「カンタブリアの突風」
100m11秒の俊足を飛ばし、鮮やかなドリブルテクニックで左サイドを突破。精度の高いクロスを武器とし、得点力も兼ね備えたウィンガー。その颯爽たる雄姿で「カンタブリアの突風」の異名をとったのが、フランシスコ・ヘント( Francisco Gento López )だ。
ほとんどのキャリアを過ごしたレアル・マドリードでは、ディ・ステファノ、プスカシュとともに第1次黄金期を築き、チャンピオンズカップ5連覇の偉業を達成。代替わりしたチームでもキャプテンとして優勝を果たした。
スペイン代表としては43試合でプレー、ワールドカップは62年のチリ大会と66年のイングランド大会に出場した。しかしサッカー大国でありながら当時の代表はまとまりを欠き、芳しい成績を残すことが出来なかった。
ディ・ステファノとの出会い
ヘントは1933年10月21日、大西洋に面したカンタブリア州・海岸の街グアニソで生まれた。元サッカー選手だった父親は、トラック運転手をするかたわら小さな農場を営み、ヘントは家業を助けるため14歳で学校を卒業している。
ビーチサッカーで競技を始め、15歳で地元アマチュアクラブ、ラーヨ・カンタブリアに入団。「パコ」の愛称で呼ばれた少年が憧れたチームは、アトレティコ・マドリードだった。
その後いくつかのチームを渡り歩き、地元の大会で優勝したことから18歳のときにカンタブリアの名門、ラシン・サンタンデールと契約。下部組織でプレーしたあと、52-53シーズンにリーガ・エスパニョーラ(現ラ・リーガ)へのデビューを果たす。
スピードはあるもののプレーはまだ稚拙で、デビューシーズンは10試合2ゴールと振るわない成績に終わった。それでもレアル・マドリードとの試合で見せた快足がスカウトを驚かせ、53年には首都の名門クラブへ移籍する。それと同時期にレアルへ入団した選手が、アルゼンチン出身のアルフレッド・ディ・ステファノである。
しかしレアルでの1年目は、17試合に出場しながら無得点。チームはリーグ優勝したものの、いまひとつ活躍できなかったヘントは、翌シーズン他クラブへ貸し出されることになった。
だが27ゴールで早くもチームの中心となったディ・ステファノが、「彼のスピードと大砲のようなシュートは天性のもの。足りないところは自分が教える」とクラブを説得したため、ヘントはチームに留まることになった。
さらに「よく走るが、他の選手と絡めていないからその速さは脅威ではない」と指摘されていたヘントを活かすために、ディ・ステファノはアルゼンチン時代の友人エクトル・リアルの獲得をクラブに進言。戦術眼に優れたE・リアルは、絶妙な間合いとパスのタイミングで快速ウィングをコントロールし、ヘントの才能を引き出した。
54-55シーズンは24試合6ゴールの成績でレギュラーの座を獲得。リーグ2連覇に貢献し、海風のように疾走する姿で「カンタブリアの突風」と呼ばれるようになった。
翌55-56シーズンは3連覇を逃すが、創設されたばかりの欧州チャンピオンズカップに出場。決勝ではディ・ステファノ、E・リアルらのゴールでフランスのスタッド・ランスを4-3と撃破し、第1回チャンピオンに輝く。ここからレアルの伝説が始まった。
チャンピオンズカップ5連覇の快挙
56-57シーズンは、スタッド・ランスの司令塔レイモン・コパをレアルに引き抜き。リーグ優勝を奪回するとともに、チャンピオンズカップも2年連続で決勝へ進んだ。
決勝の舞台はホームのサンティアゴ・ベルナベウ、対戦相手はイタリアのフィオレンティーナだった。試合は69分にディ・ステファノのPKでレアルが先制、75分にヘントが追加点を決め、2-0の勝利で大会2連覇を飾った。
57-58シーズンもリーガ・エスパニョーラを制し、チャンピオンズカップは3年連続の決勝進出。決勝はイタリアの強豪、ACミランとの戦いになった。
0-0で折り返した後半の59分、スキアフィーノのゴールでミランが先制。レアルも74分にディ・ステファノがゴールを決めて追いつく。その直後にミランの勝ち越し点を許すが、すぐにE・リアルが入れ返して同点とした。
試合は延長に入り、前半からの奮闘で疲労困憊となったディ・ステファノは、「もう決められるのはお前しかいない」とヘントを激励。その期待に応え、延長後半の107分にヘントがキーパーの逆をつく決勝点。大会3連覇の立役者となった。
58-59シーズンは、ハンガリー代表「マジックマジャール」の中心選手フェレンツ・プスカシュが加入。リーグ優勝はライバルのバルセロナに奪われてしまったが、チャンピオンズカップは4年連続決勝へ。ディ・ステファノがまたもや得点を決め、スタッド・ランスを2-0と下して4連覇を達成する。
59-60シーズン、ヘントはキャリアハイとなる27試合15ゴールを記録。バルセロナのリーグ2連覇を許してしまったものの、チャンピオンズカップで5大会連続の決勝進出。西ドイツの伏兵アイントラハト・フランクフルトをディ・ステファノの3得点、プスカシュの4得点で7-3と打ち破り、5連覇の偉業を成した。
60年の9月には、第1回目となるインターコンチネンタル・カップ(後のトヨタカップ)が行なわれ、南米チャンピオンのペニャロール(ウルグアイ)とクラブ世界一を懸けて対戦。敵地モンテビデオで行なわれたファーストレグはヘントが負傷欠場、試合は0-0の引き分けとなった。
ホームでのセカンドレグはヘントが戦線復帰。開始わずか8分、ディ・ステファノとプスカシュのゴールで早くも3点をリード。最後はヘントが5点目を決め、南米王者を5-1と粉砕。レアルは初代クラブ世界王者に輝いた。
ワールドカップ・チリ大会
スペイン代表には55年5月に21歳で初招集。ホーム、マドリードでのイングランド戦でデビューを果たした。57年にはスウェーデンW杯欧州予選が始まり、ヘントは前年スペインに帰化したディ・ステファノとともに出場。しかしグループ1位のスコットランドに1ポイント及ばず、本大会出場はならなかった。
59年には第1回・欧州ネイションズカップ(欧州選手権の前身)の予選に参加。ヘントはディ・ステファノやバルセロナのルイス・スアレスともに得点を挙げて準決勝進出に貢献。しかし準決勝は政治的理由でスペインがソ連との対戦を拒否、大会を棄権している。
そして61年のW杯予選では、モロッコとの大陸間プレーオフを勝ち抜き3大会ぶりの本大会出場を決める。62年5月30日、Wカップ・チリ大会が開幕。スペインは初戦でヨゼフ・マソプスト擁するチェコスロバキアに0-1と敗北を喫してしまった。
この時のスペイン代表は、ヘントやスアレスといった自国の選手に加え、アルゼンチン出身のディ・ステファノ、ハンガリー出身のプスカシュ、パラグアイ出身のマルティネス、ウルグアイ出身のホセ・サンタマリアと国際色豊かな顔ぶれ。裏返して言えば、まとまりに欠ける寄せ集め軍団だった。
続くメキシコ戦は、名GKカルバハルを中心とした相手の堅守に苦しめられるが、終了間際の90分に左サイドを突破したヘントのパスからホアキン・ペイロが決勝弾。辛うじて1-0と勝利した。
決勝トーナメント進出を懸けた最終節は、優勝候補ブラジルと対戦。エースのペレを負傷で欠くブラジルに対し、前半35分にスペインが先制。しかし試合が終盤に入った72分、ペレの代役アマリルドが同点ゴール。さらに86分にもアマリルドの決勝点を許し、1-2の逆転負けとなる。
スペインはグループ最下位に沈み敗退。エレニオ・エレラ監督と折り合いの悪かったディ・ステファノは負傷を理由に出場を拒否し、ついにW杯の大舞台に立つことはなかった。
「イエイエ・マドリード」のキャプテン
レアルは60-61シーズンからリーグ5連覇を達成。しかしチャンピオンズカップでは宿敵バルセロナに敗れて1回戦敗退。大会6連覇はならなかった。
61-62シーズンは、コパ・デル・レイを制し国内タイトル2冠。チャンピオンズカップは2年ぶりに決勝へ進むも、エウゼビオ擁する前回王者のベンフィカ・リスボンに3-5の敗戦。惜しくも準優勝に終わった。
63-64シーズンもチャンピオンズカップの決勝へ勝ち上がるが、エレニオ・エレラ監督率いる「グランデ・インテル」カテナチオ戦術の前に1-3と敗北。またも優勝を逃してしまう。
64-65シーズンはレアルの象徴、ディ・ステファノが退団。62年からキャプテンとなったヘントは、ホセ・マルティネス(ピリ)、アマンシオ・アマロ、イグナシオ・ゾコ、フェルナンド・セレナ、マヌエル・サンチスらスペイン人選手だけで構成された、通称 “イエイエ・マドリード” チームのまとめ役となった。
ちなみに “イエイエ・マドリード“ の通称は、若手選手4人がスポーツ新聞の求めでビートルズの真似をし,『She loves you yé-yé』のコーラスを唄ったことに由来している。
65-66シーズンは、チャンピオンズカップ決勝に8度目の進出。決勝はパルチザン(旧ユーゴスラビア)をアマンシオとセレナのゴールで2-1と退け、6年ぶり6度目の優勝を達成する。
スペイン代表とヘント
64年6月には、スペイン開催の第2回・欧州ネイションズカップに出場。当時は開催国出場枠がなかったため、予選からの参加だった。ヘントは予選で1ゴールを挙げるなど本大会出場に貢献。しかし負傷でコンディションを落とし、準決勝からの本大会ではサラゴサのレペトラにポジションを奪われ、本国のピッチに立つことは出来なかった。
スペインはハンガリーを延長で2-1と破り決勝へ進出。決勝ではソ連を2-1と下し、地元での初優勝を飾った。これは44年後のユーロ08で優勝するまで、スペイン唯一の国際タイトルだった。
65年から始まったW杯欧州予選もメンバーから外れたが、スペインは2大会連続出場を決め、体調を取り戻したヘントは本番前に代表へ復帰した。
66年7月、Wカップ・イングランド大会が開幕、32歳のヘントはキャプテンを務めた。初戦はアルゼンチンのラフプレーに悩まされ、後半の66分にアルティメの先制点を許す。72分にピリのヘディングゴールで追いつくも、5分後に再びアルティメに決められ1-2の敗戦を喫した。
続くスイス戦も前半にリードされて苦しい展開となるが、後半57分にマヌエル・サンチェスのゴールで同点。75分にはアマンシオが決勝点を挙げ、2-1と勝利する。
グループ最終節は西ドイツとの戦い。前2試合で良いパフォーマンスを見せられなかったヘントは、またもやレペトラにポジションを譲ることになった。試合はスペインが先制するも接戦となり、終盤にウーベ・ゼーラーの逆転弾を許して1-2の逆転負け。スペインは2大会連続のG/L敗退、ヘントの代表キャリアは残念なものに終わった。
このあと69年10月に行なわれたW杯欧州予選のフィンランド戦を最後に、36歳を目前にして代表を退く。13年間の代表歴で43試合に出場、5ゴールを挙げている。
レアル・マドリードのレジェンド
“イエイエ・マドリード“ は、66-67シーズンからリーグ3連覇を達成。さすがのヘントも30歳を過ぎて走力の衰えを隠せなかったが、なおも主力としてチームを牽引し続けた。
70-71シーズンには、欧州カップウィナーズ・カップの決勝へ進出。チェルシーとのファイナルはもつれて再戦となったが、惜しくもレアルは準優勝に終わった。ちなみにヘントの欧州チャンピオン大会ファイナル出場9回は、ACミランのパオロ・マルディーニと並ぶ数字である。
このあと37歳で現役を引退。18シーズンを過ごしたレアル・マドリードでは、公式戦601試合に出場して182ゴールを挙げている。その間に積み重ねたクラブタイトルは23。リーガ・エスパニョーラ優勝12回と欧州クラブチャンピオン6回は、個人で歴代最多の記録となっている。
引退後は監督としてカスティージャ、バレンシア、グラナダなど下位リーグの各チームを指導。そのあとレアル・マドリードのヨーロッパ担当アンバサダーを務め、14年にディ・ステファノ名誉会長が亡くなると、彼の後任に任命される。
2022年1月18日、クラブの公式サイトがフランシスコ・ヘント名誉会長の逝去を発表。就寝したまま永遠の眠りについたという。享年88歳だった。