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サッカーの歴史や人物について

《サッカー人物伝》ハカン・シュキュル (トルコ)

 

「ボスポラスの雄牛」

大柄な体格を活かしたポストプレーで前線の起点となり、得意のヘディングと右足から放たれる強烈なシュートでゴールを陥れた。そのパワフルなプレーで「ボスポラスの雄牛」と呼ばれたトルコのストライカーが、ハカン・シュキュル( Hakan Şükür )だ。

 

トルコの名門ガラタサライで活躍。8回のシュペルリグ(トルコリーグ)優勝、5回のテュルキエクパス(トルコ杯)優勝、UEFAカップ優勝などチームに多くのタイトルをもたらし、自らも3シーズン連続のゴルクラリ(リーグ得点王)に輝く。

 

トルコ代表としては、ユーロ96予選で7ゴールを記録して同国初の本大会出場に貢献。ユーロ2000でもG/Lで貴重な2得点を挙げ、ベスト8進出の立役者となった。日韓W杯では韓国との3位決定戦で開始最短ゴールを決め、大会ベスト3の快挙に花を添えている。

 

シュキュルは1971年9月1日、トルコ北西部・黒海沿岸のサカリヤ県で生まれた。両親はユーゴスラビアからの移民で、シュキュルはアルバニアトルコ人として育つ。

地元クラブ、サカリヤスポルでサッカーのキャリアを開始。17歳の誕生日を迎えた直後にプロデビューを果たす。デビューシーズンは3試合の出場にとどまったが、徐々に力を伸ばしてゆき、3年目の89-90シーズンにレギュラーへ定着する。

プロ初ゴールは、2年目となる89年2月のエスキスヒュースポル戦。2-2の同点から途中出場し、決勝の殊勲弾を記録するという華々しい初ゴールだった。

90年の夏からは隣県のブルサスポルでプレーし、2年目の91-92シーズンに公式戦34試合で10ゴールを記録。若手の有望株と注目されるようになったシュキュルは、92年の夏にトルコ3大名門クラブの一角、首都イスタンブールにあるガラタサライへ移籍する。

92-93シーズン、移籍1年目でいきなり公式戦26ゴールを記録。ガラタサライの5季ぶりとなるシュペルリグ(スーパーリーグ)優勝と、テュルキエクパス(トルコカップ)制覇の2冠達成に貢献する。

翌93-94シーズンも公式戦20ゴールを決め、チームはシュペルリグを2連覇。94-95シーズンはタイトルを逃すも、公式戦25ゴールを挙げてトルコを代表するストライカーの座を確立。「ボスポラスの雄牛」の愛称で呼ばれるようになった。

ちなみにボスポラスとは、黒海と地中海を結ぶイスタンブール海峡の別名。イスタンブール市の東西を隔てる細い海峡で、「雄牛の通り道」という意味を持つ。

 

「欧州のお荷物」トルコ代表

各年代の代表を経験していたシュキュルは、92年3月に20歳でフル代表へ初招集。親善試合のルクセンブルク戦でA代表デビューを果たした。同年4月8日のデンマーク戦で初ゴールを記録。デビューからの11試合で6得点を挙げ、たちまち代表の主力に定着する。

9月から始まったW杯アメリカ大会の欧州予選にも参加。シュキュルは3ゴールを挙げるも、トルコは3勝6敗1分けでグループ6チーム中の5位に沈み、本大会出場を逃した。

当時のトルコ代表は「欧州のお荷物」と呼ばれるアウトサイダー的存在。熱狂的な国内リーグに比べ代表チームは弱く、大きな国際大会では54年のW杯で出場したのみ。それもスペインとの2ヶ国による予選で1勝1敗となり、抽選で勝ちくじを引いての本大会出場だった。

だが80年代後半からそれまで不足していた国際交流が活性化し、特にドイツから一流選手や指導者を招いて、徐々に選手のレベルがアップしていった。93年から代表監督に就任したファティ・テリムは、FWのシュキュルやMFトゥガイ・ケリモル、DFアルパイ・オザラシ、GKリュシュトゥ・レチベルら若手の成長を促し、欧州で戦えるチームを作り上げる。

94年9月よりユーロ96のブロック予選が開始。初戦ハンガリーとのアウェーの試合は、シュキュルが先制点を挙げて2-2の引き分け。続くアイスランド戦はシュキュル2得点の活躍で5-0の快勝を収める。

その後も強敵のスイスやスウェーデンを相手に得点を重ね、グループのトップスコアとなる7ゴールを記録。トルコは4勝1敗3分けの好成績を残し、スイスに続くグループ2位でユーロ本大会出場を決めた。

トルコはユーロ予選参加36年目にして初の本大会出場。グループ1位のスイスも予選参加32年目にしてのユーロ本大会初出場だった。

96年6月にはイングランドで開催されたユーロ96に出場。しかし初出場のトルコは、クロアチアポルトガルデンマークを相手に1点も挙げられず、3戦全敗を喫してG/L敗退。実力不足を露呈してしまった。

 

ガラタサライの黄金期

ガラタサライと代表での活躍により、95年の夏にはイタリアのトリノFCへ移籍。しかし慣れない環境でホームシックに陥り、在籍した4ヶ月で僅か5試合出場1ゴールを挙げたのみだった。

95年の末にはガラタサライに復帰。するとたちまち調子を取り戻し、シーズン途中からの公式戦32試合で18ゴールを記録。3季ぶりのテュルキエクパス制覇に貢献する。

96-97シーズン、リーグ戦出場32試合で38ゴールを挙げて初のゴルクラリ(得点王)を獲得。それからこの年を含めて3季連続の得点王に輝き、黄金期を迎えたチームを牽引した。

ユーロ96のあと、ファティ・テリムガラタサライの監督に就任。チームはルーマニアのハジ、ポペスク、ブラジルのタファレルらの外国人選手を補強し、96-97~99-00シーズンとシュペルリグ4連覇を達成する。

打点の高いヘディング、安定感あるポストプレー、威力満点の右足シュート、敵陣に切り込むテクニック、ゴールへの嗅覚と、シュキュルのストライカーとして資質はどれを取っても一級品。トルコ最強ガラタサライの象徴となった彼は、サポーターから「クラル(王)」の称号を得る。

99-00シーズンはシュペルリグとテュルキエクパスの2冠を制覇。UEFAカップ(現ヨーロッパリーグ)でもドルトムントなどの強敵を打ち破って決勝へ進出する。シュキュルは準決勝までの8試合で6得点を決め、エースとしての貫禄を見せつけた。

決勝はベンゲル監督率いるアーセナルと対戦。前半はベルカンプ、アンリ、オーフェルマルスの攻撃陣を擁する相手に劣勢を強いられるも、後半はハジ 、シュキュルのホットラインを中心に反撃を開始。ロスタイムにFKのチャンスを得るが、シュキュルのキックは壁を大きく巻いて枠を外れていった。

延長に入った94分、司令塔のハジがラフプレーで一発退場。10人となったガラタサライは、ベルカンプに代って投入されたカヌーのドルブル突破に再三苦しめられるも、守護神タファレルが好守を連発しチームの危機を救った。

試合は0-0のまま延長の前後半を終え、勝負の行方はPK戦に持ち込まれる。ガラタサライはシュキュルを始め4人が成功、2人が失敗したアーセナルを退け、トルコのクラブとして初めてとなるヨーロッパタイトルを手にした。

 

ユーロ2000での躍進

96年3月から始まったW杯欧州予選で、シュキュルはトルコ代表のエースとして輝きを見せる。格上オランダをホームに迎えた試合、シュキュルのゴールで強敵を1-0と撃破。同じくホームのウェールズ戦では、ハットトリックを決めて6-4の激戦を制した。

シュキュルは予選8試合でグループ最多の8得点を記録。チーム総得点(14点)の半分以上を叩き出し、エースとしての存在感を示した。しかしトルコ代表はオランダ、ベルギーに続く3位に終わり、11大会連続でW杯出場を逃してしまう。

98年9月から始まったユーロ予選では、強豪ドイツを相手に互角の戦い。ホームの試合ではシュキュルのゴールでドイツに1-0と勝利すると、アウェーの試合で0-0の引き分けに持ち込む。結局ドイツに続くグループ2位となってしまったが、プレーオフアイルランドを下し、2大会連続のユーロ出場を決めた。

ユーロ2000(オランダ/ベルギー共催)のG/L初戦ではイタリアに1-2の敗戦、第2戦はスウェーデンと0-0で引き分ける。

G/L突破を懸けた第3戦の相手は、開催国ベルギー。0-0で進んだ前半のロスタイム、シュキュルが高い打点からのヘディングシュートを決めて先制。さらに70分、カウンターからの高速クロスを、再びシュキュルが右足ダイレクトで合わせて2点目を蹴り込む。

地元ベルギーに2-0と快勝したトルコは、イタリアに続く2位で初の決勝トーナメント進出。準々決勝でポルトガルに0-2と敗れてしまうが、大きな可能性を感じさせた大会となった。

 

「内弁慶」なトルコの英雄

ユーロ大会終了後、イタリアの名門インテル・ミラノと契約。しかしロナウドヴィエリと世界的ストライカーを擁するチームにあって出番は限られ、1年半の在籍でリーグ戦25試合5ゴールの成績。新たな活躍の場を求めて、02年の1月に同じセリエAパルマFCへ移籍する。

しかしパルマでも控えに甘んじることになり、リーグ戦15試合で3ゴール。コッパ・イタリア決勝でユベントスを破りタイトルに輝くも、シュキュルが出場したのは1-2と敗れた第1レグ(1点は中田英寿のゴール)の58分間だけ。優勝を決めた第2レグではベンチ入りさえ出来なかった。

パルマと契約が切れた02年の12月には、プレミアのブランクバーンへ移籍。しかしデビュー前のトレーニングで足を骨折、2ヶ月後にプレミア初出場を果たすが、僅か9試合3ゴールの成績に終わり退団。03年7月にガラタサライに復帰することになり、ついに「内弁慶」の評判を覆すことが出来なかった。

 

日韓W杯とトルコ大行進

00年9月から始まったW杯欧州予選では、スウェーデンに続いてのグループ2位を確保。プレーオフオーストリアを2戦合計6-0と圧倒し、トルコは48年ぶり2度目となるW杯出場を決めた。シュキュルはプレーオフを含め6ゴールを記録、エースとしてW杯出場に大きく貢献する。

02年5月31日、Wカップ・日韓大会が開幕、シュキュルはキャプテンを務めた。初戦の相手は王国ブラジル。カナリア軍団「3R」の猛攻を凌いだ前半のロスタイム、DFのミスを突いたハッサンのゴールでトルコが先制する。

しかし後半の50分、ロナウドにゴールを決められ同点。終盤の87分にはPKを与えてしまい逆転を許す。初戦は惜しくも1-2の敗戦となったが、トルコの善戦はサッカー王国を慌てさせた。

第2戦はコスタリカと1-1の引き分け、第3戦では中国に3-0と快勝し、グループ2位での決勝トーナメント進出を決める。

トーナメントの1回戦は開催国の日本と対戦。開始12分、CKのチャンスにウミト・ダバラがヘディングシュートを決めて先制。この場面、日本がシュキュルの頭を警戒するあまり、ダバラがフリーとなっていたのだ。トルコはこのまま逃げ切り1-0の勝利、準々決勝に進んだ。

準々決勝は、フランスやスウェーデンを破り勢いに乗るセネガルが相手。疲れからか運動量の少ない相手にトルコは何度も決定機をつくるが、相手DF陣の驚異的な粘りで得点を防がれてしまう。

ゴール前での絶好機を空振りで逃すなどシュキュルは精彩を欠き、後半の67分にスーパーサブイルハン・マンスズと交代する。そして0-0のまま延長に入った94分、ダバラが右サイドを猛然と駆け上がりクロス。それをイルハンが右足ボレーシュートで押し込み、ゴールデンゴールでの決着。伏兵対決はトルコに軍配が上がった。

 

3位決定戦での活躍

準決勝はブラジルと再び相まみえるも、ロナウドにゴールを決められ0-1の敗北。ベスト3入賞の名誉を懸けて、開催国の韓国と3位決定戦を行う。

キックオフの笛が吹かれた11秒後、洪 明甫ホン ミョンボからボールを奪ったシュキュルが先制ゴール。これまで不振にあえいでいたエースにようやく初得点が生まれ、W杯最短時間ゴール記録というおまけもついた。

9分にはFKを決められ韓国に追いつかれるも、13分にシュキュルとのパス交換で抜け出したイルハンが勝ち越し点。さらに32分、シュキュルの高さを活かしたポストプレーを起点に、再びイルハンが追加点を決める。

後半ロスタイムに1点を返されるも、試合終了の笛が吹かれてトルコ3-2の勝利。再三の好機を外すなど自信を失いかけていたシュキュルだが、最後の試合でついに本領発揮。大会ベスト3の快挙に大きな役割を果たした。

 

苦境が伝えられるシュキュルの今

03-04シーズンのチャンピオンズリーグ、グループステージでは、シュキュルの2ゴールで強豪ユベントスを撃破する活躍。04-05シーズンのテュルキエクパス優勝、05-06、06-07シーズンのシュペルリグ連覇にも貢献するなど、ガラタサライの主力としてプレーし続けた。

11ゴールを挙げた07-08シーズンの終了後、余力を残し37歳で現役を引退。通算13シーズンを過ごしたガラタサライでは公式戦545試合に出場、297ゴールを記録した。また16年の代表歴で112試合に出場。通算得点51は2位以下を大きく引き離して、今もトルコ代表最多記録を保持している。

引退後は国営放送の解説者として活動。11年6月にはエルドアン首相(当時)率いる与党の公正発展党(AKP)から出馬し、国会議員となる。だが13年にAKPが大規模汚職事件を起こすと、それまで支援していたギュレン・グループが批判勢力となって離反。ギュレン派のシュキュルも国会議員を辞職する。

その後大統領に就任したエルドアンが強権政治を振るい始め、ギュレン・グループや言論機関などを弾圧。16年にギュレン・グループがテロ組織に指定されると、SNSで大統領を批判したシュキュルにも逮捕状が出され、17年に妻子とともにアメリカへ亡命する。

シュキュルがトルコに残した2億リラにも及ぶと言われる財産は、当局によりすべて差し押さえ。父セルメットはテロ組織支援の容疑で逮捕され、3年の実刑を受けた。

アメリカに亡命したシュキュルは、カルフォルニアでカフェを経営。だが身元不詳の集団の妨害に遭い、閉店を余儀なくされる。現在は本を売りながら、Uber運転手(自家用車によるライドシェア)として生計を立てていることが欧州のメディアから伝えられた。