五輪最終予選を首位で折り返した日本は、翌12年2月に後半最初のシリア戦に臨んだ。シリアが政情不安のため、急遽中東の代替地で試合が開始。だがピッチの状態は悪く、細かいパス回しが持ち味の日本は苦戦する。18分、日本のクリアしたはずのボールが、ミスとイレギュラーでオウンゴール。先制を許す。
それでも前半のうちに永井謙佑のゴールで追いつくが、後半も押し込まれる展開は続く。このまま引き分けに持ち込みたいところだったが、試合終了直前に決勝点を入れられてしまう。その結果シリアに総得点で抜かれ、日本はグループ2位へと転落する。
気合いを入れ直した日本は、次のマレーシア戦で奮闘。力をつけてきた齋藤学、原口元気、扇原貴宏らが活躍し、4-0と勝利して首位に返り咲いた。
そして3月14日に五輪出場を懸けた最終戦、バーレーンとの試合が国立競技場で行なわれた。前半はやや攻め急ぎ相手の守備ブロックを敗れなかったが、ハーフタイムに選手で確認しあうと、55分に待望の先制点が生まれる。その4分後にも清武弘嗣が豪快なシュートを決め、残り時間を守り切って2-0と勝利。日本は五大会連続の五輪出場を決めた。
ワールドカップ最終予選開始
6月3日、フル代表でもブラジルWカップ出場を懸けた最終予選が始まった。予選に勝ち上がった10チームを2組に分け、ホーム&アウェーの総当たりで各組上位2チームにWカップ出場権が与えられる。日本の組み合わせはオマーン、ヨルダン、オーストラリア、イラクとなっていた。
日本は初戦ホームでオマーンを3-0で破り、5日後のヨルダン戦も本田圭佑のハットトリックなどで6-0と大勝。絶好のスタートを切る。そしてその4日後には、グループリーグ最大の敵、オーストラリアと対戦することとなった。日本は吉田麻也が負傷したため、代わりに栗原勇蔵を先発で起用する。試合はホームのオーストラリアが、優勢に試合を進めた。
22分、カウンターから抜け出そうとしたケーヒルを、背後から栗原がファール。イエローカードを受けてしまう。前半はリズムが掴めなかった日本だが、後半入った55分、ゴール前でボールクリアしようとした内田篤人にミリガンが衝突。ミリガンのプレーはファールとなり、この試合2枚目の警告で退場となる。
数的優位となった日本は反撃を開始。20分にはCKから本田が長谷部誠とパスを交し、ドリブル突破。そこからボールをマイナスに折り返すと、ファーサイドの栗原がゴールネットを揺らした。
これで日本がアドバンテージを握ったかに思えたが、68分、内田の守備がファールと判定されPKを与えてしまう。これで同点としたオーストラリアは息を吹き返し、再び攻勢を強める。
その終盤戦、またも栗原が相手を倒しイエローカード。2枚目の警告で退場となり、10対10の戦いとなった。だがこのまま試合は1-1で終了、日本は敵地で勝ち点1を得た。しかし警告を受けた選手も多く、3ヶ月後のイラク戦では3人のDFが出場停止となる。
ロンドン五輪出場を決めた日本は、5月のトゥーロン国際大会に参加。酒井高徳など新戦力を試すが、3試合7失点と守備の弱さを露呈する。DF強化の必要性を感じた関塚監督は、OA枠として吉田麻也と徳永悠平を招集した。こうして五輪代表チームは、7月のロンドン大会本番に臨むことになる。
日本の組み合わせはスペイン、モロッコ、ホンジュラス。この大会での男子五輪代表に対する期待は高くなく、注目は前年の女子W杯で初優勝を果たした なでしこジャパンの方に集まっていた。
初戦の相手は強豪スペイン。この時のスペインチームにはダビド・デヘアやコケ・イスコ・ジョルディ・アルバといったタレントに加え、OA枠のハビ・マルティネスやファン・マタらがいた。
日本は豊富な運動量でプレッシャーをかけ続け、スペインの攻撃を抑えた。小気味よいパス回しからチャンスを作り、34分にはCKから大津祐樹が先制点を決める。このあと反撃を試みるスペインを、俊足・永井のチャージとカウンターで牽制。日本がペースを握り続けた。
40分、DFイニゴのトラップミスから、ボールを奪った永井が相手ゴールに迫る。失点のピンチを防ぐべく、イニゴが後ろから永井に抱きつきレッドカード。日本は数的優位に立った。
後半も優位を活かして攻め続ける日本だが、GKデヘアの好セーブ連発に阻まれ、追加点は生まれなかった。それでも日本は終始試合をリード、1-0の勝利を収める。強豪スペインをシュート6本に抑えるという快勝だった。
第2戦では守備を固めたモロッコを相手に、日本は攻めあぐねる。その39分、清武がハーフラインよりロングボールを放り込むと、永井が快足を飛ばし追いついた。永井は飛び出すGKの寸前でボールを浮かすと、綺麗な弧を描きゴールへ吸い込まれていった。
試合は1-0で終了し、日本は早くも準々決勝進出を決めた。最終節は宇佐美貴史や杉本健勇など出場機会の少なかった選手たちで臨み、ホンジュラスと0-0で引き分ける。
準々決勝エジプト戦に臨んだ日本は、前半14分に永井の先制ゴールが生まれる。だがその際チャージを受けた永井は脚を打撲し、交代を余儀なくされる。だがその後も大津や吉田の追加点で3-0とし、メキシコ五輪以来の準決勝に進むことになった。
準決勝のメキシコ戦は、聖地ウェンブリー・スタジアムで行なわれた。関塚監督は痛みの残る永井を強行出場させるも、やはり動きは鈍かった。それでも12分、大津のスーパゴールで先制する。
しかし31分に同点とされると、メキシコにペースを握られ、65分にミスから逆転を許してしまう。残り時間、次々に攻撃のカードを切る日本だが、ロスタイムにも失点して1-3と敗れる。
なでしこジャパンが金メダルを逃した翌日の8月10日、日本は2度目の銅メダルを目指して韓国と3位決定戦を戦った。この試合に闘志を燃やす韓国はフィジカル勝負で挑み、日本は受け身となってしまう。35分には韓国の激しいスライディングタックルで小競り合いが起こるなど、試合はヒートアップした。38分に日本はDFのミスからボールを奪われ、ドリブルシュートを決められてしまう。
後半に反撃を試みるも、韓国の厚い壁に阻まれチャンスが生まれない。すると後半59分、韓国GKのロングボールから守備ラインを突破され、追加点を許してしまう。日本は杉本、宇佐美を投入して反撃、87分には大津がゴールネットを揺らす。だがファールがあったとして得点は認められず、そのまま0-3で試合は終了。44年ぶりの銅メダルに惜しくも届かなかった。
9月、Wカップ最終予選が再開し、日本はホームでイラクと戦う。この試合、ザックジャパンで先発出場を続けてきた香川真司が初めて欠場するが、前田遼一が得点を決めると、そのまま危なげなく逃げ切り1-0と勝利した。
続く11月のアウェー・オマーン戦では、清武のA代表初ゴールが生まれ日本が先制する。だが逃げ切りに懸かった77分、吉田のファールからFKを決められ追いつかれてしまう。
息を吹き返したオマーンは、サポーターの大声援を受け反撃にかかる。守勢を強いられた日本だが、終了直前の89分、酒井高のクロスを遠藤保仁が反らし、岡崎慎司がゴール。2-1と劇的な勝利を収めた日本は、Wカップ出場に王手をかけて年内の対戦を終える。
翌13年3月、引き分けでもWカップ出場が決まるアウェー・ヨルダン戦は、長友佑都と本田が不在の試合となった。荒れたピッチに苦しみながら、日本はチャンスを作る。
しかし得点機を逃し続けた前半ロスタイム、油断から先制点を許すと、後半50分にも速攻から0-2とされてしまう。その後の反撃も香川の1点に終わり、1-2と試合を落として、Wカップ出場は次戦に持ち越された。
6月4日、ホーム埼玉スタジアムでの対戦は、強敵オーストラリアとの試合だった。双方互角の勝負を繰り広げ、戦いは後半途中まで一進一退の状況が続いた。だが試合も終盤に差し掛かった81分、オーストラリアの左サイドからのクロスボールが、そのまま日本ゴール右上隅に吸い込まれた。
思わぬ失点を喫した日本は、追いつくべく猛攻を開始する。そしてロスタイムに突入した90分、本田がゴール前にクロスを放った。そのボールが相手DFの腕に当たり、日本はPKを獲得する。
キッカーは本田。彼の蹴ったボールは、左に飛んだGKシュウォーツァーをあざ笑うかのようにゴールのド真ん中に突き刺さった。寸前で1-1の引き分けに持ち込んだ日本は、こうして5大会連続のWカップ出場を決める。
1週間後、W杯予選の消化試合となるイラク戦を1-0で終えると、4日後にはブラジルで開催されたコンフェデレーションズカップに、アジアチャンピオンとして参加する。まさにこの大会は、日本の現在の力を試す絶好の場だった。初戦の相手はブラジル。日本は開始早々にネイマールの先制点を許すと、あとは手も足も出ず0-3と惨敗した。
2試合目は、ザッケローニの母国であるイタリアとの対戦。この試合、中盤を制した日本は本田と香川のゴールで30分過ぎまで2-0とリードする。だが強豪のイタリアは体勢を立て直し、ハーフタイムを挟んで立て続けに得点。日本はたちまち逆転される。そのあと岡崎のゴールで一旦追いつくも、終盤に失点して3-4の惜敗となった。
第3戦目のメキシコ戦では前半互角の勝負を繰り広げるものの、日本は後半に2点を失う。最後に岡崎の得点で一矢報いたが、2-1の敗戦。大健闘ながら大会を3連敗で終えた。
7月、韓国で開催されたE-1東アジア選手権には若手中心で臨み、大迫勇也、山口蛍、柿谷曜一朗らの活躍で優勝を果たす。そして10月には東欧遠征を行ない、強化試合を行なった。しかし裏のスペースを塞がれ、パス回しに終始する消極さで日本の攻撃は停滞。セルビアに0-2、ベラルーシに0-1と敗れ、打開力のなさを露呈した。
この遠征中、本田がザッケローニに話し合いを申し込み、遠藤と長谷部を加えたメンバーでミーティングが行なわれた。決まり事を減らし、攻撃に人数をかけるべきと主張する本田と、現戦術のまま前線の動きの質を向上させたい監督との意見は合わなかった。この時は長谷部が調整を図ったが、チーム内の意志の乱れが噂されるようになる。
11月にはベルギー遠征が行なわれ、日本は2試合をこなした。第1戦の相手はオランダ。オランダはスナイデル、ファンペルシーが欠場するも、快足ロッベンが攻撃陣を牽引。たちまち2点を奪われる。
それでも44分、大迫のゴールが生まれ1点差。後半は日本がペースを握った。その60分、遠藤が右サイドに展開すると、内田、岡崎、本田、内田、大迫と流れるようなパスワークでオランダの守備を崩し、最後に本田がシュート。鮮やかな同点弾が決まった。
強豪オランダと2-2で引き分けた3日後、地元ベルギーと試合を行なった。ベルギーは育成強化の成果により、アザールやルカクなどの若いタレントが台頭。急速に力を伸ばしてきたチームだった。
しかし日本は持ち味のパスサッカーを展開し、ベルギーを上回る内容。新戦力・柿谷のゴールなどで3-1と快勝した。この勝利は南ア大会以降、「自分たちのサッカー」を唱える選手たちに手応えを与えた。