サイレントノイズ・スタジアム

サッカーの歴史や人物について

《サッカー人物伝》エンツォ・シーフォ(ベルギー)



「20世紀最後のゲームメーカー」

広い視野と華麗なテクニックを持ち、パスワークやシュートにも独特のひらめきを見せたベルギーの10番。優れたビジョンと戦術的知能を持ち、その予測不能でファンタジーに溢れるプレーから「別の惑星からきた選手」と言われたのが、ビンチェンツォ〈エンツォ〉シーフォ( Vincenzo 〈 Enzo 〉Daniele Scifo )だ。

 

17歳の若さで名門アンデルレヒトのレギュラーを獲得。84年のUEFAカップ準優勝に貢献する。その活躍により、87年にはイタリアの強豪インテル・ミラノへ移籍。ここでは思ったような活躍は出来なかったが、フランスに移ってファンタジスタとしての本領を発揮。モナコではベンゲル監督のもとで96-97シーズンのリーグ優勝に貢献した。

 

ベルギー代表では当時史上最年少の18歳で84年欧州選手権に出場。86年のW杯では “レッドデビルズ” (代表の愛称)の若き司令塔となり、自らも2得点を挙げるなど活躍。「ベルギーの至宝」と呼ばれた。30を過ぎても中盤でのキープ力、パスセンスは相変わらず抜群で、「シーフォは20世紀最後のゲームメーカーだ」と評された。

 

イタリア移民の才能

エンツォ・シーフォは1966年2月19日、ベルギーの炭鉱の町ラ・ルビエールに、3人姉弟の末っ子として生まれる。両親はシチリア島から出稼ぎに来たイタリア移民の二世だった。少年時代は炭鉱労働者だった父親のもとで貧しい暮らしを送るが、ストリートサッカーで秀でた才能を発揮。7歳の時に地元クラブのラ・ヴィエロワーズに入団した。

ここで天性の能力を伸ばしたシーフォは、ジュニアチームの4シーズンで432ゴールという驚異的な記録を残し、「リトル・ペレ」とあだ名されるようになった。そしてその活躍が認められ、16歳となった82年にベルギー最大のクラブ、アンデルレヒトへ移籍。17歳でトップチーム昇格を果たし、83年8月のベールスホット戦でプロデビューを飾る。

そしてデビューの83-84シーズンから25試合5ゴールの成績を残し、レギュラーの座を獲得。同シーズンのUEFAカップの舞台にも立った。決勝ではトッテナムPK戦で敗れるが、準決勝のノッティンガム・フォレストではシーフォが得点を挙げるなど、アンデルレヒトの準優勝に貢献する。

そして2年目の84-85シーズンは、30試合14ゴールの大活躍。アンデルレヒトを4季ぶりのリーグ優勝に導き、ベルギーの年間最優秀選手賞に輝く。

するとベルギーサッカー協会は、この若い才能にベルギー代表入りを要請。将来のイタリア代表を夢見ていたシーフォだが、悩んだ末にベルギー国籍を選択。“レッドデビルズ” のメンバーとなる。

またベルギー国民となったことでアンデルレヒトからも好待遇を受け、5年間の長期契約。さらに高額報酬を得ることになったシーフォは、障害を抱えながら働いていた父親を、炭鉱の重労働から解放させたという。

プラティニの後継者

ベルギー代表には84年6月6日の親善試合、ハンガリー戦で18歳という同国史上最年少のデビューを飾る。その1ヶ月後にはフランスで開催される欧州選手権のメンバーに選ばれ、初の国際舞台に臨んだ。

G/L初戦はユーゴスラビアに2-0の勝利。シーフォは欧州でのお披露目となったこの試合で躍動し、大いに注目を集めた。しかし第2戦は地元フランスに5-0の完敗。ハットトリックを記録したプラティニの影に隠れたシーフォは、後半52分にベンチへ下がっている。

第3戦はデンマークに2-3と惜敗。ベルギーはグループ3位で敗退となったが、3試合に先発したシーフォはプラティニから「彼こそ私の後継者だ」と称賛を受け、次代を背負うファンタジスタとして期待された。

 

ベルギーの至宝

2年目の84-85シーズンは、30試合14ゴールの大活躍。アンデルレヒトを4季ぶりのリーグ優勝に導き、ベルギーの年間最優秀選手賞に輝く。さらに85-86シーズンもリーグを連覇し、若くして名門チームを牽引したシーフォは、ベルギーを代表する選手となった。

84年9月から始まったW杯欧州予選では、2ゴールを挙げてグループ突破に貢献。シーフォは20歳で初のW杯を迎える。

86年5月31日、Wカップ・メキシコ大会が開幕。G/L初戦では地元メキシコに1-2と敗れてしまったが、第2戦はシーフォの先制点でイラクに2-1と勝ち星を挙げた。最終節はパラグアイと2-2で引き分け、グループ3位に滑り込んで決勝トーナメントに勝ち上がる。

トーナメント1回戦の相手は、知将ロバノフスキー監督率いるソ連ウクライナの名門ディナモ・キエフの選手を主体としたソ連は、1次リーグで強豪ハンガリーを6-0と粉砕。プラティニ擁するフランスにも1-1で引き分けるなど、「ダニッシュ・ダイナマイト」旋風を起こしたデンマークとともに大会の話題を集めていた。

試合は前半27分、ベラノフのゴールでソ連に先制を許す。だが後半の56分にシーフォが同点弾を決め、ベルギーが追いすがった。70分にはベラノフの得点でまたもリードされるが、77分にベルギーが再び追いつき延長戦に持ち込む。

すると延長の102分にベルギーが勝ち越し点。110分にも追加点が生まれる。111分にはベラノフのハットトリックで1点を返されるも、ベルギーは老獪な試合運びでソ連の反撃をかわし、暑さで疲弊していく北国チームを退けた。

準々決勝はスペインと対戦。前半35分に先制したベルギーだが、終了目前の85分、途中出場のセニョールに25mのロングシュートを叩き込まれて同点。延長戦にもつれた試合は120分を終了しても決着がつかず、PK戦が行なわれた。そしてPK戦ではシーフォら5人全員が成功。スペインは1人が失敗し、ベルギーがベスト4に進んだ。

準決勝で戦ったのはアルゼンチン。ベルギーは南米の強豪を相手に善戦し、前半を0-0で折り返すも、後半マラドーナの2発に沈んで0-2の完敗。力の違いを見せつけられ、初の決勝進出とはならなかった。

3位決定戦ではプラティニが欠場したフランスに2-4の敗戦。それでも老練さを身上とするベルギーで攻撃のアクセントとなり、過去最高成績となるWE杯ベスト4に貢献したシーフォは、大会のベストヤング・プレーヤー賞に選出。「ベルギーの至宝」と呼ばれる存在となった。

 

イタリアでの挫折

86-87シーズン、アンデルレヒトはリーグを3連覇。チームの若きリーダーとしてさらに名声を高めたシーフォだが、悠然たる彼のプレースタイルには、ゲームのテンポを遅くしていると批判の声も上がる。そこでシーフォはベルギ-を離れる決断をし、87年の夏にはイタリアの強豪インテル・ミラノへ移籍する。

しかしシーフォの古典的スタイルはセリエAの水に合わず、87-88シーズンは28試合4ゴールと期待を裏切る成績。翌シーズンにはインテルバイエルン・ミュンヘンからマテウスとブレーメを迎え、余剰戦力となったシーフォはフランスのボルドーにレンタルされる。

ボルドーでは好調なスタートを切るが、やがて監督のエメ・ジャケと対立。シーフォの出番は次第に減ってゆき、僅か1年で失意のうちにチームを去ることになった。

89-90シーズンは同じフランスのオセールに移籍。ここで名将ギー・ルー監督の薫陶を受け、33試合11ゴールと復活の輝き。UEFAカップでも9試合5ゴールの活躍でチームをベスト8に導き、ディヴィジョン・アン(現リーグ・アン)の最優秀外国人選手賞に輝く。

 

レッドデビルズの司令塔

88年の欧州選手権出場を逃すも、そのあと始まったW杯欧州予選では見事首位突破。シーフォは自身がルーツを持つ地で開かれるW杯に臨んだ。

90年6月、Wカップ・イタリア大会が開幕。G/L初戦はシーフォを中心に、厚みのある攻撃で韓国を2-0と撃破。第2戦で南米の古豪ウルグアイと対戦した。開始16分、カウンターからベルギーが先制。22分にはシーフォが右足ロングシュートを決めてリードを広げた。しかし41分にキャプテのゲレツが2枚目の警告で退場、ベルギーは後半を10人で戦うことになった。

それでも後半開始の48分、意表を突いて攻めに出たベルギーは3点目をゲット。その後の反撃を1点に抑え、難敵ウルグアイを1-3と下した。かつては専守防衛で相手を焦らせていたベルギーだが、シーフォの存在によって多彩な攻めを見せるようになっていた。

第3戦はスペインに1-2と敗れるが、グループ2位で決勝トーナメント進出。その1回戦の相手はイングランドだった。試合は拮抗した展開となり、終盤を迎えても0-0のまま。イングランドの得点がオフサイドで取り消されたあと、シーフォが鋭く曲がるシュートでゴールを狙うが、ポストに阻まれ延長戦に突入する。

PK戦もちらつき始めた延長後半の119分、イングランドFKの場面でポール・ガスコインがボールを浮かすと、落ち際を捉えたデヴィッド・プラットがボレーシュート。鮮やかな決勝点を決められ、ベルギーは惜しくもベスト16で散っていった。

 

ファンタジスタの苦悩

90-91シーズン、シーフォは34試合14ゴールの活躍でリーグ3位の好順位に大きく貢献。ベルギーの年間最優秀プロサッカー選手賞に輝く。

その活躍により、91-92シーズンはイタリアのトリノへ移籍。シーフォは30試合9ゴールの成績を残すも、やはりセリエAでは持ち味を発揮することが出来なかった。UEFAカップでは準決勝で強豪レアル・マドリードを下し、クラブ初となる決勝へ進出。決勝ではアヤックスに敗れ、欧州タイトルを逃してしまう。

翌92-93シーズンは、コッパ・イタリア決勝でローマを破り22年ぶりの優勝を達成。だがチームが財政難に陥ったことからシーフォは放出要員となり、デヴィジョン・アンのモナコへ売却される。

その際トリノのモンドニコ監督からは、「彼は違いを生み出さなかった。チームが上手くいっている時はちゃんと機能するが、そうでない時はゲームから消えていた。個性に欠ける選手の典型だ」と辛辣な言葉を送られてしまう。

それに対しシーフォは、「彼は私を完全に理解していない。僕に期待するなら、それに合わせてくれるようなチーム作りをすべきで、適応しなければいけないのはこっちじゃない」と反論。「20世紀最後のゲームメーカー」と呼ばれた男が、現代サッカーでファンタジスタとして生きることの難しさを訴えた。

それでもモナコではアーセン・ベンゲル監督のもとで再び輝きを取り戻し、93-94シーズンのチャンピオンズリーグでチームを準決勝に導く活躍。28歳となったシーフォは円熟期を迎える。

 

3度目のワールドカップ

91年には、アンデルレヒト時代の恩師であるファンヒムスト監督がベルギーの代表指揮官に就任。チームで自由を与えられたシーフォは、92年4月から始まったW杯予選で躍動。FWマーク・ウィルモッツの5ゴールを助け、自らも4得点を記録。ルーマニアに続くグループ2位突破に貢献する。

94年6月、Wカップアメリカ大会が開幕。シーフォはキャプテンマークを巻いて3度目の舞台に立った。G/Lでは守護神プロドームが大当たり。神懸り的なセーブを連発し、モロッコとオランダを完封。ベルギーは2戦続けて1-0の勝利を収める。

決勝トーナメント進出をほぼ確実にした第3戦は、サウジアラビアと対戦。3連勝での首位突破を狙うベルギーだが、サイード・オワイランの60m独走ゴールを許し、最後はプロドームの牙城を破られ今大会初の失点。0-1の敗戦を喫してしまう。

これで3チームが勝点6で並ぶ大接戦となるが、ベルギーは3位ながら4大会連続のベスト16進出を果たす。しかしトーナメント1回戦ではドイツに2-3と惜敗し、2大会ぶりのベスト8入りはならなかった。4試合すべてにフル出場したシーフォだが、いまひとつ見せ場のないまま大会を終えた。

 

サッカー人生の終わり

94-95シーズンは怪我に悩まされ11試合2ゴールの成績に終わるが、95-96シーズンは34試合7ゴールと復調。96-97シーズンはティエリ・アンリダヴィド・トレゼゲの若い2トップを助けてリーグ優勝を果たすも、アルジェリア出身のアリ・ベナルビアにポジションを奪われて15試合の出場。翌97-98シーズンは、古巣のアンデルレヒトへ復帰する。

98年6月には4度目となるWカップ・フランス大会に出場。しかし32歳になっていたシーフォの出番は少なく、ベルギーは28年ぶりとなるG/L敗退。大会中にレーケンス監督と対立したシーフォは、以降代表に呼ばれることなく、“レッドデビルズ” の活動を終える。14年間の代表歴で84試合に出場、8得点の記録を残した。

アンデルレヒトでは99-00シーズンにリーグ優勝を経験。00年の夏には同じベルギーのシャルルロアに移り、01年から選手兼監督を務めた。しかし02年に肺気腫を発症し、やむなく36歳で現役生活を閉じる。

若くして「ベルギーの至宝」と期待された彼には、その後の活躍に物足りなさを指摘する声もあったが、シーフォは「私より良い成績を収めた選手はいるだろうが、それはほんの一握りだ。自分のサッカー人生には満足している」と語った。

引退後は指導者の道に進み、ベルギー国内のクラブ監督を歴任。15年~16年には、ウィルモッツ代表監督の要請によりU-21代表を指導している。

そのあとしばらくの休養期間を経て、21年6月にロイヤル・エクセル・ムスクロン(2部リーグ)の監督として現場復帰するが、成績不振より僅か4ヶ月で解任。その2週間後。精神的疲弊を理由に指導者の道から退くことを表明した。