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サッカーの歴史や人物について

《サッカー人物伝》アリ・ダエイ(イラン)

 

ペルシアン・タワーの脅威」

192㎝の長身を活かした高い打点からのヘディングで、「ペルシアン・タワー」の異名をとったイランの大砲。また左右どちらの足でも強いシュートを放ち、多彩な得点パターンでゴールを量産したアジア最高のストライカーが、アリ・ダエイ( Ali Daei )だ。

 

90年代イラン代表のエースFWとして活躍。93年のW杯アジア予選では初出場を狙う日本の前に立ち塞がり、97年のW杯予選でも日本と死闘を演じた。国際Aマッチで挙げた通算109ゴールは、クリスティアーノ・ロナウドに抜かれるまで長らく世界記録だった。

 

ブンデスリーガの名門バイエルン・ミュンヘンビーレフェルトでもプレー。ヘルタ・ベルリン時代に出場したチャンピオンズリーグのグループステージでは、チェルシー戦で2ゴール、ACミラン戦でも1ゴールを挙げる活躍を見せ、99年のアジア年間最優秀選手賞に輝いている。

 

サッカー選手への道程

ダエイは王制イラン時代の1969年、大都市アルダビールにあるジラル地区で誕生した。生まれたのは2月3日だったが、1学年遅らせるため生年月日の届けは3月21日となっている。父親はトラック運転手、母親は家政婦として働く家庭で、男ばかり5人兄弟の中で育つ。

10歳となった79年にイラン・イスラム革命が起き、生活環境が激変。翌年にはイラン・イラク戦争が勃発した。こうした激動の少年時代を過ごしながら、ダエイは勉学とサッカーに打ち込んでいく。この頃のポジションはDF。教育熱心な父親に競技を禁じられるも、母親の助けで練習を続けた。

87年にシャリフ大学の土木工学科に合格したが、19歳のとき参加したアマチュアチームの試合を優先したため退学。このあと首都テヘランイスラム・アザド大で農学を先攻するも、88年にシャリフ工科大の入学試験を受けてマテリアル工学を履修。卒業後の92年にアザド大へ入り直し、スポーツ社会学修士号を取得している。

90年にはテヘラン地域リーグのバンク・テジャラトに入団し、学業と平行してサッカー競技に励んだ。ダエイはここでFWとしての才能を開花させ、4年間の在籍で75試合49ゴールの活躍。注目されるストライカーとなった。

 

イラン代表のエースFW

イラン代表には93年に24歳で初招集。6月6日に行なわれたエコーカップパキスタン戦で、代表デビューを飾った。同じ試合で代表デビューを果たしたのが、当時21歳のMFカリム・バゲリである。ダエイはこのままアメリカW杯アジア予選にも参加、6月25日の台湾戦で代表初ゴールを記録している。

同年10月、グループリーグを勝ち抜いた6ヶ国によるW杯アジア最終予選が、カタールの首都ドーハで集中開催。しかしイランは初戦で韓国に0-3の大敗を喫してしまった。

負けられなくなった第2戦は、ハンス・オフト監督のもとW杯初出場を狙う日本との戦い。序盤は日本にペースを握られるも、都並敏史を欠いた左サイドの弱点を突き逆襲。8分にダエイが強烈なヘディングシュートを放つが、これは得点とならなかった。

しかし前半のロスタイム、FKのチャンスからイランが先制。さらに終盤の85分、スルーパスに反応したダエイが前掛かりになった日本のDFラインをかいくぐり、飛び出してきたGK松永成立をかわして追加点を決める。

88分に中山雅史の執念のゴールで1点を返されるも、このまま逃げ切り2-1の勝利。初戦サウジアラビアと引き分けた日本を瀬戸際に追い込んだ。

続く第3戦はダエイが2試合連続ゴールを記録するも、宿敵イラクに1-2の敗戦。それでも第4戦はダエイ2得点の活躍で北朝鮮に2-1の勝利。最終節の結果に僅かな望みを繋いだ。

しかし最終戦ではサウジアラビアと激闘を繰り広げた末に3-4の敗戦。「ドーハの悲劇」で沈んだ日本に続く4位となり、W杯出場は叶わなかったが、ダエイは1次予選と合わせてチーム最多の6ゴールを記録。イラン代表エースに名乗りを上げた。

 

プロ生活のスタート

94年には、J1に昇格したばかりのジュビロ磐田と契約。磐田の新監督に就任したオフトに、W杯予選で見せた高い得点能力を買われてのスカウトだった。しかし兵役が重なったことで国外移籍が許されず、結局この話は破談となってしまう。

日本行きとはならなかったものの、アザデンガリーグ(イラン1部リーグ)の名門ペルセポリスと契約。プロ生活のキャリアを開始した。そして1年目から公式戦35ゴールと活躍し、エースとしての実力を示す。

2年目の95-96シーズンは怪我に苦しむも、重要な試合で得点を記録してリーグ優勝に貢献。そのあとアジアクラブ選手権(現AFCチャンピオンズリーグ)で決めた2得点が評価され、カタールの強豪アル・サッドに引き抜かれる。

 

96年アジアカップの活躍

96年12月にはUAE開催のアジアカップに出場。サウジアラビアイラク、タイと強敵揃いのグループリーグにあって、ダエイは3試合連続ゴールを記録。1位通過の原動力となった。

準々決勝は韓国と対戦。開始11分に先制を許すが、31分にバゲリのゴールで同点。35分に再びリードされるも、後半52分にダエイのスルーパスからコダダド・アジジが得点を決めて追いつく。そして66分に相手ボールを奪ったダエイが勝ち越し弾、76分にも豪快なシュートで追加点を叩き込んだ。

さらに終盤に入った83分、バゲリのロングボールに抜け出したアジジのパスからダエイハットトリックを達成。終了直前の89分にもPKによる4点目を決め、ダエイの大爆発で6-2の圧勝。3年前のW杯予選で韓国に完敗した借りを返した。

準決勝はサウジアラビアと延長120分を戦うが、スコアレスの末PK戦で敗れて3位決定戦へ。クウェートとの3位決定戦は15分に先制されたあと、40分にダエイのゴールで同点。このあとPK戦を制してイランは3位入賞を果たす。

大会8ゴールを記録したダエイは得点王を獲得。また2得点を挙げるほか、パワフルなドリブルで攻撃を牽引したアジジが大会MVPに輝いた。そして攻撃の3人はアジアカップでの活躍が認められ、ダエイとバゲリがドイツ・ブンデスリーガビーレフェルトへ、アジジが1.FCケルンへの移籍を果たす。

 

ジョホールバルの死闘

97年9月からフランスW杯・アジア最終予選が開始。A組に入ったイランは、ダエイの活躍も及ばずサウジアラビアに続くグループ2位。B組2位の日本とアジア第3代表の座を懸けて、マレーシアのジョホールバルで決戦を行なった。

イランの攻撃陣には20歳の新鋭メフィディ・マハダビキアが加わっていたものの、予選通算14試合18ゴールのバゲリが累積警告で出場停止。イランはアジジを車椅子に乗せ負傷を装ってまで、日本を揺さぶりにきた。

前半39分、中田英寿のスルーパスから中山が先制点。だが後半立ち上がりの34秒、右サイドを突破したマハダビキアダエイにパス。ダエイのシュートはGK川口能活に弾かれるも、アジジが詰めて同点ゴールを決める。

58分、マハダビキアがふわりと上げた右クロスを、ダエイが高い打点で捉えてヘディングシュート。勝ち越し点を叩き込んで日本を意気消沈させた。

だが68分に中田の放ったロングクロスから、途中出場の城彰二がヘッドで同点弾。試合は延長戦にもつれ込んだ。延長開始から日本は岡野雅行を投入、“野人” の快速はイランを疲弊させる。

だが延長後半の116分、またも右サイドを破ったマハダビキアが、ゴール前のダエイに絶好のクロスボール。しかし疲労ダエイの反応が一瞬遅れ、シュートはゴールポスト右をかすめていった。

その2分後、中田が打ったシュートの跳ね返りを、チャンスを逃し続けた岡野が滑り込んでゴールデンゴール。日本のW杯初出場が決まり、死闘に敗れたイランは、オセアニア1位・オーストラリアとの大陸間プレーオフに回ることになった。

ホームでの第1戦はキーウェルのゴールで先制されるが、アジジの同点弾で引き分けに持ち込む。そして敵地メルボルンでの第2戦、オーストラリアがキューウェルとヴィドマーのゴールで後半途中まで2点をリード。イランは崖っぷちに追い込まれた。

しかし終盤に入った75分、アジジの縦パスからダエイがボールを繋ぎ、バゲリのゴールで1点を返す。その4分後、ダエイのスルーパスに抜け出したアジジが劇的な同点弾。試合は2-2の引き分けとなったが、アウェーゴールの差でイランが24年ぶり2度目のW杯出場を果たした。

98年6月、Wカップ・フランス大会が開幕。ダエイアメリカ戦でマハダビキアのゴールをアシストし、2-1のW杯初勝利に貢献。しかしユーゴスラビアに0-1、ドイツに0-2と敗れてG/L敗退。アジアNo,1の攻撃力も、世界の強豪には通用しなかった。

 

アジア年間最優秀選手賞

97-98シーズン、ボーフムとの試合でブンデスリーガデビュー。3日後のシュトゥットガル戦で初ゴールを記録し、2-1の勝利に貢献している。

ビーレフェルトでの1年目は25試合7ゴールの成績。下位に低迷するチームは2部降格となってしまったが、良いパフォーマンスを見せたダエイは、名門バイエルン・ミュンヘンへの移籍を果たす。

バイエルンではリーグ優勝を経験するも、カルステン・ヤンカーリザーブ要員という扱いに不満を持ち、クラブとの3年契約を打ち切ってヘルタ・ベルリンへ移る。

移籍したヘルタでは、99-00シーズンのUEFAチャンピオンズリーグに出場。1次リーグの第1戦、チェルシーを相手にダエイの2得点で2-1と勝利。続く第2戦もダエイがゴールを決め、ACミランと1-1で引き分ける。

第3戦はハカン・シュキュルの2ゴールを許し、トルコのガラタサライに1-4の完敗。それでもヘルタは強豪ミランを敗退に追いやり、チェルシーに続くグループ2位通過。ダエイはCL2次リーグ進出の立役者となった。

このあとの2次リーグでは突破を果たせなかったものの、イラン代表での活躍(アジア競技大会で8得点を挙げて優勝に貢献)と合わせて99年のアジア年間最優秀選手賞に輝く。

 

代表での戦い

2000年10月にはレバノン開催のアジアカップに出場、イランはダエイの3試合連続ゴールでG/Lを1位突破する。準々決勝の韓国戦は71分にバゲリのゴールでリード。しかし終了直前の90分、ダエイがPエリアでボールの処理を誤り、土壇場で追いつかれてしまう。

そして延長の99分、李東國イ・ドングッゴールデンゴールを許し1-2の敗戦。2大会連続のベスト4進出を逃してしまった。

01年4月からは日韓W杯・アジア予選が開始。ダエイは10ゴールでエースとしての存在感を見せるも、イランは最終予選でサウジアラビアの後塵を拝してグループ2位。UAEとのプレーオフを制してアイルランドとの大陸間プレーオフに臨むが、2戦合計1-2と敗れて2大会連続のW杯出場は叶わなかった。

04年7月には、中国開催のアジアカップに出場。しかしグループリーグでダエイが不調に陥り、得点はタイ戦で記録したPKよる1点のみ。イランは日本に続くグループ2位で準々決勝に進んだ。

準々決勝では、前大会で苦杯を舐めさせられた韓国と対戦。ゲームは得点の奪い合いとなるが、ダエイに代わってエースを務めたアリ・カミリがハットトリックの大活躍。韓国を4-3と退けて準決勝に進む。

準決勝は開催国の中国にPK戦で敗れるが、3位決定戦ではダエイがPKを含む2ゴールを決めてバーレーンに4-2の勝利。2大会ぶりの3位入賞となった。

04年2月より、ドイツW杯・アジア第2次予選が開始。ダエイは8ゴールを挙げて最終予選進出に貢献するが、そのうち6点は弱小国ラオスとの試合で記録したものだった。

さらに最終予選では不調に陥り、横浜で行なわれた日本戦で1ゴールを挙げるに留まった。それでもイランは日本に続くグループ2位で2大会ぶりのW杯出場を決める。

すでに36歳となっていたダエイの衰えは顕著だったが、長らく代表へ君臨し、イランの英雄と讃えられる男に引導を渡す者などいなかった。

 

ワールドカップでの醜態

06年6月、Wカップ・ドイツ大会が開幕。初戦のメキシコ戦は前半を1-1で折り返すも、後半60分を過ぎるとダエイの足が完全に止まり、79分に勝ち越しゴールを許して1-2の敗戦。戦犯とされたダエイには批判が集まった。

第2戦は「戦術的な選手交代」という理由で、ダエイを外して若手選手が起用されるが、強豪ポルトガルを相手に手も足も出ず0-2の完敗。早くもイランの敗退が決まってしまう。

第3戦は、エースのカミリがポルトガル戦での途中交代に怒り出場を拒否。ダエイが先発に復帰するも、士気を削がれたチームはアンゴラと1-1で引き分けるのが精一杯。イランはグループ最下位で大会を去った。

決して厳しいグループでは無かったのにもかかわらず、期待を裏切る結果にイラン国民は失望。ダエイはそういった空気を読まず「2010年まで代表を続けたい」とインタビューに答えたが、これ以降彼が招集されることはなかった。

 

国際Aマッチ通算109ゴールの記録

02年にヘルタを退団したダエイは、UAEアル・シャバブを経て03年にペルセポリスへ復帰。06年からはサイパFC選手兼任監督を務め、チームを優勝に導いた直後の07年5月に38歳で現役引退を表明する。

15年間の代表歴で149試合に出場。国際Aマッチで挙げた109ゴールは、2021年にポルトガル代表のクリスティアーノ・ロナウドに抜かれるまで、長らく世界最多得点記録だった。

このあとイラン代表監督や古巣ペルセポリスの監督などを歴任。ラーフ・アーハン監督時代の12年3月に、スピードを出し過ぎて自動車横転事故を起こすが、幸い頭部を負傷しただけですんでいる。

その一方で、建設会社やアパレル経営など実業家としても活動し、スポーツブランド「DAEI」は一時イラン代表のユニフォームにも採用されていた。