「フットボールの革命児」
60年代後半から70年代前半にかけて、「トータルフットボール」の戦術を展開したアヤックス・アムステルダムとオランダ代表の中心を担い、その後のサッカー界に大きな影響を残したレジェンドが、ヨハン・クライフ( Johan Cruyff / Hendrik Johannes Cruijff )だ。
卓越した個人技と確かな戦術眼でピッチを支配。豊富な運動量で自在なポジショニングをとりながら、常に試合の流れを読んで周りの選手に指示を与えた。そしてスピーディーなドリブルで相手を翻弄。DFを一瞬でかわす独特のフェイントは、「クライフターン」と呼ばれ代名詞となる。
74年のW杯は準優勝に終わったものの、大会に旋風を巻き起こしたオランダ代表とクライフは世界を魅了。アヤックスでもチャンピオンズ・カップ3連覇を達成し、バルセロナ時代と含めて3度のバロンドールに輝く。引退後に監督を務めたバルセロナでは、強力なスターを揃えた「エル・ドリームチーム」で一時代を築いた。
クライフは1947年4月25日、アムステルダム郊外にある労働者居住地区で生まれた。細々と青果業を営む4人家族の末っ子として育ち、2歳年上の兄や近所の友達と毎日サッカーボールを蹴って遊ぶうちに、その感覚は磨かれていった。
家の近くにはアヤックスの本拠地があり、小さい頃から選手たちと顔馴染みになっていたクライフは、兄の後を追って10歳でクラブの下部組織に入団。すぐにセンターフォワードとして非凡な才能を見せ始め、ジュニアチームのエースとして活躍するようになった。
14歳でユースチーム入り。華奢な身体のクライフはハードトレーニングを重ね、筋力と肺活量を鍛錬していった。そして持ち味のドリブルとスピードで楽々と相手の防御を突破し、次々と得点を量産。16歳のときには、1シーズンで74ゴールを挙げるという驚異的な数字を残している。
翌64年にはアヤックスのトップチームに昇格。11月にはアウェーで行なわれたGVAV戦で、17歳でのエール・ディヴィジ(1部リーグ)デビューを果たす。試合は1-3で敗れたが、唯一の得点はクライフによるもの。一週間後のホーム、PSVアイントホーフェン戦でも得点を記録して5-0の勝利に貢献。若きヒーローはたちまちチームのアイドルとなっていった。
65年、クラブのOBであるリヌス・ミケルスがアヤックスの監督に就任。前年リーグ13位と降格の危機に晒されたアヤックスは、熱意と厳しい指導に定評のあるミケルスにチームの再建を託したのだ。ミケルス監督は鉄のような規律を敷いてチームを統率。時には選手と口論を交しながら、己のサッカー哲学を浸透させていった。
ミケルスが目指すのは、「素早いボール回しでゲームを支配し、頻繁なポジションチェンジを繰り返してチャンスを生み出す」スペクタクルな攻撃サッカー。そのため選手には厳しいフィジカル・トレーニングを科し、戦術練習にも時間を費やした。
だがこの高度な戦術を可能とするには、戦術眼と技術に優れたキープレイヤーが必要だった。まさにプレイメイカーとして秀でた能力を有するクライフは、この役割にうってつけ。ミケルスは当時19歳のこの若者を徹底的に鍛え、ピッチの指揮官へと育てあげていく。
65-66シーズン、クライフはリーグ戦19試合に出場して16ゴールの活躍。アヤックスも6シーズンぶり3度目のリーグ優勝を果たした。翌66-67シーズンは30試合33得点を記録して得点王を獲得。早くもチームの主力となり、リーグ制覇とオランダ杯優勝の2冠達成に大きな役割を果たした。
66-67シーズンには欧州チャンピオンズ・カップに初出場。その2回戦でビル・シャンクリー監督率いるリバプールと対戦する。その頃のアヤックスは、まだ欧州の無名チーム。イングランドの名門リバプール相手に劣勢が予想されたが、ホームの第一レグはクライフの大活躍で5-1の大勝を収める。
続くアウェーの第2レグも、クライフの2ゴールで2-2と引き分けて2戦合計7-3。事前の予想を覆して準々決勝へ進んだ。準々決勝ではマソプスト擁するデュクラ・プラハに2戦合計1-2と敗れたものの、クライフとアヤックスは一躍その名をヨーロッパに知られるようになった。
オランダ代表には66年に初選出。9月7日に行われた欧州選手権予選のハンガリー戦でデビューを果たし、さっそく代表初得点を記録している。だが代表2戦目となるチェコスロバキア戦で、主審に抗議を行って一発退場。当時はカードによる警告制度が導入されたばかりで、オランダ代表のレッドカード第一号となったクライフは、しばらく代表に呼ばれなくなる。
67-68シーズンにはリーグ3連覇を成し遂げるが、チャンピオンズ・カップでは強豪レアル・マドリードの前に1回戦敗退を喫してしまう。翌68-69シーズンはベンフィカなどの強豪を破って初のチャンピオンズ・カップ決勝に進出。しかし決勝ではジャンニ・リベラ擁するACミランに、1-4と惨敗してしまった。
だがこの敗戦を契機に、ミケルス監督はチームの刷新を断行。戦術にフィットしない選手を外し、ヨハン・ニースケンスやアリー・ハーンといった若手を起用して世代交代を進める。こうしてクライフを中心とした、全員攻撃・全員守備による「トータルフットボール」の完成形が、その姿を現していく。
70-71シーズン、2年ぶりにチャンピオンズ・カップへ出場したアヤックスは、順調に勝ち上がって再び決勝へ進んだ。そして決勝の舞台となったウェンブリー・スタジアムでギリシャのパナシナイコスを2-0と撃破。初の欧州ビッグタイトルを手にした。
優勝の立役者となったクライフは、エール・ディヴィジでも25試合21ゴールを記録するなど大活躍。その素晴らしいプレーと類い希なリーダーシップが評価され、71年のバロンドールに選出されている。彼が好んで背番号14をつけ始めたのもこの頃である。
チャンピオンズ・カップ初優勝を置き土産にミケルス監督は退任、スペインの名門バルセロナへ引き抜かれていく。ただこの退任には、頑固で独裁的な「将軍」ミケルスの指導法が、自主性を求めた選手たちの支持を失ったという事情もあった。
アヤックスとクライフの黄金期
ミケルスの後任には、ルーマニア人のステファン・コヴァチがアヤックスの監督に就任。新監督はミケルスの「トータルフットボール」を継承するとともに、選手の個性と自主性を認め、より柔軟で相互補完的な戦術として進化させた。こうしてチームの組織を動かすクライフの重要性は、さらに増していったのである。
リーグ戦では71-72、72-73シーズンの2連覇を達成。オランダ杯も3年連続で制した。そして71-72シーズンのチャンピオンズ・カップにも、2大会連続で決勝へと駒を進める。その会場となったのは地元オランダ、ロッテルダムのフェイエノールト・スタジアム。対戦相手はカテナチオ戦術の本家、インテル・ミラノだった。
インテルはMFオリアリにクライフへの徹底マークを命じ、アヤックスの攻撃を抑えにかかる。こうして前半は0-0と折り返すが、後半開始直後の48分、クライフは巧みな動きでオリアリのマークを外し、クロスに反応して先制点を記録。終盤の77分にもクライフが追加点を挙げ、2-0とインテルを退けて2年連続の欧州チャンピオンに輝いた。
さらにこの年には国内リーグとカップ戦を制覇。欧州スーパーカップもスコットランドのグラスゴーレンジャーを下して優勝すると、インターコンチネンタル・カップでもアルゼンチンのインディペンディエンテを破ってクラブ世界一。アヤックスはありとあらゆるタイトルを手中にした。
翌72-73シーズン、チャンピオンズ・カップ3連覇を狙うアヤックスは、準々決勝でバイエルン・ミュンヘンと対戦。前年に西ドイツを欧州選手権初優勝に導いて、バロンドールを受賞したベッケンバウアーとの対決が注目された。
ホームでの第1レグは、実力に勝るアヤックスがバイエルンを圧倒。3点をリードした試合終盤にはクライフがとどめの1発を沈めて、4-0の快勝を収めた。アウェーでの第2レグは怪我を理由にクライフが欠場、試合は1-2と敗れるが、第1レグの貯金が効いてアヤックスは準決勝に進む。
準決勝では、強豪レアル・マドリード相手に2連勝を飾って決勝へ進出。ベオグラードのレッドスター・スタジアムで行われたユベントスとの決勝は、試合開始早々にヨニー・レップの先制点でリードすると、その後の反撃を許さず1-0と勝利する。
こうしてアヤックスはチャンピオンズ・カップ3連覇を達成。クライフも2度目のバロンドールに輝く。こうして70年代黄金期を迎えたアヤックスだが、直後にクライフの移籍を巡っての騒動が勃発する。
バルセロナの救世主
ミケルスがバルセロナの監督に就任したとき、クライフにも移籍の話が持ちかけられていたが、その時はスペインリーグの外国選手規制に阻まれて交渉は一旦中断となっていた。だが73年5月にこの規制が緩和。報酬面でアヤックスに不満を抱いていたクライフは、クラブとの契約期間を残したままバルサとの話を進めた。
するとアヤックスの態度は硬化し、クライフはクラブの会長と直談判を行うも、話し合いは難航。ついには「バルサとの契約を認めるまでは、一切アヤックスの試合に出ない」と強行突破を試みる。しかしこの言動はチームメイトとの関係を悪化させ、サポーターからも批判を受けることになった。
だがやがてクライフが「引退」や「法廷闘争」を口にし始めたことから、クラブ側が折れて騒動は解決に向かった。73年8月にクラブ間の交渉が行われ、当時の最高金額となる移籍金で、クライフとバルサの契約が認められたのである。
バルサへの移籍を果たしたクライフは、再びミケルス監督とタッグを組むことになった。開幕後8節を過ぎた10月のグラナダ戦でリーガデビュー、名刺代わりの2得点で4-0の勝利に貢献する。12月のアトレティコ戦では空中を舞うような超人的ゴール。のちにこのゴールは、テレビ番組のファン投票で「バルサ史上最も美しいゴール」に選ばれている。
年が明けた74年の2月は、敵地サンティアゴ・ベルナベウでレアル・マドリードとのエル・クラシコが行われ、攻撃をリードしたクライフの活躍でバルサは宿敵を5-0と圧倒。クライフが参戦してからチームは17勝5分けと負け知らず、このままの勢いでリーグ優勝を果たした。
クライフは26試合で16ゴールを記録、しばらく低迷していたチームを14年ぶりの優勝に導く。中央政府の圧力に耐えてきたカタルーニャの人々の鬱憤を晴らすオランダ人の活躍は、本拠地カンプ・ノウに興奮と熱狂をもたらし、バルサの「エル・サルバドール(救世主)」とまで呼ばれるようになる。
オレンジ軍団の大旋風
過去2度のWカップ出場経験(戦前の2大会に出場し未勝利)を持つオランダだが、国際大会ではほとんど実績らしきものがなく、決して強豪と呼ばれるような存在ではなかった。それでも60年代にプロ化を進めた成果が現れ、73年11月には36年ぶりとなるWカップへの出場を決めた。
しかし本大会直前になってもまとまりを欠くチームの不安定さは拭えず、サッカー協会はリヌス・ミケルスにバルサとの兼任で代表監督への就任を要請。指揮権を委ねられたミケルスは、クライフとアヤックスの選手を中心とした「トータルフットボール」の戦術を代表に移植する。
74年6月、Wカップ・西ドイツ大会が開幕。オランダは1次リーグ初戦で南米の古豪ウルグアイと対戦した。次々に選手のポジションを変えて繰り出されるチームの攻撃はウルグアイを圧倒し、ヨニー・レップの2得点でオランダはWカップ初勝利を挙げた。
第2戦はスェーデンと0-0で引き分けるが、最終節のブルガリア戦はPKを得意とするニースケンスがキッカーを任され2得点。オウンゴールによる失点1に抑えて4-1の快勝を収めた。
オランダは攻撃に圧倒的な強さを見せるだけではなく、ひとたびボールを奪われると人数を掛けて奪い返し。4~5人で襲いかかって相手を囲い込む有様は、「ボール狩り」と呼ばれ対戦チームを震え上がらせた。この戦いぶりは世界を驚嘆させ、大会前はダークホースに過ぎなかったオレンジ軍団が、一気に優勝候補へ躍り出る。
2次リーグに進んだオランダは、グループ初戦でアルゼンチンと対戦。開始10分、ファンハネンからの絶妙なパスに抜け出したクライフが先制弾。25分にクロルの追加点が生まれ、豪雨に見舞われた後半の73分にはクライフのアシストでレップが3点目。終了直前にもクライフが締めくくって、4-0と大勝する。
続く東ドイツ戦はクライフが執拗なマークを受けるも、前半の9分にレンセンブリンクのお膳立てでニースケンスが先制点。59分にはレンセンブリンクが追加点を決め、危なげなく2-0の勝利を収める。そして決勝進出を懸ける最終節の試合は、優勝候補ブラジルとの戦いになった。
ゲームは両チーム激しい攻防を繰り返しながら、前半を0-0で折り返す。後半に入った50分、クライフの折り返しを受けたニースケンスが振り向きざまのシュート、先制点を決めた。さらに65分、クロルの放ったセンタリングにクライフが飛び込んでのボレーシュート、決定的な追加点を叩き込む。
84分、ニースケンスへのラフプレーでブラジルのペレイラが退場処分、終了を待たず勝負は決した。2-0と完勝したオランダは初のWカップ決勝へ進出、クライフの鮮やかなボレー弾は観る者に強い印象を残し、「フライング・ダッチマン(空飛ぶオランダ人)」の異名で呼ばれた。
届かなかったワールドカップ初優勝
決勝の相手は、開催国の西ドイツ。開始直後のボール回しから、突如クライフがドリブルで駆け上がり、相手にボールを触れさせないままPエリアに侵入した。そしてベルティ・フォクツをかわしたクライフを、ウリ・ヘーネスが倒してオランダがPKを獲得する。
これをニースケンスが豪快に決めてオランダが先制。しかし、優勝を意識してしまったオランダは早くも守りの姿勢となり、いつもの「トータルフットボール」に冴えが見られなくなる。25分、今度はヘルツェバインがPエリアで倒され西ドイツがPKを獲得。自ら名乗りをあげたブライトナーのシュートで同点とされてしまった。
前半終了直前の43分、ゲルト・ミュラーに鮮やかな反転シュートを叩き込まれ、ついに逆転を許す。フォクツのマンマークに苦しんだクライフが一、度だけフリーで攻め上がるも、ベッケンバウアーの巧みな対応に防がれてしまった。
オレンジ軍団による後半の反撃も空しく、試合は1-2で終了。惜しくもWカップ初優勝を逃してしまったオランダとクライフだが、その奔放でダイナミックな戦いぶりは世界に衝撃を与え、優勝した西ドイツを凌ぐ印象を残した。