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サッカーの歴史や人物について

サッカー日本代表史 24. アギーレ / ハリル時代

 

 

 
ハビエル・アギーレの日本代表監督就任

ブラジルWカップ終了後の14年8月、メキシコ人監督ハビエル・アギーレの日本代表監督就任が発表される。これは前監督のザッケローニがWカップという国際舞台で経験不足を露呈し、日本が惨敗を喫した反省を踏まえての人選だった。

 

また体格的にもメキシコのパスサッカーは、日本が手本にすべきスタイルだという見方もあり、その点でも相応しい監督だと思われたのである。

 

9月には最初の親善試合が行なわれたが、そこで日本が繰り広げたのは、ロングボールを主体とした放り込みのサッカーだった。実はそれがアギーレの基本スタイルだったのだが、思わぬ苦戦が続き、新監督は戦術を日本従来のポゼッションサッカーに切り替えた。

 

そこで武藤嘉紀柴崎岳乾貴士といった新しい選手も試すが、結果が伴わず、ザック時代の主力に頼らざるを得なくなる。

 

またアギーレには監督就任当初から芳しくない噂があり、12月にはスペイン・サラゴサ監督時代の八百長疑惑が報道される。そんな逆風の中、アギーレは日本代表を率い15年1月に開催されたアジアカップ・オーストラリア大会に臨んだ。

 

アジアカップ敗退とアギーレ退任

初戦はパレスチナに対し4-0と快勝、2戦目はイラクを1-0で撃破した。この試合で決勝点となるPKを決めた本田圭佑は、岡崎慎司と敬礼パフォーマンスを披露している。そして3試合目のヨルダン戦も、2-0と危なげなく勝利。首位で予選リーグを突破し、準々決勝のUAE戦を迎える。

アギーレはここまでほとんど同じメンバーを起用しており、中2日で戦う選手たちの疲労は溜まっていた。試合は開始直後からピンチが続き、7分には早くも先制点を許してしまう。反撃を試みる日本だが、全体的に動きは鈍く、決定機さえ生まれなかった。

後半に入り、アギーレは武藤、柴崎、豊田陽平の3人を次々と投入。日本は交代選手の奮闘でペースを掴み、39分には柴崎のダイレクトシュートが決まって同点。ようやく1-1と追いついた。

試合が延長に入ると、長友佑都が腿裏を痛めて動けなくなり、交代枠を使い切っていた日本は苦しい戦いを強いられる。それでもどうにか守り切り、延長を終了。勝負はPK戦にもつれ込んだ。だが日本は本田と香川真司がシュートを外し、UAEに4-5の結果。準々決勝で大会から姿を消してしまう。

翌2月、スペイン検察によるアギーレ八百長疑惑の告発が裁判所に受理される。その事実を受け、日本サッカー協会はアギーレの代表監督解任を決定した。ファルカン監督時代よりさらに短い、僅か半年間の就任期間となった。

 

リオ五輪世代の活躍

リオ・デ・ジャネイロ五輪出場を目指すU-21代表チームは、ザッケローニ時代の13年末に結成された。ベガルタ仙台を率いていた手倉森誠が監督に就任。チームの主軸として植田直通遠藤航大島僚太中島翔哉浅野拓磨らが招集される。

チームは翌14年1月に開催されたU-22アジア選手権に出場。準々決勝でイラクに敗れた。また9月の仁川アジア競技大会でも、準々決勝で開催国韓国の前に敗退を喫している。

おとなしい選手の揃ったチームは、五輪アジア予選を前に不安視されるも、1次予選を3戦全勝で勝ち抜いた。リオへの最終予選を兼ねたアジアU-23選手権は、16年1月にカタールで行なわれることになった。この時点でチームには井手口陽介南野拓実久保裕也なども加わり、戦力は厚みを増していた。

グループリーグの第1戦、北朝鮮戦では開始5分で植田が先制点を決め、1-0の勝利。続くタイ戦では先発6人を入れ替えるも、4-0で連勝した。そして第3戦では、前の試合からさらに10人を入れ替え、サウジアラビアとの試合に臨んだ。

5人が初先発というフレッシュな日本チームは、伸び伸びとプレー。大島の豪快なミドルシュートなどで2-1と勝利し、ベスト8進出を決める。準々決勝のイラン戦ではパワフルな攻撃に押されるが、好守で跳ね返して0-0のまま90分を終えた。

延長に入るとイラン選手の足が止まったが、毎試合メンバーを入れ替えた日本には余裕があった。延長前半、豊川雄太のヘディングシュートが決まると、後半にも中島が立て続けに2得点、3-0の快勝を収めた。

そして準決勝イラク戦では久保が先制ゴールを決めるも、前半のうちに追いつかれてしまう。延長もちらついた後半アディショナルタイム原川力の勝ち越し弾が生まれて2-1と勝利。リオ五輪出場を確定させた。

決勝の相手は韓国。日本はこの難敵に2点をリードされるが、後半の67分と68分に立て続けのゴール。そのあと追いつかれて動揺した韓国を押し込み、81分には浅野が逆転ゴール。

こうして驚異的な粘りで韓国を逆転した日本は、3-2と劇的勝利。リオ五輪出場を決めるとともに、アジアU-23の大会チャンピオンにも輝いた。

リオ・オリンピックの失望

8月4日、リオ五輪のサッカー競技が始まり、日本はグループリーグでナイジェリア、コロンビア、スウェーデンと対戦する。日本の五輪代表には、O/A枠として塩谷司興梠慎三などが加わっていた。

初戦のナイジェリア戦は、序盤から激しい打ち合い。2-3とリードされて前半を折り返す。後半もさらに2点を決められ、日本はさらに苦しい状況に追い込まれるが、終盤に入り怒濤の反撃。2点を返した。

しかし最後までナイジェリアに追いつくことは出来ず、4-5で惜しくも初戦を落としてしまった。次に負ければ予選敗退が決まる日本は、システムを変更しコロンビア戦に臨んだが、2点をリードされまたもや苦戦を強いられる。しかしそこから粘りを見せた日本に、浅野と中島のゴールが生まれ、どうにか2-2と引き分けることが出来た。

予選突破をかけた最終戦、日本は攻めに出るが屈強なスウェーデンDFに跳ね返され、なかなかシュートまで持ち込めない。それでも64分、矢島慎也が大島からのクロスを押し込み、先制点が生まれた。その後も優勢に試合を進めるが、追加点を挙げられずに1-0で試合は終了。日本は大会初勝利をあげたものの、勝ち点で及ばずグループリーグ敗退となってしまった。

15年3月、解任されたアギーレの後任として、ヴァヒド・ハリルホジッチの監督就任が発表された。ボスニア・ヘルツェゴビナ出身のハリルは、旧ユーゴスラビア代表選手として活躍。ヨーロッパやアフリカでの監督経験も豊富だった。

アルジェリア代表監督時代には、当時無名のマフレズを抜擢。ブラジルWカップでチームを初の決勝トーナメント進出へ導く。その決勝Tでは、大会優勝を果たすドイツと熱戦を展開。1-2で敗れるも、その手腕は高い評価を受けた。一方、規律に厳しく妥協を許さない性格で選手や組織幹部との衝突も多く、途中解任の憂き目に遭うことも少なくなかった。

独演が止まらない新監督の就任記者会見は、長時間に及んだ。その時ハリルが掲げたフレーズが「縦に速いサッカー」と「デュエル」だった。ハリルはJFA内に監督室を設け、代表活動がない時もそこで分析や戦術に時間を割くなど仕事熱心。選手に対する要求も厳しく、体脂肪率12%以下を求めるなどのこだわりを見せる。

6月には、ロシアWカップのアジア第2次予選が行なわれた。初戦のホーム・シンガポール戦では、相手GKのイズワン・マフブドがスーパーセーブを連発。日本は格下相手に0-0と引き分け、不安を感じさせるスタートとなった。それでも残り試合を取りこぼすことなく全勝、無事に最終予選進出を決める。

リオ五輪終了後の16年9月、Wカップアジア最終予選が始まった。日本はサウジアラビア、オーストラリア、UAEイラク、タイの5チームとホーム&アウェーで総当たり戦を行ない、グループ2位までに与えられた出場権(3位はプレーオフ)を争うことになった。

初戦はホーム埼玉スタジアムでのUAE戦。日本は本田のヘディングで11分に先制するが、19分には微妙な判定からFKを与え、そこから同点とされてしまう。52分にも大島がペナルティーエリアで足を引っかけたと判断され、PKでの逆転を許す。

反撃を試みる日本は何度もチャンスを作り出し、68分には宇佐美貴史ペナルティーエリアで倒されるが、判定はノーファール。ハリルの激しい抗議も受け入れられず、カタール人主審の厳しいジャッジに泣かされた日本は、1-2で敗れてしまった。

試合内容の悪さに、初戦を落としたチームの予選突破確率0%とネガティブな報道もなされる。だが気を引き締め直した日本は、強敵オーストラリアと敵地で引き分けるなど順調に勝ち点を重ねていった。ドイツで自信をつけた原口元気も活躍、4試合連続得点を記録し勝利に貢献する。そして11月に前半を終えた時点で、日本はサウジアラビアと並ぶ首位に立った。

翌17年3月に最終予選が再開。アウェーのUAE戦ではリオ世代・久保の活躍で2-0と勝利し、初戦のリベンジを果たす。このあとも首位をキープし続けた日本は、8月31日にオーストラリアをホームに迎えての対戦を行なう。

埼玉スタジアムで行なわれたこの試合は、勝った方がW杯出場を決める大一番となった。ボランチに起用された井出口が、良い動きでオーストラリアの攻撃を抑えるが、日本の攻めも単発で得点に繋がらなかった。相手のシュートがポストに当たり、ヒヤリとした直後の41分、長友がサイドからクロスを送ると、タイミング良く抜け出しだ浅野がネットを揺らして先制する。

主導権を握った日本に対し、反撃の糸口が掴めないオーストラリアは、70分に「日本キラー」と呼ばれるケーヒルを投入。日本も75分に原口を入れて対抗。その82分、井手口が相手守備網をドリブルで切り裂くと、そのまま右足を一閃、豪快なミドルシュートが決まった。試合は2-0と完勝、日本は若手の活躍で6大会連続のWカップ出場を決めた。

このあと日本代表はロシア大会本番に向け強化を図るが、チーム内の歪みは大きくなっていった。11月に行なったベルギー遠征でブラジル、ベルギーと対戦するも、強豪相手にハリルジャパンの戦術は通用せず完敗。12月に開催されたE-1東アジア選手権でも、日本を研究した韓国に1-4の惨敗。しかしハリルの口から出たのは、開き直りの言葉だけだった。

低調な試合内容が続くも、ハリルから具体的な打開策が示されることはなく、監督の指示は「とにかく前へ速く」の一辺倒だった。ついに選手から話し合いの要求が出されるが、ハリルはそれを拒否。監督の戦術に疑問を呈した本田、香川、岡崎、乾らが代表を外されていく。だが残った選手たちにも、ハリルの独裁的で押しつけの激しい指導と、結果が伴わない采配に不満や不信感が高まっていた。

18年3月、再びベルギー遠征が行なわれるが、マリに1-1、ウクライナに1-2と成果の窺えない内容だった。以前からハリル解任に傾いていた田嶋幸三サッカー協会会長は、この結果を受けてついに決断。4月にハリルの本拠地であるフランスを訪れる。

そしてハリルと面談した田島会長は、コミュニケーション不足と選手との信頼関係の薄れを理由に、代表監督契約の解除を申し渡した。ロシアWカップを直前に控えた解任劇は物議を醸すが、立て直しを図る日本代表の指揮は、チームを見守ってきた技術委員長・西野朗に託される。

 

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