「セレソンの貴公子」
華麗なテクニックと創造性あふれるプレーで活躍。中盤でゲームメーカーを務めるほか、得点力にスピードも備えてセカンドトップやウィング、サイドバックもこなした攻撃のマルチプレーヤー。その知的で端正なルックス、そして観客を惹きつけるエレガントさで「貴公子」と呼ばれたのが、レオナルド( Leonardo Nascimento de Araújo )だ。
若い頃から将来を嘱望され、母国ブラジルで全国選手権制覇、南米スーパーカップ優勝、トヨタカップ優勝、レコパ優勝と数々のタイトル獲得に貢献する。94年に加入した鹿島アントラーズでは、優雅なプレースタイルで日本の観客を魅了。ビッグクラブのパリ・サンジェルマンやACミランでも活躍した。
ブラジルが優勝した94年アメリカW杯に左SBとして出場するも、トーナメントの米国戦で一発レッド。出場停止4試合という重い処分を受け、失意のまま大会を終えた。挽回を期した98年フランスW杯で決勝進出に貢献するが、開催国フランスに敗れて雪辱を果すことが出来なかった。
レオナルドは1969年9月5日、大都市リオ・デ・ジャネイロの対岸にあるニテロイに、3人兄弟の末っ子として生まれる。比較的裕福な家庭で育ち、名門私立学校に通いながらサッカーにも情熱を注いだ。
15歳でフラメンゴの入団テストを受け、ジュベニール・クラス(15~17歳カテゴリー)へ加入。ここでたちまち頭角を現し、17歳となった86年にトップチームへ引き上げられる。当時フラメンゴで主将を務めていた “神様” ジーコの推薦による昇格だった。
トップチームでは昇格1年目から左SBのレギュラーとして起用され、2年目の87年にはブラジレイロ(ブラジル全国選手権)優勝に貢献。ジーコ、ベベトー、ジョルジーニョ、レアンドロと豪華なタレントが揃う中でも劣らぬ存在感を見せた。
88年にはテレ・サンターナがフラメンゴの監督に就任。サンターナは82年のW杯でジーコ、ソクラテスら「黄金のカルテット」を擁するブラジル代表を率い、魅惑的なサッカーで全世界のファンを虜にした名将である。
レオナルドのゲームメーカーとしての資質に目を付けたサンターナ監督は、彼のポジションを左SBから中盤へとコンバート。かつてジーコが背負っていた10番を与え、若き司令塔をチームの主軸に据える。
レオナルドはその期待に応え、88年のリオ・デ・ジャネイロ州選手権優勝に貢献。その活躍によりU-20ブラジル代表に選ばれ、同年の南米ユース選手権に出場。キャプテンとしてチームを優勝に導くと、89年のワールドユース選手権(現U-20W杯)では大会ベスト3に貢献する。ちなみにこの時のチームメイトには、のちにJリーグで再会することになるビスマルクがいた。
サンパウロでのビッグタイトル総制覇
90年、恩師のテレ・サンターナとともにサンパウロFCへ移籍。サンターナ監督はレオナルド、カフー、アントニオ・カルロス、エルベルトンら「トリコロール中隊」と呼ばれる若手でチームを活性化するとともに、不振にあえいでいたライー(ソクラテスの弟)とミューレルを復調させ活用。近年低迷していたチームを91年のブラジレイロ優勝に導く。
サンパウロの中心選手となったレオナルドはその活躍が認められ、91年の秋にはスペインのバレンシアに移籍。ここでも確固たる地位を築き、ACミランやバルセロナといった有名クラブから関心を寄せられる存在となった。だが93年の秋、サンターナ監督からの強い要請を受けて、古巣サンパウロに復帰することになる。
レオナルドがバレンシアに移籍した後も、コパ・リベルタドーレス制覇2回、トヨタカップ優勝1回とビッグタイトルを獲得してきたサンパウロだが、93年にチームの10番を背負っていたライーがパリ・サンジェルマンへ引き抜き。司令塔不在のピンチにレオナルドの力が必要とされたのだ。
レオナルドが牽引するチームは、93年の南米スーパーカップとレコパ・スダメリカーナを制覇。レオナルド復帰前のコパ・リベルタドーレス優勝と合わせた南米タイトル3冠王者として、同年12月には2年連続となるトヨタカップに臨む。そのクラブ世界一を決める対戦の相手は、スター軍団のACミランだった。
試合は前半19分、右サイドでフリーとなったカフーのクロスからパリーニャがゴール。サンパウロが先制した。だが1-0で折り返した後半の48分、デサイーの放り込みにマッサーロがスライディングでのゴール。試合は振り出しに戻る。
その10分後、左サイドを抜け出したレオナルドがゴール前へ素早いクロス。ファーで反応したトニーニョ・セレーゾが勝ち越し弾を決める。81分にはJPパパンのゴールで再び追いつかれるが、終了直前の88分にセレーゾのパスからミューレルの決勝点が生まれた。
こうしてバレージ、マルディーニ、デサイー、コスタクルタと世界一を誇るミランの守備陣から3点を奪ったサンパウロが、前年のバルセロナ戦に続いてビッグクラブを打ち破る快挙。トヨタカップ2連覇を達成した。
深い傷となった94年W杯
90年10月に行なわれたチリ戦で、21歳にしてA代表デビュー。代表ではライーがゲームメーカーを務めていたため、レオナルドは左SBのポジションでレギュラーの座を獲得。このまま94年のW杯メンバーにも選ばれる。
94年6月、Wカップ・アメリカ大会が開幕。G/Lの初戦でロシアを2-0と退けると、第2戦ではカメルーンを3-0と一蹴。グループ突破が決まっていた最終節はスウェーデンと1-1で引き分けるも、余裕の1位通過で決勝トーナメントに進む。
トーナメント1回戦は開催国のアメリカと対戦。試合が行なわれた7月4日は、奇しくも「アメリカ独立記念日」のメモリアルデーだった。地元の大声援を受けたホストチームの奮闘に、ブラジルは思わぬ苦戦を強いられる。
0-0のままハーフタイムを迎えようとしていた前半の43分、サイドラインでレオナルドとMFレイモスが激しいボールの奪い合い。するとまとわりつく相手の腕を振りほどこうとしたレオナルドの左ヒジが、レイモスの左こめかみを痛打。その場で倒れ込んだレイモスは顔を覆いながら悶絶、レオナルドの危険行為には一発レッドが出された。
試合はベベトーのゴールで1-0と勝利したものの、レイモスに鼻骨骨折の怪我を負わせたレオナルドには、FIFAから4試合出場停止と罰金800ドルの厳しい処分が課せられた。レオナルドが不在となった準々決勝では、代わりに左SBを務めたブランコの活躍でオランダに3-2と勝利する。
ブラジルはこの勢いで決勝まで勝ち上がり、イタリアを破って5大会ぶり4度目の優勝。セレソンたちが優勝の喜びに沸く中、ひとりレオナルドは傷心を抱えたまま帰国することになった。
鹿島の伝説ゴール
W杯後の7月、Jリーグでプレーするジーコからの熱心な誘いを受けて来日。鹿島アントラーズと契約を交わす。そして入れ替わるように現役を引退したジーコの10番を引き継ぎ、8月のヴェルディ川崎戦でJリーグ初登場となった。
さっそく世界レベルのテクニックを日本の観客に披露すると、前半37分にはアルシンドのパスから2人のDFを抜きさり得点。挨拶代わりのデビューゴールだった。94年はシーズン途中の加入ながら9試合7ゴールの活躍。鹿島の年間総合順位3位に貢献する。
発足まもないJリーグには多くの大物外国人選手がやってきたが、彼らはピークを過ぎたベテラン選手ばかり。レオナルドのような働き盛りの一流選手は珍しく、抜群のテクニックによる華麗なプレーは日本のファンを魅了。その甘いマスクとエレガントさで「貴公子」と呼ばれ、人気を博した。
翌95年にはフラメンゴ時代の僚友で、セレソンのチームメイトでもあるジョルジーニョが鹿島に入団。ワールドクラスのコンビで前期の首位戦線を快走するも、レオナルドが半月板損傷の重傷を負って長期離脱。それに合わせるようにチームも失速していった。
それでもシーズン終盤の11月には、レオナルドの後世に語り継がれるゴールが生まれる。後期19節・横浜フリューゲル戦の後半38分、Pエリアでボールを受けたレオナルドが、リフティングで二度、三度と相手を翻弄しながらの反転シュート。鮮やかにゴールネットを揺らす。のちにJリーグ20周年記念「Jクロニクルベスト」で、ゴール部門第1位に選ばれた伝説のシーンである。
鹿島との契約満了が迫った96年の夏、レオナルドのもとには欧州の有名クラブから複数のオファーが舞い込む。鹿島への愛着は捨てきれなかったが、自身のキャリアップを目指して、盟友ライーも在籍するパリ・サンジェルマンへの移籍を決断した。
欧州での活躍
パリSGでは、インテル・ミラノへ引き抜かれたユーリ・ジョルカエフの穴を埋めるゲームメーカーとして活躍。そのマルチな攻撃能力でウィングやセカンドストライカーも務めた。欧州カップウィナーズ・カップの準決勝リバプール戦では、チームを勝利へと導くゴール。2大会連続の決勝進出に貢献する。(バルセロナに敗れて準優勝)
すると翌97年の夏には、ビッグクラブのACミランから獲得のオファー。ミランはレオナルドがバレンシアでプレーしていた頃から注目しており、前シーズン11位と低迷したチーム立て直しの切り札として期待したのだ。
レオナルドは「まさかミランが自分を必要としてくれるとは思わなかった」と驚きながらもオファーを快諾。97年8月に契約が成立する。だが世界のスター選手をかき集めて機能不全に陥っていたチームは、97-98シーズンもリーグ10位と不振から抜けきれず。レオナルドの頑張りはチーム浮上のきっかけとはならなかった。
不完全燃焼に終わった98年W杯
97年7月、ボリビア開催のコパ・アメリカに出場。セレソンの10番を背負ったレオナルドは、G/Lのメキシコ戦で決勝ゴールを決めるなど活躍。ブラジル5度目の優勝に中心的役割を果す。
同年12月に行なわれたコンフェデレーションズカップでも余裕の優勝。前回王者としてW杯予選を免除されていたブラジルは、“怪物” ロナウドを擁し、98年W杯でも優勝の最有力候補に挙げられた。
98年6月、Wカップ・フランス大会が開幕。長引く太腿の故障により、ポジションと栄光の10番をリバウドに譲ってしまったレオナルドは、初戦のスコットランド戦をベンチで迎える。
試合は同点で折り返した後半開始の46分、精彩を欠くジオバンニに代わってレオナルドがピッチに登場。2-1の勝利に貢献する。続くモロッコ戦とノルウェー戦は右サイドで先発出場。馴れないポジションを無難にこなし、ブラジルのグループ1位突破に寄与した。
このあと決勝トーナメントを順調に勝ち上がり、ブラジルは2大会連続のファイナルへ進出。だが決勝のフランス戦では、CKからジダンのヘッド2発を許し前半で0-2のビハインド。2失点目はレオナルドのマークがジダンに剥がされてのものだった。
後半開始にはレオナルドに代わってデニウソンが投入されるも、デサイーの退場で数的有利となったアドバンテージを生かせず無得点。ロスタイムにも失点し、0-3の完敗でW杯連覇を逃してしまう。
7試合中6試合に先発したレオナルドだが、不慣れな右サイドでは中盤のバランスを取るのが精一杯。右SBカフーとの連携も滞り、最後まで持ち味を発揮できずに終わる。こうして4年前の雪辱を果たすことも叶わず、不完全燃焼のまま大会を去った。
ミランでのタイトルと代表引退
98-99シーズン、ミランはザッケローニ新監督のもとでチームを立て直し。新戦力ビアホフの活躍もあり、ラツィオと最後まで激しい首位争いを演じた。そして優勝が懸かった最終節のペルージャ戦では、ビアホフのゴールなどで3点をリード。ペルージャの反撃を中田英寿の1点に抑え、3季ぶりとなるスクデットを獲得する。
アタッカーを任されたレオナルドも、股関節の故障に苦しみながら27試合12ゴールの好成績。ミランの優勝に大きく貢献した。
だが99-00シーズンは慢性的な故障に悩まされるようになり、次第に活躍の場面は減少。01年にはレオナルドのブラジルに戻りたいとの希望が通り、4シーズンを過ごしたミランを退団。古巣サンパウロへの復帰が決まる。
セレソンでは99年コパ・アメリカのメンバーとして招集を受けるが、大会開幕を5日後に控えて代表辞退を発表。キャプテンに指名されたのが自分ではなく、カフーが選ばれたことでモチベーションが下がったことと、利益優先のマッチメークで選手に負担を強いるサッカー協会への不満がその理由だった。
このあと01年に行なわれた日韓W杯の南米予選を最後に代表から引退。10年間の代表歴で55試合に出場、7ゴールの記録を残した。
引退後のキャリア
サンパウロでもかつての輝きが取り戻せないまま、02年にはプロキャリアを始めたフラメンゴへ移籍。ここで6ヶ月間を過ごし、カリオカ選手権の8試合に出場したあと現役引退を発表する。
だがそのあとミラン幹部からの強い要請を受けて、短期契約による現役復帰を承諾。コッパ・イタリアの4試合に出場して2ゴールを記録し、クラブの26季ぶりとなる優勝に貢献。キャリアの最後をタイトルで飾ったレオナルドは、33歳で現役を引退した。
引退後はミランの副会長補佐としてクラブに籍を残し、カカやアレシャンドレ・パトの獲得に尽力。08年にはクラブのテクニカルディレクターに就任する。
09年6月、アンチェロッテイの後任としてミランの監督に就任。09-10シーズンはセリエA3位の実績を残すも、シーズン限りでの退任となった。
10-11シーズンに率いたインテル・ミラノでは、コッパ・イタリアを制して初となるタイトルを獲得。11年夏にはパリSGのスポーツディレクターに就任し、中東のオイルマネーをバックに現在に至るスター軍団の礎を築いた。
18年にはミランのスポーツディレクターとして古巣に復帰。だが補強に失敗し1年で退任となった。19年には再びパリSGのスポーツディレクターに返り咲くが、現場への口出しでエムバペやネイマールとの関係悪化が囁かれ、22年5月に解任が発表された。