サイレントノイズ・スタジアム

サッカーの歴史や人物について

ワールドカップの歴史 第11回アルゼンチン大会(1978年)

「軍事政権とエル・マタドール」

 

 

軍事独裁政権の思惑

戦前から何度もWカップの開催国に立候補し、その度に涙を飲んできたアルゼンチンだが、66年のロンドンFIFA総会でようやく第11回大会の開催地に選ばれた。しかしそれから10年後の76年、クーデターにより軍事政権が発足。アルゼンチンを取り巻く状況が一変する。

 

軍事政権は左翼や反政府活動家を弾圧。拷問されたり、拉致されて行方不明になった人々も1万人を越えた。軍事政権は2年後に迫ったWカップを、予定通り開催すると表明するが、反抗する左翼ゲリラが軍部の任命した組織委員長を暗殺。欧州からはアルゼンチンでの開催を不安視する声が上がった。

 

しかしFIFAは「代替地を選ぶ時間が無い」とアルゼンチン開催を支持。これには軍事政権と関係を持つ、アヴェランジェ会長の意向もあったと噂されている。この時のアルゼンチン代表監督は、左翼思想を持つセサール・メノッティ監督だったが、軍事政権は彼にナショナルチームの指揮を続けさせた。

 

軍事政権は国際的イメージ回復のためWカップを利用しようと考え、そのためにはアルゼンチンチームの優勝が必要だった。だが60年代に入ってからのアルゼンチンのサッカーは、守備的で汚く半ば暴力的。対外的な評判は悪かった。

 

そんなダーティなチームが優勝しても、イメージアップに繋がらないと考えた政権は、クリーンで攻撃的なサッカーを指向していたメノッティに強化を一任。またメノッティ監督も思うようなチーム作りをするためには、軍事政権の強権的な力が必要で、図らずも両者の思惑が一致する。

 

メノッティは国内のクラブに代表チームへ協力するよう圧力をかける一方、無名だったダニエル・パサレラやオズバルド・アルディレスなどの知性派選手を発掘。中盤の軸に育て上げた。

 

集められた選手は国内クラブの選手で固められ、国外移籍を禁じた上で連携を深める合宿が行われたが、Wカップ本番前に「エル・マタドール(闘牛士)」の異名を持つ点取り屋マリオ・ケンペスが、唯一スペインのバレンシアから招集された。

 
第11回 ワールドカップ開幕

予選には世界の107ヶ国がエントリー、チュニジアとイランがWカップ初出場を果たす。軍事政権は国際映像のため、テレビのカラー中継施設を新たに建設するなど、大会のために巨額の資金を使ってインフラを整えた。

こうして第11回ワールドカップ・アルゼンチン大会は、1978年6月1日、首都ブエノスアイレスで開幕した。大会の方式は前回と同じく、2次リーグを勝ち抜いた2チームが決勝戦を行う形になった。政情は不安定だったが、左翼ゲリラも期間中は活動の停止を明言。平穏に大会が行われた。

1次リーグA組は、開催国アルゼンチンの他にイタリア、フランス、ハンガリーといった強豪国が揃う死の組。第1節でアルゼンチンはハンガリーと対戦。先制されたもののレオポルド・ルーケのシュートですぐに追いつき、後半にベルトーのゴールで逆転して初戦を飾った。

第2節の相手は、3大会ぶりの出場となったフランス。前節イタリアに1-2と惜敗したフランスは、ミシェル・プラティニやドミニク・ロシュトーら若手選手を並べ、アルゼンチンに挑んできた。審判の笛はかなり開催国寄り、前半のロスタイムにはアルゼンチンのルーケが倒されたプレーがPKと判定され、これをパサレラが確実に決めた。

それでも60分、プラティニがゴールを決めてフランスが同点。しかし73分にはルーケが強烈なミドルを叩き込み、アルゼンチンが勝ち越す。だがこのあとルーケは肩を脱臼、以降2試合の欠場を余儀なくされる。終盤フランスの選手がP・エリアで倒されるが、主審は何の反応も示さなかった。こうして試合は2-1で終了し、アルゼンチンが2連勝を飾る。

第3節はアルゼンチンとイタリアの試合。すでに両チームとも2次リーグ進出を決めており、グループ1位を争う戦いとなった。1位を確保して2次リーグもブエノスアイレスに留まりたいアルゼンチンだが、引き分け狙いで守りを固めたイタリアを崩せず、試合は後半を迎えた。

67分、イタリアの新星パオロ・ロッシが左サイドでボールを奪い、中央に侵入すると素早くワンツー。そこからベッテガがゴールを記録した。イタリアは最後までゴールを守り切り、0-1の勝利。首位をイタリアに奪われたアルゼンチンは2次リーグを、首都から350㎞離れたロサリオで戦うことになる。

世代交代の大会

B組の西ドイツは前回優勝の中心メンバー、ベッケンバウアーミュラー、オベラートなどが代表を退き、チームは世代交代の過渡期にあった。第1節の相手は、前大会でも好勝負を演じたポーランドポーランドは前回怪我で欠場していたルバンスキが復活、ディナやラトーといった主力選手も健在だった。だが開幕ゲームだったせいか、両チーム慎重な試合運びで0-0の引き分けに終わる。

第2節のメキシコ戦では、打って変わって西ドイツの攻撃陣が爆発。カール=ハインツ・ルンメニゲとフローエがそれぞれ2得点を挙げ、6-0と圧勝した。第3節チェニジア戦では、地元アルゼンチンと2次リーグで同組になるのを避けるため、西ドイツは引き分けを狙う。

こうしてチェニジアと0-0で引き分けた西ドイツは、予定通りの2位。2勝1分けのポーランドが1位となった。チェニジアは大会初出場ながら、常連国のメキシコを3-1と撃破。1次リーグを1勝1敗1分けと、予想以上の健闘を見せて大会を去って行った。

C組のブラジルは、初戦のスウェーデン戦に新戦力のジーコトニーニョ・セレーゾを起用。しかしピッチコンディションが悪く、思わぬ苦戦。スウェーデンに先制を許してしまう。それでも前半終了直前に追いつくが、後半は膠着状態。だが後半ロスタイム、CKのチャンスにジーコが頭で合わせてゴール。ブラジルが勝利を収めたかに思えた。

しかしゴール寸前に、終了の笛が吹かれたとして得点は無効。試合は1-1の引き分けとなった。ブラジルは第2節スペイン戦でも0-0と引き分け、第3節はメンバーを大幅に入れ替えて臨み、ようやくオーストリアに1-0と勝利した。B組はヨハン・クランクルが活躍したオーストリアが1位、ブラジルは精彩を欠くも2位を確保した。

D組は、前回準優勝したオレンジ軍団のスパースター、ヨハン・クライフが私的事情で大会直前に参加を辞退。ファンやオランダ国民をがっかりさせた。それでも初戦はレンセンブリンクがハットトリック、イランを3-0と退ける。第2節では「アンデスのペレ」クビジャス擁するペルーと0-0で引き分け、この時点で2次リーグ進出が決まった。

D組でオランダに次ぐチームだと思われていたのがスコットランドスコットランドイングランドリーグで活躍する選手を揃え、欧州選手権王者チェコスロバキアを倒してWカップ出場を果たすなど、大会の伏兵的存在だった。

初戦の相手はペルー。スコットランドは持ち前のスピードを発揮し、14分に先制点を挙げる。しかしクビジャスの作り出すリズムに、テンポを崩されたスコットランドは43分に失点。後半72分にはクビジャスのミドルシュートで逆転を許し、77分にもクビジャスにFKを叩き込まれてしまう。

1-3とペルーに逆転負けしたスコットランドは、続くイランも1-1とまさかの引き分け。この時点で敗退が決まった。消化試合となった第3戦では、主力を温存したオランダに3-2と勝利するも、W杯前の意気込み虚しく大会を去って行った。

D組は、クビジャスのハットトリックでイランを4-1と撃破したペルーが1位、オランダが2位で2次リーグ進出を決めた。

 

2次リーグの戦い

2次リーグA組の組み合わせは、オランダ、イタリア、西ドイツ、オーストリア。第1節のイタリア対西ドイツ戦、ディノ・ゾフゼップ・マイヤーという名GKを擁した両チームの戦いは、スコアレスドローに終わった。もう一つの試合は、オランダがその攻撃力を発揮。レップの2得点などでオーストリアを5-1と粉砕する。

続く第2節、イタリアはロッシが決めた1点を守り切り、オーストリアを退けた。前回決勝と同じ顔合わせとなった西ドイツとオランダの試合は、期待に違わない接戦が繰り広げられた。

開始3分、ボンホフの放った強烈なFKから西ドイツの先制点。しかし26分、ハーンが鮮やかなロングシュートを放ち、GKマイヤーの牙城を破る同点弾を叩き込む。これが、今大会西ドイツの初失点となった。

70分、ディータ・ミュラーのヘディングシュートで再び西ドイツがリード。だが84分には、オランダのR・ファン・デ・ケルクホフが相手DFを切り裂く同点弾を決める。こうして試合は2-2で終了。西ドイツは決勝進出の望みを残すも、オランダ対イタリア戦の結果次第となった。

オランダと対戦したイタリアは、開始18分にロッシとベッテガの連携でオフサイドラインを突破。そこからオランダDFブランツのオウンゴールを誘い、先制点を得る。このままカテナチオで逃げ切りにかかるイタリアだが、後半50分、1点を献上したブランツがミドルシュート。名誉挽回の同点弾を決めた。

さらに74分、今度はハーンが40mのロングシュートを放つと、ボールはゾフの手をかすめゴールイン。ついにオランダが2-1と逆転し、このまま試合は終了した。もう一つの試合は、モチベーションを落とした西ドイツがオーストリアに2-3と敗戦。オランダの決勝戦進出が決まった。

疑惑の2次リーグ最終戦

2次リーグB組の組み合わせは、アルゼンチン、ブラジル、ポーランド、ペルー。第1節のアルゼンチン対ポーランド戦が行われたロサリオの会場は、アルゼンチン時代のケンペスのホームグランド。この試合でケンペスは、2得点を挙げてエースの本領を発揮。2-0とポーランドを葬り去った。

19歳で出場した前大会は6試合で無得点、今大会1次リーグでは攻撃を牽引しながらもゴールを逃していたため、Wカップ10試合目にしての初得点だった。もう一つの試合は、ブラジルが徹底マークでクビジャスを押さえ込み、ペルーに3-0と勝利。この試合、ジーコがPKでWカップ初得点を挙げている。

第2節はアルゼンチン対ブラジル。南米の宿敵同士の戦いに観客は興奮、グラウンドには紙吹雪やトイレットペーパーが投げ込まれた。ゲーム内容も大荒れとなり、両チーム4人が警告処分。アルディレスなど4名が負傷交代した。試合は中盤の潰し合いに終始、結局0-0の引き分けとなった。もう一つの試合は、ポーランドがペルーを1-0で下している。

決勝進出を決める第3節は、ブラジルの試合のあと、アルゼンチンの試合が行われることになった。つまりブラジルの結果を見て、アルゼンチンが戦い方を定められるという、開催国に有利なスケジュールだった。だがブラジルは最終節でポーランドに3-1と圧勝。得失点差で優位に立ち、このあとで戦う開催国アルゼンチンにプレッシャーをかかけた。

アルゼンチンが決勝に進むには、ペルー戦で4点以上の得点と3点差以上の勝利が必要だった。これを受け、選手たちは試合序盤から猛攻を開始。21分にはケンペスの先制点が生まれた。観客の大声援に押されたアルゼンチンは、その後も攻撃の手を緩めることなく、ケンペスとルーケがそれぞれ2得点を記録。6-0と会心の勝利を挙げた。

ペルーのGKはもともとアルゼンチン出身。しかもアルゼンチンの軍事政権が、同じ軍事政権のペルーに物資と金銭の援助を申し出たという噂もあり、八百長による結果ではなかいと囁かれた。真偽の程は定かではないが、アルゼンチンの選手が必死で戦ったのは確かだった。

エル・マタドールの一撃

第11回ワールドカップの決勝戦は6月24日、8万の観衆で膨れ上がったリーベル・プレート・スタジアムで行われた。紙吹雪が舞い、紙テープが投げ込まれる中で始まった試合は、さっそくアルゼンチンがペースをつかむ。38分、ゴール前でアルディレスの縦パスを受けたルーケが、中央へ折り返し。そこに走り込んできたケンペスが、2試合連続の先制点を決めた。

試合はこのまま進み、アルゼンチンの優勝が見えてきた82分、途中投入されたオランダ長身FWのナニンハが、クロスからヘディングを合わせ同点。試合は延長戦に突入する。息詰まるような展開が続いた105分、ケンペスが強引なドリブル突破からシュートを試みた。

そのシュートは1度GKに跳ね返されるも、ケンペスは粘り強くボールを拾い、勝ち越し点を押し込む。延長後半、同点を狙うオランダが前掛かりになったところを、116分にケンペスが鮮やかに抜け出しワンツー。そこからベルトーニの決定的な得点が生まれた。

試合は3-1で終了、開催国アルゼンチンが初優勝を成し遂げた。八百長疑惑や開催国寄りのジャッジはあったものの、アルゼンチンは今までのイメージを覆す、スマートかつ攻撃的なサッカーで国民の期待に応えたのだった。

大会3位となったのはブラジル。得点王(ゴールデンシューズ賞)と本大会から創設されたMVP(ゴールデンボール賞)は、6ゴールを挙げて優勝に貢献したマリオ・ケンペスに輝く。

 

rincyu.hateblo.jp

rincyu.hateblo.jp