ビロードのような繊細なタッチと、アウトサイドを多用したダイレクトパスで中盤を支配したプレーメーカー。華麗なドリブルで相手をかわし、豊富な運動量で守備にも貢献した。クラッシックを奏でるような優雅なプレースタイルから「チェコのリトル・モーツァルト」と呼ばれたのが、トマーシュ・ロシツキー( Tomáš Rosický )だ。
チェコの強豪スパルタ・プラハで名を成し、ドイツのドルトムントでは10番を背負ってブンデスリーガ優勝に導く。その後移籍したイングランドの名門アーセナルで、セスク・ファブレガス、アレクサンドル・フレブとともに黄金の中盤を形成。2度のFAカップ優勝に貢献する。だが円熟期を迎え、たび重なる怪我に苦しんだ。
チェコ代表で3度のユーロと06年ドイツW杯に出場。ユーロ04ではネドベド、ポボルスキー、コレル、バロシュら攻撃陣を華麗なパスワークで操り、オランダ、ドイツといった強豪を破って大会ベスト4に貢献。06年からは代表キャプテンを10年務めた。
トマーシュ・ロシツキーはチェコスロバキア共和国時代の1980年10月4日に、首都プラハで生まれた。父親のイリは、70年代に名門スパルタ・プラハで活躍したディフェンダー。トマーシュも3歳上の兄イリ(父親と同じ名前)とともに、地元クラブのSKプロセクでサッカーの練習に励んだ。
やがてSKプロセクで頭角を現した兄イリに、スパルタ・プラハからスカウトの声。父親の「弟も一緒なら」の条件により、当時7歳のトマーシュもスパルタ・プラハの下部組織へ加入する。
スパルタユースでは攻撃的MFとしてたちまち才能の輝きを見せ、Bチームでプレーしていた17歳の時には初めてプロの試合に参加。18歳でトップチームに昇格し、99年5月のSKヤブロネツ戦でトップリーグデビューを果す。
プロ2年目の99-00シーズンにはレギュラーの座を獲得し、24試合5ゴールの成績でガンブリヌス・リガ(チェコ1部)優勝に貢献。その活躍で2000年の「タレント・オブ・ザ・イヤー」に輝く。チャンピオンズリーグはグループステージでの敗退を喫するが、強豪アーセナルとの試合でゴールを記録し、国外にも知られる存在となった。
ドルトムントの10番
00-01シーズンにはイタリアのインテル・ミラノやラツィオ、イングランドのアーセナル、ドイツのバイエルン・ミュンヘンといったビッグクラブから関心を寄せられる中、01年1月にボルシア・ドルトムントと5年契約を交わす。
スパルタ・プラハには当時ブンデスリーガ最高金額となる250万マルクの移籍金が支払われ、その期待の大きさを表すようにロシツキーへ背番号10が与えられた。
移籍1年目はシーズン途中から15試合に出場してリーグ戦3位に貢献。翌01-02シーズン、チームはマルシオ・アモローゾ、ヤン・コレル、セバスティアン・ケールらの戦力を新たに補強して攻撃陣を強化。ロシツキーは「リトル・モーツァルト」と呼ばれる華麗なゲームメークで攻撃陣をリードし、30試合5ゴールの活躍。ドルトムント7季ぶりとなるリーグ優勝の立役者となった。
チャンピオンズリーグではグループステージ敗退を喫するも、UEFAカップ(現EL)の出場権を得て3回戦から参戦。ドルトムントは快調にトーナメントを勝ち上がり、準決勝では強豪ACミランを打ち破って9季ぶりの決勝へ進出。
決勝はフェイエノールトに2-3と敗れて準優勝に終わるも、ロシツキーはその顕著な活躍でチェコ年間最優秀選手に選ばれる。
02-03シーズンも30試合4ゴールと好成績を残すが、リーグ戦はバイエルン・ミュンヘンのタイトル奪回を許して3位。DFBポカールでは決勝を争うも、ハンブルガーSVに敗れて準優勝に終わる。
翌03-04シーズンは試合中に腕を骨折するなどコンディションに苦しみ、19試合2ゴールと入団以来最低の成績。リーグ戦も6位と低迷した。
チェコ代表、低迷からの脱出
各年代の代表を経て、2000年2月のアイルランド戦でA代表デビュー。このままユーロ2000大会のメンバーにも選ばれ、初となる大舞台に19歳で臨む。
ユーロでは出場停止となっていたパトリック・ベルゲルの代役として、初戦のオランダと第2戦のフランスとの試合に先発出場。だがチェコは強豪相手に連敗を喫し、早くも敗退が決定。最終節のデンマーク戦は2-0と勝利するも、ベルゲルが復帰したためロシツキーの出番はなかった。
続いて始まったW杯欧州予選ではレギュラーに定着するが、チェコはデンマークに続くグループ2位に終わり、ベルギーとのプレーオフを戦うことになった。
ロシツキーが出場停止処分となった敵地の第1戦は0-1の敗戦。先発復帰を果したホームの第2戦も0-1と敗れてしまい、チェコの分離独立後初となるW杯出場は叶わなかった。
優秀なタレントを揃えながらチェコ代表が低迷したのは、ネドベドら主力選手と監督が対立し、チームの統制が取れていなかったことに原因があったと言われていた。
02年1月には、U-21代表でロシツキーを指導したこともあるカレル・ブリュックナーが新監督に就任。ブリュックナー監督は就任早々チームの立て直しへ着手。代表からの引退を口にしていたネドベドの慰留に成功すると、厳格な管理体制を敷いて組織力の強化を図った。
生まれ変わったチェコの攻撃力は格段に向上。2mの巨人ヤン・コレルをワントップのターゲットに置き、2列目から襲いかかるネドベド、ロシツキー、ポボルスキーらが波状攻撃。そこへ両SBのヤンクロフスキーとグリゲラが加わるスペクタクルなサッカーは破壊的。02年6月から始まったユーロ予選を7勝0敗1分けと圧倒的な強さで突破し、3大会連続の出場を決める。
ユーロ04の快進撃
04年6月、ポルトガル開催のユーロ04大会が開幕。G/L初戦は初出場ラトビアの先制を許して苦戦するも、73分に新鋭バロシュのゴールで同点。終盤の85分にはハインツの逆転ゴールが決まり、2-1と白星スタートを切る。
第2戦の相手は強敵オランダ。開始4分にロッベンのクロスからボウマの先制ゴールを許すと、19分にもロッベンのクロスに合わせたファン ニステルローイが追加点。チェコはまたも苦しい戦いを強いられることになった。それでも23分にDFコクーのパスミスを拾ったバロシュのプレーからコレルが1点を返し、1-2のスコアで前半を折り返す。
後半にチェコが反転攻勢を掛けると、オランダは好調ロッベンを下げて守備固めによる逃げ切り体勢。だがその71分、コレルが胸トラップで落としたボールを、バロシュが豪快に叩き込んで同点。そして終了間近の88分、中盤でボールを奪ったロシツキーが前方を走るバロシュへ絶好のパス。そこからのチャンスにシュミッチェルがゴールを決め、チェコが3-2と大逆転劇を演じた。
グループ突破が決まっていた最終節は、ネドベド、ロシツキーら主力を休ませながら、ハインツとバロシュのゴールで強豪ドイツを2-1と撃破。チェコは3戦全勝でベスト8に勝ち上がる。
準々決勝はコレルの先制ゴールとバロシュの2得点でデンマークに3-0と快勝。ロシツキーは守備でも能力の高さを見せ、攻守両面にわたる活躍。準優勝したユーロ96大会以来となる、大会ベスト4へとチームを導いた。
準決勝の相手は伏兵ギリシャ。チェコは開始3分にロシツキーのシュートがバーを叩くなど、序盤から自陣を固めるギリシャに襲いかかった。だが堅く守る相手を攻めあぐねた前半の40分、接触プレーで足を痛めた主将のネドベドが負傷交代。チームの精神的支柱を失ったことで、チェコの勢いは削がれてしまった。
試合はスコアレスのまま延長戦に突入。その延長前半のロスタイム、相手CKの場面でDFデラスのヘディングシュートを許して失点。本大会はシルバーゴール方式を採用していたため、延長前半終了時に笛が吹かれてゲームセット。チョコ初優勝の夢は無念にも断たれてしまった。
アーセナルへの電撃移籍
03年頃からドルトムントの財政危機が噂され、チームを4シーズン指揮したマティアス・ザマー監督が04年の春に退任。守護神のレーマンやエースのアモローゾらの主力もクラブを離れてゆき、チーム力は大幅に低下。ドルトムントと08年までの長期契約を結んでいたロシツキーも、移籍希望を口にするようになる。
05-06シーズン終了後には、かつて兄も所属していたアトレティコ・マドリードとの契約が合意寸前にまで進むが、06年5月にアーセナルへの移籍が急遽決定。ユーロ04の活躍を見たベンゲル監督に請われての電撃入団だった。
8月に行なわれたCLのディナモ・ザグレブ戦でさっそくデビューを果すと、1ヶ月後のハンブルガー戦でロングシュートによる初得点を記録する。
移籍1年目から公式戦37試合6ゴールと活躍。スペインの新星セスク・ファブレガス、ベラルーシの英雄アレクサンドル・フレブと黄金の中盤を形成し、ベルカンプ、ピレス、ユングベリら「インビンシブルズ(無敗優勝)」時代の主力が抜けた穴を埋めた。
失速した06年W杯
04年8月から始まったW杯欧州予選では、8試合9ゴールを挙げたヤン・コレルに続く12試合7ゴールの活躍。だが同組の強敵オランダとの直接対決で連敗を喫し、グループ2位フィニッシュ。ノルウェーとのプレーオフに回ることになった。
プレーオフ直前には、しばらくチームを離れていたネドベドが代表復帰。敵地での第1戦をシュミッチェルの得点で1-0と勝利すると、ホームの第2戦もロシツキーのゴールで1-0と連勝。チェコ共和国成立後では初となるW杯出場を決める。
06年6月、Wカップ・ドイツ大会が開幕、初戦の相手はアメリカだった。開始5分、コレルの豪快ヘッドが炸裂しチェコが先制。36分にはロシツキーの豪快ミドルで追加点が生まれ、後半76分にもロシツキーのドリブル突破からダメ押し点。勝利の立役者となったロシツキーはマン・オブ・ザ・マッチに輝く。だがこの試合で太腿を痛めたコレルが戦線離脱、今後の戦いに暗雲が漂った。
第2戦はアフリカの新勢力、ガーナと対戦。開始2分、アサモア・ギャンのシュートを浴びて早くも失点。コレルの代役を務めたロクベンツが機能しないまま後半戦へと進み、65分にはPエリアでギャンを倒したDFウィファルンが一発退場。数的不利となった残り時間を守護神チェフの好守連発でしのぐも、82分にムンタリの追加点を許して万事休す。0-2の完敗で窮地に追い込まれる。
グループ突破を懸けた最終節は強豪イタリアと対戦、故障明けのバロシュがワントップに起用された。チェコは序盤から積極的に仕掛けて先制点を狙うも、名手ブッフォンの牙城を破れず、29分にはトッティのCKをマテラッツィに叩き込まれて失点。前半ロスタイムにはボランチのポラクが2枚目の警告で退場となってしまう。
10人となった後半は完全にリズムを失い、終盤の87分にはインザーギの抜け出しを許して2失点目。ロシツキーにこれといった見せ場はなく、0-2の敗戦で決勝トーナメント進出の望みは絶たれてしまった。
W杯終了後は代表を退いたネドベドの後任として新キャプテンに就任。06年9月から始まったユーロ予選ではチームをグループ1位に導き、チームを4大会連続出場に導く。だがシーズン中に負った膝の怪我が完治せず、ユーロ08本大会の出場は断念せざるを得なかった。
09年9月のW杯欧州予選・サンマリノ戦で代表復帰を果すも、チェコはグループ3位に沈んで2大会連続の出場を逃す。12年6月にはユーロ2012(ポーランド/ウクライナ共催)に出場。チームは準々決勝進出を果すが、大会中にアキレス腱を痛めたロシツキーの出番は最初の2試合にとどまった。
08年1月にFAカップで負った膝の怪我により、07-08シーズンの残り試合を欠場。オフシーズンに手術を受けるも、回復は遅れに遅れて08-09シーズンは全試合欠場を余儀なくされる。
09年9月のマンチェスター・シティー戦で20ヶ月ぶりの復帰を果すも、その後もたび重なる怪我に苦しみ、円熟期を迎えて出場と欠場を繰り返すことになった。それでもベンゲル監督は「彼は特別な才能を持っている。ピッチ外の貢献も大きい」と高評価。稀代のプレーメーカーを手放す事はなかった。
2000年代前半に黄金期を築いたアーセナルだが、06年に完成した新本拠地エミレーツ・スタジアム建設の負債がのしかかり財政が圧迫。年俸を抑えられた主力選手の他クラブへの流出が続き、次第に戦力が低下。2000年代後半には、CL出場権の得られるリーグ4位を狙うのがやっとという状況に陥っていた。
それでも負債が減少した13年にはメスト・エジルを獲得。他にもオリビエ・ジルーやアレクシス・サンチェスといった選手が加わり、ロシツキーは彼らとともにチームの中心となって13-14シーズンのFAカップ優勝に貢献。アーセナルでの初タイトルを得た。
翌14-15シーズンもガナーズのキャプテンとしてFAカップ連覇に貢献。だが15-16シーズンは慢性化していた膝の故障が悪化し、出場できたのはFAカップの1試合のみ。シーズン終了後の契約満了を持って、10年を過ごしたアーセナルに別れを告げた。チェコ代表も16年6月のユーロ予選を最後に退き、17年間で105キャップ、23ゴールの記録を残す。
16年8月には古巣のスパルタ・プラハへ復帰。故郷のクラブで1シーズン半をプレーし、17年12月に37歳での現役引退を発表。翌年6月にはコレル、ポボルスキー、チェフ、セスク、フレブ、ファン ペルシー、シャヒンらチェコ代表、アーセナル、ドルトムント時代の旧友を集めた引退記念試合が行なわれた。
引退後はスパルタ・プラハのスポーツディレクターに就任。名門クラブの顔として、その手腕発揮に期待が寄せられている。