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サッカーの歴史や人物について

《サッカー人物伝》マルセロ・サラス(チリ)

 

「アラウカナの勇士」

小柄でズングリとした体型だが動きは素早く、強いシュートと高いジャンプのヘディングを持ち味としたストライカー。チリのインディオで最も勇敢な民族・アラウカナ族をルーツに持ち、ここ一番で相手にとどめを刺すゴールで「エル・マタドール(闘牛士)」と呼ばれたのが、マルセロ・サラス( José Marcelo Salas Melinao )だ。

 

チリ代表では、イバン・サモラノとアタッキング・デュオ「Za-Sa(ササ)コンビ」を組んでゴールを量産。フランスWカップ南米予選では、チーム総得点32のうち二人で23点を叩き出すという驚異の得点力で、母国を16年ぶりの本大会出場に導いた。

 

クラブレベルでは、アルゼンチンのリーベル・プレートで活躍したあと、W杯終了後にイタリアのラツィオへ移籍。さっそくその年に欧州カップウィナーズ・カップを獲得すると、翌99-00シーズンはリーグ優勝とコッパ・イタリア制覇の2冠に貢献、「チリ最高のストライカー」と呼ばれた。

 

チリのエル・マタドール

サラスは1974年12月24日、チリ南部の小さな町テムコで生まれた。物心ついた頃から友達とボールを蹴って遊び、憧れのマラドーナを真似しながらその腕を磨いた。91年にサンディエゴへ引っ越すと、名門ウニベルシダ・チリのユースチーム・セレクションを受け合格。そこでの厳しいトレーニングで、ストライカーとしての才能を開花させていく。

93年4月に19歳でトップチームデビュー。この年は12試合1得点にとどまったが、翌94年には早くもレギュラーの座を獲得して25試合に出場。得点王に輝く27ゴールの活躍で優勝に貢献する。チリ・リーグ伝統の一戦、ライバルCSDコロコロとの試合ではハットトリックを記録。その颯爽とした勇姿で、サラスは「エル・マタドール」と呼ばれるようになった。

若きストライカーの才能をチリ・サッカー界が放っておくはずもなく、94年5月にはフル代表デビューを果たす。このときの対戦相手は、Wカップに備えてマラドーナが復帰したばかりのアルゼンチン。試合は3-3と引き分けたが、サラスはさっそく代表初ゴールを記録している。

翌95年3月のメキシコ戦は、イバン・サモラノとの初顔合わせとなった。サラスより7歳年上のサモラノは、当時レアル・マドリードで活躍中のエース・ストライカー。94-95シーズンはリーガ・エスパニョーラの得点王(28ゴール)を獲得、ヨーロッパで成功した最初のチリ選手だった。

この試合、二人は初めてとは思えない息の合ったプレーを披露。サモラノがゴール前に完璧なパスを送ると、サラスが左足で冷静に流し込んでゴール。のちに「Za-saコンビ」と呼ばれる見事なコンビネーションで、強敵メキシコに2-1の勝利を収めた。

「エル・マタドール」サラスと、迫力あるプレーで「ザ・テリブル(恐怖の男)」と呼ばれたサモラノ。いずれも高い技術を持ち空中戦を得意としていた。二人がプレーする時はサモラノが中央に陣取り、サラスがその周りを動き回って躍動。「Za-saコンビ」はこのあと行なわれたWカップ・フランス大会の南米予選でその真価を発揮する。

 

95シーズン、ウニベルシダはリーグ2連覇を達成、サラスも17ゴールを挙げて優勝に大きく貢献した。その活躍に注目したのは、アルゼンチンの名門ボカ・ジュニアーズ。だが入団がきまりかけた時、ボカのビラルド監督がサラスを「背が低くてずんぐりむっくりしている。移籍金250万ドルは高い」と酷評。契約はご破算となってしまった。

しかしその交渉決裂を聞いて、「ぜひサラスが欲しい」と手を挙げたのはボカのライバル、リーベル・プレートのダビチェ会長だった。リーベルはウニベルシダに300万ドルの移籍金を払い、96年にサラスを獲得する。

だが当時アルゼンチンではチリ選手への評価が低く、フランチェスコリなど攻撃陣にスター選手を揃えるリーベルでは出場が難しいと思えた。それでもエースのクレスポがイタリアのパルマへ移籍したこともあり、ラモン・ディアス監督はサラスにチャンスを与える。

“スーペル・クラシコ” と呼ばれるボカ・ジュニアーズとの一戦を前に、レギュラーFWのフリオ・クルスが故障、サラスに初出場の機会が訪れた。そして試合では3-3の同点とする鮮やかなゴールを決め、ビラルド監督の目の前で己の価値を示してみせた。

その後も好調を維持したサラスだが、練習中の怪我により長期離脱を余儀なくされてしまう。それでも2ヶ月後に復帰し、リーグ戦終盤での山場となったベレス戦で2ゴールをマーク。チームに96シーズン後期優勝をもたらした。このシーズンは2ヶ月ものブランクがあったのにもかかわらず、11ゴールという好成績を残している。

 

驚異の「Za-Sa」コンビ

96年6月、フランスWカップ・南米予選が開始。アウェーとなった初戦のベネズエラ戦は1-1と引き分けるが、続くホームのエクアドル戦で「Za-Saコンビ」がその威力を見せつける。

開始25分、サラスの頭による折り返しを、サモラノが決めて先制点。後半73分に追いつかれるが、その2分後、サラスのゴールで再びリードする。86分に追加点が生まれて3-1、86分にはサラスのクロスからサモラノのダメ押し点が生まれ、チリはエクアドルに4-1と圧勝した。

その後の試合も両エースが得点を重ねるが、守備に不安を抱えるチリは苦戦が続いた。だが97年4月にホームで行われたベネズエラ戦、サモラノが5得点を叩き出す大爆発。初戦で引き分けた相手を6-0と粉砕した。

これで勢いに乗ると、7月5に行われたホームのコロンビア戦ではサラスがハットトリックの活躍。サモラノも1点を決めて4-1の快勝を収める。20日パラグアイ戦はサモラノの2ゴールで2-0の勝利、そのあとウルグアイとアルゼンチンに連敗を喫するも、10月の試合は再びサラスがハットトリックを決めて、ペルーを4-0と下す。

南米予選最期の試合となった11月のボリビア戦も、サラスのゴールなどで3-0と余裕の勝利。予選の前半戦は苦しんだチリだが、7勝5敗4分けの成績で本大会出場権が得られるグループ4位を確保。16年ぶりのWカップ出場を決めた。

当予選でサモラノは12ゴール、サラスは11ゴールを記録。これは南米予選1位、2位のスコアを占め、チリの総得点32もアルゼンチン、コロンビアの23を大きく引き離すダントツの記録だった。「Za-Saコンビ」の破壊力は、ブラジル(94年W杯王者として予選は免除)のロマーリオロナウドによる「Ro-Roコンビ」とも比較されるようになった。

リーベルでは97-98前期シーズン制覇に貢献、さらに南米スーパーカップの決勝(対サンパウロ)でも2得点を挙げて優勝に大きな役割を果たし、代表での活躍と合わせて97年の南米年間最優秀選手に選ばれている。

その実力がヨーロッパのビッグクラブに評価され、サラスのもとにはインテルパルマバルセロナマンチェスター・ユナイテッドなどの名門からオファーが舞い込んだ。その中からサラスが選んだのは、イタリアのラツィオ。移籍金はリーベルに移ったときの7倍にも及んだ。

 

不完全燃焼に終わった世界の舞台

Wカップ本番を控えた98年2月、聖地ウェンブリー・スタジアムイングランドとの親善試合が行われた。60m後方から送られた超ロングパスを、サラスは太ももでボールの勢いを殺す完璧なトラップ、空中で左足を振り抜いてネットを突き刺す。そのあともサラスが得点を決めて2-0の勝利、現地のマスコミに「ウェンブリーで最も美しいゴール」と賞賛される。

6月、Wカップ・フランス大会が開幕。チリは初戦で強豪イタリアと戦った。前半の10分、イタリアのカウンター攻撃を喰らい、R・バッジオのパスからヴィエリに先制弾を決められる。それでもチリは「Za-Saコンビ」が鮮やかな連携を見せて反撃、前半ロスタイムにサラスの同点ゴールが生まれた。

さらに後半に入った49分、カンナバーロとの競り合いを制したサラスが逆転弾。2-1としたチリに流れが傾いた。試合はこのまま終盤まで進み、チリに勝負の女神が微笑むかに思えた85分、バッジオのパスがDFの腕に当たりイタリアがPKを獲得。これをバッジオ自身に沈められ、チリは土壇場で金星を逃してしまった。

続くオーストリア戦、サモラノとの連携でサラスが先制弾を挙げるも、後半ロスタイムに追いつかれてまたもや引き分け。最終節カメルーン戦も前半にリードしたチリだが、後半にエムボマのゴールを許して3試合連続の引き分けとなった。

それでもイタリアに続く2位となり、62年の自国開催大会以来36年ぶりとなる決勝トーナメント進出を果たす。その1回戦で戦ったのは、大会2連覇を狙うブラジルだった。試合は前半でセザール・サンパイオに2点を決められる苦しい展開、さらにそのあとロナウドの2点でとどめを刺されてしまう。

後半23分にはサラスのヘディングゴールで1点返すが、大舞台慣れしたブラジルに1-4と実力差を見せつけられる結果となった。サラスは大会3ゴールと得点力の高さを証明するも、チリ代表はリードを守り切れない勝負弱さを露呈することになった。

 

欧州での活躍

Wカップ終了後にラツィオへ移籍したサラスは、98-99シーズン30試合に出場して15ゴールを記録。欧州カップウィナーズ・カップでも6試合で4得点を挙げる活躍を見せ、ラツィオの初優勝に貢献した。

翌99-00シーズンはチームのエースとして奮闘、ラツィオに26年ぶりとなるスクデット獲得とコッパ・イタリア優勝の2冠をもたらす。そんなサラスには再び欧州名門クラブからのオファーが殺到、01年には2千5百万ユーロの移籍金でユベントスへの入団が決まった。

99年にはコパ・アメリカに出場、大会4位とまずまずの成績を残して、00年3月から始まったWカップ・日韓大会の南米予選に臨んだ。しかし依然守備の弱点は克服しきれず、序盤から厳しい戦いを強いられてしまう。

それでも8月に行われたホームの試合では、サモラノとのアベック弾でブラジルに3-0の快勝。一瞬の輝きを見せる。だがその後チリの成績は低迷、結局3勝12敗3分けの成績で最下位に沈んだ。こうして2大会連続のWカップ出場はならず、相棒のサモラノはこれを最期に33歳で代表から退いていった。

チリ最高のストライカ

ユベントスでの1年目となる01-02シーズン、サラスはボローニャ戦で左足の靱帯を損傷。その後はたびたび故障に悩まされることになり、ユベントス在籍2年で出場した公式戦は18試合、記録したゴールは僅か4つと、期待外れの結果に終わってしまった。

03年にはレンタルで古巣のリーベル・プレートに復帰。だがもはや全盛期のパフォーマンスを取り戻すことはなく、05年にはキャリアをスタートさせたウニベルシダ・チリへ移った。

怪我の影響でしばらく代表を離れていたサラスだが、05年にWカップ・ドイツ大会の南米予選で復帰を果たす。そして6月のボリビア戦で4年ぶりのゴールを記録、サモラノの持つ代表最多得点記録(34点)を更新した。Wカップ南アフリカ大会の南米予選にも参加、07年11月のウルグアイ戦で2点を重ね、通算ゴールを37に伸ばして代表から退いた。

08年のシーズンが終了した11月28日、33歳で現役引退を発表。サラスの代表通算得点記録37は、現在アレクシス・サンチェスなどに抜かれて歴代3位となっている。しかしサラスに与えられた「チリ最高のストライカー」の称号は今も変わらない。