

ワールドカップアジア最終予選の戦い

9月、南アフリカWカップ出場を懸けたアジア最終予選が始まる。中村俊輔遠藤保仁を中心に戦う岡田ジャパンだが、2月のE-1東アジア選手権でも低迷するなど、調子は上がらなかった。そこで岡田監督はチームを活性化するため、北京五輪を戦った選手を招集する。

最終予選は、勝ち上がった10チームが2つのグループに分かれ、ホーム&アウェーの総当たり戦を行ない、各組の上位2チームまでがWカップの出場権を得ることとなった。日本のグループ組み合わせは、オーストラリア、バーレーンカタールウズベキスタンに決まる。

アウェーで行なわれた初戦のバーレーン戦は、中村憲剛のゴールでリード。しかし闘莉王の軽率なバックパスがオウンゴールとなるなど終盤にバタバタし、どうにか3-2で逃げ切るも、後味の悪い試合となった。

第2戦のウズベキスタン戦では必勝を期すが、またも闘莉王のミス絡みで先制点を許す。そのあと玉田圭司のゴールで追いつくが、ホームで1-1と引き分けてしまった。

続く失態で岡田監督の手腕には疑問が囁かれ、日本は嫌な雰囲気で第3戦のカタール戦に臨む。するとこのアウェー戦で、奮起した闘莉王が汚名返上のヘディングゴール。日本は3-0の快勝を収めた。

翌09年2月には最大のライバル、オーストラリアをホームに迎えての第4戦が行なわれ、0-0で引き分ける。第5戦はホームに苦手バーレーンを迎えての試合だったが、中村俊のFKが決まり1-0で勝利した。

そして6月6日、アウェーのウズベキスタン戦で岡崎が決勝点を挙げ、予選2試合を残して日本はWカップ出場を決定。岡崎はこの年、代表16試合で15得点とブレイク。岡田ジャパンのエースとして名乗りを上げる。

ただ試合内容は決して満足出来るものではなく、グループ1位となったオーストラリアとも力の差を感じさせた。Wカップ本番を戦うには、不安要素が多すぎたのだ。

本田圭佑の台頭

アジア予選終了後、日本代表はWカップ本番に向け強化試合を重ねる。そして9月には欧州遠征を行い、強豪オランダと戦った。この試合の後半、岡田監督は売り出し中の本田圭祐を投入する。

オランダ2部・VVVフェンローに所属する本田は、この年チームの主力としてシーズン16ゴール14アシストの大活躍。エールディヴィジ(オランダ1部リーグ)復帰の立役者となり、リーグMVPにも輝いていた。

自信に満ちあふれた本田が、ポジション争いのライバルと見定めたのが、同じトップ下のレフティ中村俊輔だった。雨の中、オランダと互角の勝負を演じていた日本は、17分にゴール正面でFKのチャンスを得る。そしていつものように中村俊と遠藤がボールの後ろに立つが、そこに割り込んできたのが本田だった。

本田は中村俊を睨みつけ、「俺に蹴らせて下さい」と要求。だが中村俊はその言葉を無視し、ボールをキックする。これ以来二人のポジション争いは、マスコミやファンの注目の的となった。

だがやがて、二人の力関係は逆転する。日の出の勢いの本田と、長年過ごしたセルティックを離れ、エスパニョールで出場機会を失った中村俊では、コンディションにも大きな差が出てきていた。

 

rincyu.hateblo.jp

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