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サッカーの歴史や人物について

サッカー日本代表史 21.  ザッケローニ時代(前編)

 

南アWカップ終了後の9月、アルベルト・ザッケローニの日本代表監督就任が発表される。ザッケローニセリエAで3大クラブを率いた実績を持ち、イタリア人らしい陽気さより真面目さを持つ男だった。Wカップの試合を見て日本に関心を持ち、代表監督の話が来た時は即断でオファーを受けている。

 

同時にロンドン五輪を目指すU-21チームの監督に、関塚隆A代表コーチ兼任で就任することも発表された。関塚は11月に開催される中国アジア競技大会に向け、選手を招集する。

 

だが、この時期Jリーグがシーズン中だったため、集められたのは出場機会の少ない選手と大学生だった。このチームには鈴木大輔水沼宏太、山口蛍、東慶悟や、当時大学生の永井謙佑山村和也らがいたが、ベストメンバーと呼ぶにはほど遠く「2軍」と揶揄された。

 

だがその期待の低さが選手たちを奮起させ、チームは全員攻撃・全員守備で戦い予選リーグを全勝突破。そして彼らは勢いに乗って勝ち進み、ついに決勝へ進出。UAEを1-0で破って、アジア大会初優勝を成し遂げる。この大会、なでしこジャパンも初優勝を果たしており、男女ダブルでのサッカー競技金メダル獲得となった。

 

ザックジャパンは10月の親善試合で、メッシ擁するアルゼンチンを1-0で破るなど好スタートを切った。そして翌11年1月、カタールで開催された第15回アジアカップに参加する。

日本代表は南アWカップのメンバーをベースにチームを編成。そこに新しく、吉田麻也ドルトムントで売り出し中の香川真司を加えて大会に臨む。

日本はグループリーグ第1節のヨルダン戦から苦戦を強いられた。連携の悪さからリズムを崩し、ヨルダンに1点を先制されたまま後半ロスタイムに突入する。その92分、ショートコーナーから吉田のヘディングが決まり同点、日本は貴重な勝ち点1を手にした。

第2節のシリア戦では前半に長谷部誠の先制点が生まれ、日本は後半途中までリードを保つ。だが72分、長谷部のバックパスから日本に連携の乱れが生じ、ゴール前でボールを拾ったシリアの選手をGK川島永嗣が倒してしまう。

線審は倒された選手がオフサイドの位置にいたと判断し旗を揚げるが、主審はそれを認めず川島は退場処分。シリアにPKが与えられた。

日本ベンチは猛抗議をするも受け入れられず。退場した川島の代わりに西川周作を入れ、FWの前田僚一を下げざるを得なかった。シリアに同点のPKを決められたうえ、数的不利にとなった日本だが、諦めずに反撃を開始する。

終盤の81分、途中出場の岡崎慎司ペナルティーエリアで倒されPKを獲得。それを本田圭佑が決め、なんとか2-1の勝利を収めた。これで調子の上向いた日本は、最終節のサウジアラビア戦で5-0と快勝。グループリーグを首位で突破した。

決勝トーナメント1回戦の相手は、開催国のカタール。大歓声の後押しを受けたカタールに前半で先制点を許すが、日本も香川の大会初ゴールで追いついた。

激しい攻防が繰り返された63分、日本のペナルティーエリア横で、吉田がサイドを突破しようとする相手選手を倒してしまう。主審は吉田のプレーをファールとし、イエローカードを提示した。吉田はこの試合2枚目の警告で退場となり、カタールにはFKが与えられる。

このFKをカタールに決められ、ビハインドを背負う日本。勝ち越しに喜ぶ相手選手を横目に、憮然とした表情の吉田がピッチを去っていった。

不利な状況に追い込まれた日本は、本田を最前線に上げ、香川、岡崎の3人を並べる攻撃的布陣に打って出た。そして71分には本田のスルーパスが岡崎に当たり、それを拾った香川が抜け出して同点ゴールを決める。

このあとカタールの反撃を日本が粘り強く守り耐え続け、ゲームは終盤戦へ。その終了直前、混戦から跳ね返りのボールを後方で拾った長谷部が、前線の香川へ速い縦パスを送る。

それを受けた香川が鋭いドリブルでゴール前へ切り込むと、相手DFがタックルで阻止。香川は倒されたものの、すぐ横にいた伊野波雅彦がボールを拾いゴールへ叩き込む。こうして日本は3-2と逆転勝ちを収め、準決勝へ進む。

李忠成の決勝ボレー弾

準決勝は宿敵韓国との戦いになった。22分、今野の接触プレーがファールと判定され、日本はPKで韓国に先制を許してしまう。日本も36分、長友佑都が左サイドから鋭く切り込み相手DFを引きつけると、マイナスのパスから前田の同点弾が決まった。その後一進一退の攻防が続くもののスコアは動かず、1-1で延長戦に入った。

延長前半の6分、岡崎がペナルティーエリア間際の位置で倒され、日本はPKのチャンスを得る。キッカー本田の蹴ったシュートはコースが甘くキーパーに弾かれてしまうが、いち早く詰めていた細貝萌がボールをゴールへ押し込んだ。追い込まれた韓国は猛然と攻撃を開始するが、日本は守備的布陣で逃げ切りに掛かった。

延長後半も終了寸前、韓国に最後のチャンスとなるFKが与えられる。そのFKからゴール前に混戦が起こり、日本DFの隙間から韓国の同点ゴールが生まれた。こうして試合は2-2の同点で終了し、またもやPK戦での決着となった。

PK戦では川島が韓国のシュートを立て続けに阻止するプレーで3-0と圧倒、日本が前大会の借りを返して決勝進出を決めた。だがこの試合で香川が足の指を骨折してしまい、決勝を前にチームを離れることになる。

決勝で戦うのは強敵オーストラリア。激戦の続いた日本選手の疲労と消耗は相当なものだった。香川の他にも、酒井高徳や槇野智明、松井大輔らが怪我で戦列を離れていた。ザッケローニ監督は香川の代わりに、この大会初先発となる藤本淳吾を起用する。

オーストラリアはロングボールを使ったシンプルな攻めで来るが、疲れのある日本はボールの出どころを押さえられず何度もゴールを脅かされた。それでも相手の決定力の低さに助けられ、日本はどうにか前半を無失点に終える。

後半56分、日本はプレーに精彩を欠く藤本を下げ、空中戦に強いDF岩政大樹を投入して守備の安定を図った。そこから日本に落ち着きが出るが、両チームとも決定的なチャンスを逃しついに延長戦に突入した。

延長前半の98分、ザッケローニは前田に代えて李忠成を投入。14分、川島がオーストラリアのシュートを指先で弾くと、その直後に放った本田のミドルシュートも相手GKに防がれた。

延長後半の109分、遠藤保仁のパスを左サイドで受けた長友が、ドリブルからゴール前中央へセンタリング。そこにはフリーで待ち構えていた李がいた。李は美しいフォームで左足を一閃、均衡を破るボレー弾を突き刺した。

1-0とした日本は韓国戦での失態を繰り返さないよう、集中を切らさずオーストラリアの猛攻に耐えた。そして残りの延長戦後半を守り切ると、試合終了の笛が吹かれた。苦戦続きだった日本は総力戦でオーストラリアに打ち勝ち、04年北京大会以来のアジア制覇を成し遂げた。

ロンドン五輪アジア予選

11年になると、五輪出場を目指すチームも本格始動する。しかし3月に東日本大震災が発生し、強化スケジュールは大幅に変更となってしまった。

だが6月に始まったクウェートとの第2次予選を、ホームで3-1、アウェーで1-2と僅差で逃げ切り最終予選突破を決める。この時のチームには、Jリーグで頭角を現わした権田修一酒井宏樹清武弘嗣大迫勇也などが新たに加わっている。

そして9月には最終予選が開始。予選は12チームを3グループリーグに分け、ホーム&アウェーの総当たり戦を行ない、各組1位が五輪出場権を得ることになった。日本の組み合わせはマレーシア、バーレーン、シリアに決る。日本はホームの初戦でマレーシアを2-0と破ると、2ヶ月後のバーレーン戦を、新鋭・大津裕樹のゴールなどで2-0と快勝した。

国立競技場で行なわれた第3戦の相手は、グループ最大の敵シリアだった。前半日本はリードするが、後半75分にカウンターから同点とされてしまう。引き分け狙いのシリアはゴール前を固め、日本の攻撃を跳ね返した。

試合は残り4分、日本はシリアのサイドを破りクロス。そのクロスを飛び込んできた大津が決め、チームは辛くも2-1と勝利を収める。こうして日程の半分を終了し、日本がグループ首位に立った。

不気味さの重圧 アウェー北朝鮮

9月には、Wカップ・ブラジル大会アジア第3次予選も始まった。日本の対戦相手は北朝鮮ウズベキスタンタジキスタンと決まり、上位2チームが最終予選に勝ち上がることになった。日本は初戦の北朝鮮戦から苦戦。本田圭佑が負傷離脱したため、柏木陽介か代わりにトップ下に入り試合は始まる。。北朝鮮には日本出身のJリーガー、鄭大世チョンテセがいた。

台風12号による強風の影響はあったが、選手たちは落ち着いてパスを回し、チャンスを作っていった。だがシュートは打つものの、精度を欠いて得点は決まらない。

反対に前半はほとんどチャンスのなかった北朝鮮だが、後半開始すぐに香川のパスミスから鄭大世がボールを奪い、日本ゴールへ攻め入った。その場面は日本DFが身体をぶつけて鄭をブロックしたが、流れが悪くなったのを感じたザッケローニは柏木を下げ、50分に新戦力の清武を投入する。

北朝鮮に疲れが見え始めた70分、監督は李に代えて追加招集の長身FWハーフナー・マイクを投入。その84分、危険なタックルにより北朝鮮選手が一発退場。数的優位に立った日本は攻勢を強め、ロスタイムに入った94分、清武が右ショートコーナーからリターンパスを受け、中央に狙い澄ましたクロスを送る。するとゴール前の密集から吉田が頭ひとつ抜け出し、ヘッドを合わせて決勝ゴール。日本は土壇場で勝ちを拾った。

続く第2戦、アウェーでのウズベキスタン戦も苦しい戦いとなった。前半先制された日本は、後半にようやく追いついて引き分ける。それでも11月のタジキスタン戦で8-0と大勝すると、1ヶ月後のリターン戦でも相手を4-0と一蹴。その後ウズベキスタン北朝鮮に勝利したため、日本の2位以内が確定。最終予選進出を決めた。

4日後、日本代表はタジキスタンから中国を経由して平壌に入った。消化ゲームとなった北朝鮮戦だが、閉ざされた国での対戦にマスコミの注目が集まる。スタジアムには5万の観客が集まり、彩りの乏しいスタンドからは喧騒の声が響いた。

日本からは150人のサポータも応援に駆けつけていたが、彼らを囲むように人民軍の兵士が配置されていた。日本は疲労を考慮しサブメンバー中心で戦うが、雰囲気に呑まれた選手の動きは硬く、0-1と敗れてしまう。

ザックジャパン17戦目での黒星となったが、最終節のウズベキスタン戦も0-1と連敗。消化不良な内容に、日本は6月の最終予選に向け仕切り直しをする。

 

rincyu.hateblo.jp

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