「サルディーニャの雷鳴」
異次元のパワーで相手DFを震え上がらせ、時にアクロバティックなプレーでゴールをこじ開けたイタリア史上屈指のストライカー。驚異の跳躍力で空中戦も得意とした。その左足から放たれる破壊力抜群のシュートで「ロンボ・ディ・トゥオーノ(雷鳴)」の異名を持つのが、ルイジ・リーバ( Luigi "Gigi" Riva )だ。
キャリアのほとんどをサルディーニャ島の小クラブであるカリアリで過ごし、3度の得点王に輝くなどチームの絶対的エースとして君臨。69-70シーズンにはその活躍でカリアリにクラブ史上唯一となるスクデットをもたらし、地元サポーターから「サルディーニャの太陽」と呼ばれ敬愛された。
イタリア代表としては1度の欧州選手権と2度のW杯に出場。68年欧州選手権の決勝では、貴重な先制点を挙げて初優勝に貢献。70年メキシコW杯では、全試合に先発出場して6大会ぶりとなる決勝進出に大きな役割を果した。10年間で挙げた通算35ゴールは、現在でもアズーリの歴代最多得点記録を保持している。
ルイジ・リーバ(通称ジジ)は1944年11月7日、スイス国境にあるロンバルディア地方のレッジューノで生まれた。父ウーゴは地元の鋳造所で働く工員だったが、リーバが10歳のとき仕事中に事故死。故障した機械から飛び出した金属片が腹部を貫通するという、悲惨な事故による最期だった。
父が亡くなったことで専業主婦だった母エディスが働きに出るが、残された家族の生活は苦しく、リーバが12歳になると福祉施設であるカトリックの寄宿学校に預けられることになる。
だが冷たく陰鬱な雰囲気の場所で、環境に馴染めなかったリーバは孤独感を深めてゆく。一時はうつ病になりかけるも、そんな状態にあった少年を救ったのは、好きな車について空想することと、サッカーに没頭することだった。
15歳で寄宿学校を卒業すると、6歳上の姉ファウスタとの二人暮らしを始め、自動車修理工の見習いとして働く。そして週末には地元のアマチュアクラブでプレー。その強烈な左足でゴールを量産し、リーバの噂はたちまち町中に広がった。
18歳となった62年には、インテル・ミラノのトライアルを受けるも失敗。それでもセリエCに所属するレニャーニョにスカウトされ、エレベータの製造工場で働きながらプレー。62-63シーズンは左ウィングとして23試合6ゴールの成績を残し、ユース代表にも選ばれる。こうして若手の有望株となったリーバには、いくつかのクラブからオファーが届いた。
だが世に出たばかりの彼にチームを選ぶ権利はなく、クラブが売却先として決めたのはセリエBのカリアリ。イタリア半島から約400㎞、西方の地中海に位置するサルディーニャ島の小クラブだった。
産業の発展した北部ロンバルディア地方に育った彼にとって、遠く海を隔てたサルディーニャ島は未開の地と同然。この移籍話にリーバは落ち込むが、姉ファウスタからの叱咤激励を受け、気持ちを前向きへと変える。2年前には母が癌で死去、リーバは親代わりとなって支えてくれた姉のアドバイスに従うことにした。
こうしてカリアリ行きを決断したリーバだが、サルディーニャ島に向かうオンボロ飛行機の窓から見えたのは、まるで砂漠のような荒涼とした景色。今でこそ風光明媚な人気観光地として知られる島だが、「ここはアフリカか? と思ったぐらいだ」とリーバはその時の心情をのちに吐露している。
カリアリの練習環境も整っているとは言えず、「俺はだまされて世界の果てに来てしまった」と一時は自暴自棄になりかけるが、島民との触れ合いで次第に心を和ませていく。自分を受け入れてくれた町に愛着を抱くようになった彼は、苦しかった少年時代の経験を糧に、チームでの成長を目指すようになったのである。
こうしてリーバは、徐々にストライカーとしての才能を開花。移籍1年目の63-64シーズンは26試合8ゴールの成績ながら、クラブ初となるセリエA昇格に貢献。翌64-65シーズンはセリエAで32試合9ゴールの成績を残し、トップリーグでの6位確保に寄与する。
その後もカリアリは安定した成績でセリエAをキープ。チームのエースとなったリーバは強引なまでのドリブルでサイドを突破し、左足から放つ強力なシュートでゴールを量産。66-67シーズンは23試合18ゴールの活躍で、初の得点王に輝く。
翌67-68シーズンには代表活動中に重傷を負いながらも、26試合13ゴールの好成績。これは15ゴールで得点王となったプラーティに続く2位タイの成績で、怪我さえなければ2年連続得点王が濃厚だった。そしてリーバがエリア外から放つ強烈なシュートは、「雷鳴」と呼ばれ恐れられるようになっていた。
イタリアA代表には20歳のときに招集を受け、65年6月に行なわれた親善試合のハンガリー戦で初キャップを刻む。カリアリ所属の選手として初めてとなるアズーリデビューだった。
だが当初は成果を挙げられず、66年W杯イングランド大会はメンバー落選となる。リーバに初ゴールが生まれたのは、67年11月に行なわれた欧州選手権予選のキプロス戦。この試合では、初ゴールとともにハットトリックを記録。このあと残り2試合で3ゴールを挙げて、自国で開催される本大会(4チームによる決勝トーナメント)進出に貢献。一躍代表エースの候補に躍り出た。
だが準決勝のソ連戦では故障明けとなったリーバの出番はなく、試合は延長を戦って0-0の引き分け。コイントスにより(PK戦が採用されたのは76年の大会から)イタリアが決勝に進む。
決勝の相手はユーゴスラビア。前半39分にドラガン・ジャイッチの先制点を許すも、終盤の80分にドメンギーニが同点弾。勝負は延長120分を終わっても決着がつかず、再試合が行なわれることになった。
2日後に行なわれた再試合では選手5人を入れ替え、ようやく出場を果したリーバが前半12分に先制ゴールを挙げる。31分にもアナスタージの追加点が生まれ、2-1の勝利。開催国のイタリアが欧州選手権初優勝の栄光に輝いた。決勝で貴重な先制点を挙げたリーバは、大会のベストイレブンに選ばれる。
68-69シーズン、「哲学者」の異名を持つマンリオ・スコーピニョ監督のもとで戦力を整えたカリアリは、リーグの上位戦線を快走。セリエAの第21節を終えた時点で首位に立つが、このあとホームのユベントス戦に敗れて陥落。最後フィオレンティーナに優勝を譲ってしまったものの、過去最高成績となる2位を確保する。
カリアリの絶対的エースとしてチームを牽引したリーバは、20得点を挙げて2度目の得点王。今やイタリアを代表するストライカーとなった彼には、ユベントスやインテルといった名門クラブから破格の好条件が提示されるが、「俺は島を離れるつもりはない」と首を縦に振ることはなかった。サルディーニャの地はリーバにとって、もはや特別な場所となっていたのだった。
翌69-70シーズン、スコーピニョ監督はリーバと相性の悪かったFWボニンセーニャをインテルへ放出。代わりにインテルから動きの良いドメンギーニとセルジオ・ゴーリを獲得し、リーバの持ち味を最大限に生かすチーム作りを行なう。
するとカリアリは首位争いをリードし、最終盤の大切な試合となったユベントス戦とバリ戦ではリーバが貴重なゴール。2位のインテルに4ポイント、3位のユベントスに7ポイント差をつけ、本土から遠く離れた小クラブがスクデット獲得の快挙を達成する。
優勝の立役者となったリーバは、28試合21ゴールの活躍で2年連続3度目の得点王。ローマ以南の地に初めての栄光をもたらした男は、その輝かしいばかりの存在感で「サルディーニャの太陽」と呼ばれ敬愛された。
欧州選手権優勝で代表エースの座を確立したリーバは、68年9月から始まったW杯欧州予選でも好調さを維持。グループ4試合すべてで得点し、計7ゴールを記録するという活躍でイタリアを3大会連続のW杯出場に導く。
70年5月31日、Wカップ・メキシコ大会が開幕。初戦のスウェーデン戦はドメンギーニのゴールで1-0と勝利するも、続くウルグアイ戦とイスラエル戦はスコアレスドロー。1次リーグは慎重な試合運びに終始したため、リーバを初めとする攻撃陣は沈黙したままだった。
それでもグループを首位で突破し、トーナメントの準々決勝では地元メキシコと対戦。前半13分に先制されるが、25分にドメンギーニの放ったシュートがオウンゴールを誘い同点。後半63分には、ジャンに。リベラのパスからリーバが2人を抜き去り逆転弾。このあとリベラの3点目が生まれ、最後はリーバが締めくくって4-1の快勝。イタリアが準決勝へと進んだ。
準決勝の相手は西ドイツ。開始8分、リーバへ出したパスのこぼれ球をボニンセーニャが叩き込んで先制。このあとイタリアは伝統の堅守で西ドイツの猛攻を凌ぎ、ゲームはついに後半のロスタイムを迎える。
だがこのまま逃げ切るかと思えた92分、グラウボウスキーのクロスをシュネリンガーに決められ同点。土壇場で延長戦に持ち込まれてしまった。延長前半の94分にゲルト・ミュラーのゴールでリードを許すも、その4分後にはリベラのセットプレーからDFブルグニチの同点弾が生まれる。
さらに延長前半終了直前の104分、リベラのパスからドメンギーニが左サイドを突破。その折り返しをリーバが鋭い切り返しからのシュートで沈め、再びイタリアがリードを奪う。しかし延長後半の110分、ウーベ・ゼーラーが頭で送ったボールを、またもミュラーに決められ3-3。試合は大混戦の模様を呈した。
その1分後、左サイドを抜いたボニンセーニャが中央へボールを送ると、フリーとなっていたリベラが決勝点。イタリアが「アステカの死闘」と呼ばれた激戦を制し、32年ぶりとなる決勝へ勝ち上がる。
しかしこの死闘でアズーリたちは力尽きてしまったのか、決勝ではペレ率いるブラジルに1-4の完敗。ここまでイタリアの攻撃を牽引してきたリーバも、大事な場面でシュートを外してしまうなど精彩を欠いてしまった。
W杯決勝の3ヶ月後には欧州選手権の予選が始まるが、初戦のオーストリア戦でリーバは右足腓骨を骨折。エースを失ったイタリアは苦戦を強いられ、準々決勝ラウンドで敗退。4チームが戦う欧州選手権本大会への進出を逃してしまう。
またカリアリででも長期の戦線離脱を強いられ、13試合8ゴールと入団以来最低の成績。前年リーグ王者のカリアリは、リーバの欠場後に失速し、70-71シーズンは7位へと低迷してしまった。
怪我を克服した71-72シーズンは30試合21ゴールと復活の輝き。インテルのボニンセーニャ(22ゴール)に続く得点ランク2位となり、トップストライカー健在を見せつけた。
だが年齢を重ねるとともに怪我の頻度も増えてゆき、次第にそのパフォーマンスは衰えを感じさせるようになる。
イタリア代表ではW杯欧州予選で7ゴールを記録するなどエースの貫禄を見せ、4大会連続出場に貢献する。だが主力が高齢化したアズーリに4年前の勢いはなく、74年Wカップ・西ドイツ大会は1次リーグ敗退を喫する。
故障を抱えていたリーバは不調にあえぎ、第3戦のポーランド戦は先発落ち。ノーゴールのまま大会を去ることになった。そしてこの大会を最後に代表から引退。代表歴の10年間で42試合に出場、35ゴールを挙げた。これは現在でも代表歴代最多得点記録を保持している。
74-75シーズンはふくらはぎの故障により、8試合2ゴールの成績。翌75-76シーズンに復調の兆しを見せるも、76年1月のACミラン戦で右太腿内転筋断裂の大怪我。最終的に15試合6ゴールの成績を残すが、カリアリは16位に沈んでセリエB転落。自らの限界を悟ったリーバは、32歳での現役引退を決断する。
引退後もサルディーニャ島に残り、カリアリの役員として活動しながら(のち会長に就任)、この地でサッカースクールを運営。地域サッカーの発展に尽力した。
90年からはイタリア代表のチームマネージャーを務め、94年W杯準優勝、06年W杯優勝、ユーロ2000準優勝、ユーロ2012準優勝など、イタリア栄光の歴史に寄与。19年にはカリアリの名誉会長に就任し、現在はクラブレジェンドとしての余生を送っている。
追記:2024年1月22日、心臓病によりカリアリの病院で死去。享年79歳。