「オレンジ旋風の衝撃」
ブラジルがメキシコWカップで大会3度目の優勝を達成し、ジュール・リメ杯を永久保持する事になった。FIFAはそれに代わる新たなトロフィーを制作、大会の正式名称も『FIFAワールドカップ』に決まる。そして第10回目となるワールドカップは、64年東京でのFIFA総会で西ドイツでの開催が裁決された。
予選には99の国と地域のチームが参加、前大会ベスト8のイングランドなどが本大会出場を逃し、東ドイツ、ハイチ、ザイール(現、コンゴ)、オーストラリアが初出場を果たした。欧州では中堅国のオランダとポーランドが、戦前の大会から36年ぶりとなる出場を決定。この2チームが大会に旋風を巻き起こすことになる。
オランダは欧州予選で苦戦したという経緯もあり、前評判は決して高くなかった。報酬を巡ってチーム内にゴタゴタが起き、アヤックスとフェイエノールトの2大派閥の折り合いも悪く、チームはまとまりを欠いていた。
大会の数ヶ月前に監督解任劇が起き、オレンジ軍団の再建はリヌス・ミケルスに託された。当時オランダ代表の主力は、アヤックスで育った選手たち。そのアヤックスを「トータルフットボール」の戦術でチャンピオンズカップ3連覇に導いた男が、このミケルス監督だった。
トータルフットボールとは、豊富な運動量で頻繁にポジションチェンジしながらボールを回し、繰り返し攻撃を仕掛けながら守備もすかさずカバーする「全員攻撃・全員守備」の戦術。ミルケスはアヤックスの監督時代にヨハン・ニースケンスやアリー・ハーンといった選手を鍛え上げたが、やはり最高傑作は今やFCバルセロナの顔、ピッチの支配者ヨハン・クライフだった。
大会開幕の3日前、フランクフルトで開かれたFIFA総会で現職のスタンリー・ラウスを破り、ブラジル人のジョアン・アヴェランジェが第7代FIFA会長に選ばれた。欧州以外で初のFIFA会長となったアヴェランジェは、この後次々と大胆な政策を推し進めていくことになる。
西ドイツ大会は、これまでのリーグ戦とトーナメント戦を組み合わせた方式から、4組の1次リーグを勝ち抜いた8チームで2組の2次リーグを行い、それぞれの1位同士が決勝戦を行う方式に変わった。
そして第10回ワールドカップは74年6月13日、ミュンヘン五輪テロ事件の影響により厳重な警戒が敷かれる中、フランクフルトで開幕した。
1次リーグ1組は、これまで1度も対戦したことのない西ドイツと東ドイツが同組となり、大会前から大きな話題を呼んだ。西ドイツは当時28歳のベッケンバウアーが、最後尾から前線に上がり、攻撃を活性化するリベロのポジションを確立。攻守の中心として君臨していた。
さらに「爆撃機」ミュラーも健在。その他ゲームメーカーのオベラートや新鋭のブライトナー、堅守を誇る名キーパーのゼップ・マイヤーなどのタレントも揃っていた。地元開催ということもあり、西ドイツは優勝候補に挙げられていたが、事前のキャンプで大会ボーナスを巡る内紛が勃発。監督のヘルムート・シェーンも手を焼く状態だった。
西ドイツは初戦でチリを攻めあぐね大苦戦。それでもブライトナーによるロングシュートの得点を守り切り、どうにか1-0と勝利を収めた。続く第2戦は初出場のオーストラリア3-0と退けるが、内容は不満が残るものだった。
最終節は注目の東ドイツ戦。東西ドイツで1位通過を争う戦いとなった。試合は力の勝る西ドイツが何度かチャンスをつくるも、どうしても得点に結びつかない。その69分、観客のコールに応えるように、オベラートに代えてギュンター・ネッツアーが投入された。
ネッツァーは72年欧州選手権優勝の立役者で、国民に人気のゲームメーカーだった。しかし、ベッケンバウアーとオベラートのコンビネーションの良さという壁に阻まれて、今大会では出場機会を失っていた。
ネッツァーを投入した8分後、西ドイツは東ドイツに絵に描いたようなカウンターを受け失点。0-1の敗北を喫してしまう。こうして東西ドイツが史上唯一戦った試合は、東ドイツに軍配。こうして東ドイツが首位突破を果たし、西ドイツは2位通過となった。この敗戦は西ドイツの観客にショックを与え、力を出せなかったネッツァーは、これ以降ベンチ入りさえすることはなかった。
この敗戦に危機感を覚えたベッケンバウアーは、自分の意見をはっきり監督に伝えるようになる。こうして2次リーグから、「皇帝」ベッケンバウアーがチームの采配にも関わるようになった。
第2組はブラジルとユーゴスラビアが勝ち点4で並び、得失点差でユーゴが1位、ブラジルが2位となった。ブラジルはペレやトスタン、ジェルソンといった優勝メンバーが代表を退き、攻撃力が低下。チームの規律も緩んでいた。1次リーグ3試合で挙げた得点は、ザイール戦での3点だけという体たらくだった。
第3組、オランダのミルケス監督は第1節のウルグアイ戦に、負傷した正GKの代役として33歳のセミプロ選手、ヨングブルートを起用。オランダは全ての選手が参加する「トータルフットボール」で、古豪のウルグアイを圧倒。2-0の快勝で世界を驚かせた。
2得点を挙げたのは若手のレップだが、チームの頭脳としてタクトを振るいながら自由にピッチを駆け回り、華麗なプレーで観客を虜にしたのは背番号14のクライフだった。クライフは足元にボールを置くと、ゆっくり動きながら相手ディフェンダーの動きを誘う。そして敵が動く素振りを見せた瞬間、一瞬でトップスピードに乗り、敵を置き去りにしていった。
その積極的な攻めを可能にしたのが、大胆なオフサイドトラップの多用。背後に空いたスペースを、飛び出しと足元の技術に定評のあるGK、ヨングブルートにケアさせる。こうして大会本番で「トータルフットボール」はその威力を発揮する。
続くスウェーデン戦はスコアレスドローとなったが、最終のブルガリア戦はその戦術で再び相手を圧倒。オランダは豊富な運動量で守備の網を張り、パスコースを消し相手にプレスをかける「ボール狩り」を行った。オウンゴールで1点失ったものの、試合はニースケンスの2得点などで4-1と勝利。オランダが難なく首位突破を決め、1勝2分けのスウェーデンが2位通過した。
第4組、ポーランドはダークホース的存在だったが、ミュンヘン五輪では金メダルを獲得。欧州予選ではイングランドを打ち破り、その実力を見せていた。大会前に中心選手のルバンスキを怪我で失ってしまったが、代わってカジミエッシュ・ディナが変幻自在のパスで攻撃を操った。
初戦のアルゼンチン戦、ポーランドは開始7分でグジェゴジ・ラトーが先制点を記録。その1分後にもラトーのアシストからシャルマッフが追加点を決めた。持ち味のスピードでテンポの遅いアルゼンチンを凌駕したポーランドは、62分にもラトーが点を決め3-2。接戦をモノにした。
続くハイチ戦では、ラトーの2得点とシャルマッフのハットトリックで格下を7-0と粉砕。ちなみにハイチはその前の試合で、無失点を続けていたイタリアの名GKディノ・ゾフから、1047分ぶりに得点を奪うという快挙を見せている。
第3節の相手はイタリア。ともにカウンターを得意とするチーム同士だが、イタリアにはリベラ、マッツォーラ、リーバ、ボニンセーニャ、ゾフといった前大会準優勝の主力メンバーが残っており、優勝候補の一角でもあった。
試合開始からラトーが前線で相手を引きつける動きを繰り返していると、一瞬カテナチオに穴が空いた。38分、その空いたスペースにボールが送られると、走り込んだカスペルチャックが中央へ折り返し。そこからシャルマッフのヘディングゴールが生まれた。
さらに45分、同じような形でカスペルチャックが中央にパス。ディナのミドルシュートによる2点目が決まった。終盤ファビオ・カペッロに1点返されたものの、ポーランド優勢のまま試合は2-1で終了した。こうして3組はポーランド1位、アルゼンチンが2位となり、優勝候補イタリアは予選敗退となってしまった。
2次リーグA組に入ったオランダは、第1節でアルゼンチンと対戦。豪雨の中の試合となったが、ゲームはオランダが終始圧倒。クライフが2得点を挙げ、4-0の大勝で南米の古豪を退けた。続く第2節、東ドイツにはもはやオレンジ旋風を止める力は無く、ニースケンスの得点などでオランダが2-0と勝利する。
ブラジルは初戦で東ドイツと対戦。0-0で迎えた60分、ブラジルFKのチャンスに東ドイツはゴール前に6枚の壁を築く。その壁の中にブラジルのジャイルジーニョが割り込み、キッカーのリベリーノがセットしたボールを左脚で蹴り上げた。
その瞬間、ジャイルジーニョが身をかがめると、ボールはその上に出来た隙間を抜けて右へ回転。見事ゴールネットへ吸い込まれていった。この得点を守り切りブラジルが1-0と勝利するが、このFKがカナリア軍団唯一の見せ場となる。ブラジルは2節で宿敵アルゼンチンに2-0と競り勝ち、決勝進出を懸けてA組最終節のオランダ戦に臨む。
試合は後半の50分、クライフのパスを受けたニースケンスが振り向きざまにシュート。GKエメルソン・レオンの頭を越え先制点が決まった。さらにその15分後、クロスに走り込んだクライフがジャンピングボレー。ダイナミックな追加点が生まれる。
この鮮やかなプレーは、クライフに「フライング・ダッチマン(空飛ぶオランダ人)」の異名を与えた。
84分には暴力行為でブラジルDFが退場処分。オランダは2-0とブラジルに完勝し、初のWカップ決勝進出を果たす。かつて最強を誇ったカナリア軍団も、オレンジ軍団の勢いの前にはなす術がなかった。
西ドイツは1次リーグで東ドイツに負けて2位となったことで、オランダとは別のB組に入った。2次リーグでオランダとの戦いを避けられたことは、チームの立て直しを図る西ドイツにとって幸運だった。
西ドイツ第1節の対戦相手はユーゴ。シェーン監督とベッケンバウアーは話し合いでチームの布陣を変更、この試合に22歳の新鋭ボンホフを起用した。ボンホフは活発な動きで前線をサポート、39分にはブライトナーの先制点を呼び込む。82分にもミュラーが追加点、西ドイツが2-0と快勝を収めた。
第2節はスウェーデン戦。西ドイツは前半に先制されるが、後半オベラートとボンホフの連続得点で逆転した。しかしすぐに追いつかれてしまい流れが悪くなると、ベンチはクラウボウスキを投入。そしてそのクラウボウスキが76分に勝ち越し弾。89分にもPKを得て、西ドイツが4-2と熱戦を制す。
好調ポーランドは第1節、スウェーデンに苦戦を強いられるも、ラトーの得点を守り切り1-0と勝利。第2節のユーゴ戦も接戦となるが、1-1で折り返した後半の62分、ラトーの勝ち越し弾が生まれて2-1。このまま逃げ切り勝利を手にする。
そして最終節、西ドイツとポーランドのゲームは、試合前の豪雨でピッチが水浸。スピードを身上とするポーランドの持ち味を失わせた。それでもディナのスルーパスにラトーが何度も抜けだすが、西ドイツ守護神マイヤーが好守を連発、失点を防いだ。
76分、ボンホフがペナルティエリアにボールを持ち込み、ミュラーへパス。ミュラーはぬかるんだピッチで右に流れながらシュート、貴重な1点を挙げた。こうして1-0と薄氷の勝利を収めた西ドイツは、5大会ぶりの決勝進出を果たす。
B組2位となったポーランドは、この後A組2位のブラジルと3位決定戦を行い、1-0で勝利。この試合でも得点を挙げたラトーが通算ゴールを7つに伸ばし、大会得点王を獲得した。
第10回ワールドカップ決勝は7月7日、ミュンヘンのオリンピック・スタジアムに8万人近い観客を集めて行われた。試合前の予想では、オランダが圧倒的に優勢だと見られていた。
そして試合は開始1分、クライフが中盤の深い位置からドルブルで駆け上がり、Pエリアでベルティ・フォクツに倒されPKを獲得。これをニースケンスが豪快に決めオランダが先制した。
しかしこの速すぎる先制点が、オランダに緩みを生じさせてしまう。西ドイツは慌てず反撃を開始、25分には逆にPKを得てブライトナーが確実に沈め、1-1の同点とする。最初こそクライフにやられてしまったフォクツだが、そのあとマンマークでオレンジ軍団のキーマンを封殺。「トータルフットボール」を機能不全に追いやっていた。
43分、クラウボウスキのパスからボンホフが右サイドをドルブル突破、ミュラーへ折り返しのパスを送る。ミュラーは後方へトラップすると素早く反転しシュート、勝ち越し点が決まった。流れを失ったオランダは後半ロングボールに頼るなど、大会を盛り上げた華麗な攻撃は陰を潜めてしまう。
試合は2-1で終了、西ドイツは大会2度目の優勝を果たした。オレンジ軍団の戦術は、ベッケンバウアーを中心とした西ドイツ円熟の試合運びに、その動きを封じられてしまったのだ。
ヨハン・クライフは現役引退後、監督としてもその才能を発揮。16年に68歳の若さで無くなってしまうが、ミケルスの薫陶を受けたサッカー哲学は、今もFCバルセロナで受け継がれている。