日本代表がアジアカップ2連覇を達成した4日後の8月11日、ギリシャ・アテネではオリンピックのサッカー競技が始まっていた。日本のグループリーグ組み合わせは、イタリア、パラグアイ、ガーナとなっていた。
五輪代表監督の山本昌邦は、オーバーエイジ枠として曽ヶ端準、小野伸二、高原直泰の3名を招集。だが高原は以前患ったエコノミー症候群を再発させ、五輪代表を辞退。小野は大会直前にチームへ加わるも、そのためにメンバー枠から弾かれてしまったのが、主将を務めていた鈴木啓太だった。
初戦の相手パラグアイは、立ち上がりから攻勢を掛けてきた。その勢いの激しさで日本DFに混乱が起こり、開始5分には失点を喫してしまう。その後も日本はパラグアイのパス廻しに翻弄されるが、22分は運良くPKのチャンスを獲得。これを小野が決めて同点とした。しかしその4分後、FKから再びリードを奪われ、37分にも追加点。
1-3で折り返した後半、山本監督は松井大輔を投入し3トップに近い布陣で反撃。その策が当たり、リズムの生まれた日本は、53分に再びPKを得て小野がゴールを決めた。追撃ムードになった日本だが、62分にミスから4点目を与えてしまう。
それでも日本は諦めずに攻撃を続け、81分大久保嘉人のゴールが生まれた。しかし健闘及ばず試合は終了、日本は初戦を3-4と落としてしまった。
続いての相手は強敵イタリア。イタリアはOA枠で入ったアンドレア・ピルロが攻撃のタクトを握っていた。開始早々の3分、日本はイタリアにサイドを破られ、クロスからデロッシに豪快なオーバーヘッドシュートを決められる。さらに8分、今度はロングボールを受けたジェラルディーノの個人技に日本DFは翻弄され、追加点を許してしまった。
日本も20分に阿部勇樹のFKで1点返すが、36分には再びジェラルディーノにヘディンシュートを叩き込まれ、前半を1-3と折り返す。後半、山本監督は田中達也を投入して攻撃的布陣とするが、イタリアの堅守を攻めあぐねる。
それでも攻め続けると、ようやくロスタイムに阿部のFKから高松大樹がヘッドで返し2-3。しかしその直後、審判の笛が吹かれて試合は終了。連敗となった日本は、早くも予選敗退が決まる。
最終戦、日本はオリンピック1勝を目指しガーナとの対戦に臨んだ。ガーナは予選突破の可能性を残しており、ステファン・アッピアーやアサモア・ギャンなど個人能力の高い選手が日本に襲いかかった。
だが日本の守備は乱れることなく、組織的なパス回しで試合の主導権を握る。そして37分、大久保のヘディングシュートが決まると、日本はガーナの反撃を退け1-0と初勝利をあげた。
オリンピックが終わると、Wカップアジア第2次予選が再開。山本監督は五輪代表を率いるに当たり「アテネ経由ドイツ行き」というスローガンを掲げていたが、彼ら若手がフル代表に呼ばれることはなかった。
ダイレクトパスによる速い攻撃を信条とする五輪代表と、ボール保持を重視するポゼッションサッカーのA代表ではコンセプトが違いすぎたのだ。しかもジーコの中には確たる序列があり、若い選手がそこに食い込むのは至難の業だった。
日本は第2次予選で1点差の試合が続くなど、内容に不満は残ったものの、どうにか全勝でグループを勝ち抜いた。自主性を重んじるジーコは細かい連携を選手に任せていたが、選手たちは必ずしも一枚岩とは言えなかった。
特に中田英寿と守備陣の間の溝は大きく、彼らが激しく言い合う場面もしばしば。それでも監督のジーコから、彼らに明確な指示が出されることはなかった。こうしてまとめ役不在のまま、選手たちは戸惑いながらのプレーを余儀なくされる。
W杯出場を決める3次予選は05年2月から始まった。最終予選の形式は勝ち上がった8チームを2組に分け、ホーム&アウェーの総当たり戦を行なうというもの。そして各グループの2位までがWカップの出場権を得て、3位になったチームも4次予選で残り1枠の出場権を争うことになる。日本の組み合わせはイラン、バーレーン、北朝鮮となった。
初戦の相手は北朝鮮、難敵をホームに迎えての試合だった。対外試合の少ない北朝鮮は謎のチームと呼ばれていたが、この時には日本出身のJリーガー安英学と李漢宰が招集されていた。
立ち上がりの4分、小笠原満男の得点で日本が先制。リードして前半を折り返すも、後半の61分には攻撃に転じた北朝鮮に同点とされてしまう。
ホームでの引き分けを避けたい日本は、勝ち越しを狙い攻勢を掛けるが、点は入らなかった。そして試合終了目前のロスタイム、ゴール前の攻防から大黒将志が振り向きざまのシュート。勝ち越し弾を決めた。辛くも勝ち点3を拾った日本だが、次の対戦はグループ最大の強敵、イランとのアウェー戦で苦戦が予想された。
ジーコはこの試合に備え、1年振りとなる中田英を招集。いつものように中田英と守備陣の間に意見の相違が起ったが、やはりジーコ監督から明確な方針が示されることはなかった。
試合は12万人収容のスタジアムに満員の観客を集めて始まったが、ほとんどが地元イランを応援する人々だった。しかも試合前には大音量のコーランが流れ、興奮した観客が騒ぎ続けるという異様さだった。
日本は前半イランに先制点を許すが、68分福西崇史のシュートで1-1の同点とする。この場面、引き分けで良しとするのか勝ち点3を狙うか確認も行なわれず、選手の意思統一は出来ていなかった。その75分、日本の中途半端な上がりの裏を突かれ、イランに勝ち越し弾を許してしまう。ジーコは慌てて小笠原と大黒を投入するが、時遅く1-2の敗戦を喫した。
バーレーンを日本に迎えた第3戦は、必勝を期するも低調な内容。それでも0-0のまま進んだ後半の71分、バーレーンのオウンゴールで先制。日本は幸運な勝利を手にする。
しかし5月のキリンカップで、日本はペルーとUAEに連敗。チームの雰囲気は最悪の状態となっていた。これに危機感を覚えた主将の宮本恒靖は、合宿に入った中東アブダビで選手ミーティングを行なう。このミーティングで三浦淳宏が「みんな本当にW杯へ行きたいのか? 俺は年齢的に最後だし出たい」と熱く訴える。
すると、他の選手からも忌憚のない意見が出され、ばらばらだったチームに初めて意志の統一が図られた。分解しかけていた日本代表を救ったミーティングは、のちに「アブダビの夜」と呼ばれるようになる。
そして6月3日、再びバーレーンとアウェーで第4戦が行なわれた。この試合、日本は落ち着いてボールを支配し、危なげないゲーム運びで1-0の勝利。この時点で日本は、グループ2位以内確保をほぼ確実とする。
第5戦、6月8日の北朝鮮戦はWカップ出場を懸ける試合となった。この対戦は本来、アウェー平壌で行なわれるはずだった。しかし北朝鮮の観客がイラン戦で暴動騒ぎを起こしたため、FIFAの裁定により中立地での無観客試合となっていた。
その中立地として選ばれたのが、タイの首都バンコク。何が起こるか分からない平壌での試合を避けられため、日本にとって幸運なアクシデントと言えた。
この試合、日本から多くのサポーターが駆けつけ、スタジアムの外で応援を行なう。両チーム動きが鈍く、なかなか点が入らなかったが、73分に柳沢敦が先制点を決める。終了直前の89分にも大黒がダメ押し点を入れ、日本は2-0と危なげなく勝利。3大会連続となるW杯出場を決めた。
その8日後の16日、日本はアジア大陸チャンピオンとしてドイツで開催されたコンフェデレーションズカップに参加する。この大会、Wカップ予選の重圧から解放された日本選手たちは伸び伸びとプレーした。
中米カリブ海王者メキシコとの初戦には1-2と敗れたが、柳沢の得点などで好勝負を演じる。そして2戦目では大黒が得点を決め、ヨーロッパチャンピオンのギリシアを1-0と打ち破った。
そして第3戦目で戦ったのは、ロナウジーニョやカカなどスター選手を揃えたブラジル。立ち上がりに右サイド加地亮のシュートが決まったかに思えたが、オフサイド判定で取り消される。その数分後、ロナウジーニョのドリブルからパスを受けたロビーニョにゴールを決められ、失点する。
しかし先制したブラジルのプレッシャーが緩くなると、中盤の福西崇史が相手の隙を突き、ノーマークの中村俊輔へパスを送る。中村はワントラップで身体を反転、強烈なミドルシュートをブラジルゴールへ叩き込んだ。
同点とされたブラジルの攻撃は再び活性化する。今度はロビーニョが日本サイドに切り込むと、フリーになったロナウジーニョにボールが渡り逆転弾を許してしまう。
試合も大詰めとなった88分、日本は相手ペナルティエリア付近でフリーキックのチャンスを得た。キッカーの中村が足を大きく振り抜くと、ボールは右ゴールポストを直撃する。いち早く動いた大黒がその跳ね返りをブラジルゴールへ蹴り込み、再びブラジルに追いついた。
結局日本はブラジルと2-2で引き分け決、勝トーナメント進出を逃すが、強豪相手に大健闘の戦いを見せた。
コンフェデレーションズカップ1ヶ月後の7月末、韓国で東アジア選手権が開催される。だが選手たちのモチベーションは低く、初戦の北朝鮮戦は見所のない内容で1-0と敗れる。そこでジーコは、第2戦の中国戦に阿部、田中、駒野友一、茂庭照幸、今野泰幸らのアテネ組や、巻誠一郎といった今まで試してこなかった若手を起用した。
この中国戦を2-2で引き分けると、続く韓国戦も若手主体で臨む。日本は終始劣勢だったが、粘り強く守り抜き1-0と勝利した。しかしジーコジャパンには依然として確固たる順列が存在しており、この大会以外アテネ組が起用されることはなかった。
8月には消化試合となったWカップ予選のイラン戦を行ない、2-1と有終の美を飾った。この後ジーコジャパンは幾つかの親善試合をこなすが、守備の組織が曖昧で苦戦が続いた。Wカップ本戦に向け、まだまだ課題は山積みのままだった。