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サッカーの歴史や人物について

ブラジルサッカーの功労者、マリオ・ザガロさん死去

ブラジルW杯優勝を4度経験

選手として、あるいは監督や技術顧問として4度のW杯優勝に関わったマリオ・ザガロ(Mário Jorge Lobo Zagallo)さんが、6日にリオ・デ・ジャネイロ市内の病院で亡くなったことが本人のインスタグラムから公表された。

ザガロさんは数年前から体調を崩しており、昨年の9月には尿路感染症20日間の入院。年末の12月26日にも再び入院し、年明け1月5日の深夜、多臓器不全により死去したという。享年92歳。

現役時代は左ウィングプレーヤーとして活躍。ブラジル代表では58年スウェーデン大会と62年チリ大会のW杯2連覇に貢献した。70年メキシコ大会ではカナリア軍団の指揮官を務め、母国を3度目の優勝に導く。

94年アメリカ大会でも技術顧問としてブラジル4度目の優勝を支え、98年フランス大会では再びセレソンの指揮を執って準優勝の実績を残している。

 

選手と監督の両方でW杯優勝を達成

1931年8月9日生まれ、ブラジル北東部のアラゴアス州アタライアで育つ。17歳でアマチュア選手としてキャリアをスタートさせ、19歳となった50年にフラメンゴへ入団。左ウィングプレーヤーとして活躍し、3度のリオ州選手権制覇に貢献する。

167㎝と身体は大きくなかったが、休みなく動き回る姿から「フォルミギーニャ(小さな蟻)」と呼ばれ、チームに欠かせない存在となる。また名前の ”ロボ(狼)” をもじった「ヴェーリョ・ロボ(オールド・ウルフ)」のニックネームでも親しまれた。

この時期は兵役にも就き、50年のブラジルW杯ではマラカナン・スタジアムに配置され、ウルグアイに敗れて優勝を逃した「マラカナンの悲劇」を警備兵として目撃したという。

58年にはブラジル代表としてW杯スウェーデン大会に出場。右ウィングのガリンシャとともにチームのチャンスをつくりだし、守備でも献身的な働き。ペレ、ジジ、ババらの攻撃陣を支えるだけでなく、地元スウェーデンとの決勝では得点を記録。母国の初優勝に貢献した。

W杯後の58年夏、フラメンゴのライバルクラブであるボタフォゴへ移籍。ガリンシャ、ジジ、ニウトン・サントスなどのチームメイトらとクラブの黄金期を築く。

62年には2度目となるW杯チリ大会に出場。予選リーグでペレが負傷してしまうが、大活躍のガリンシャとともにエースの穴を埋め、大会2連覇に大きな役割を果たした。

34歳となった65年に現役を引退。引退後はボタフォゴ・ユースのコーチを務め、70年にはメキシコW杯本番を直前に控えて、ブラジル代表監督に就任。ペレ、リベリーノ、トスタン、ジャイルジーニョら強力攻撃陣を擁するカナリア軍団をまとめあげ、母国を3度目の優勝に導く。こうしてザガロは、選手と監督の両方でW杯優勝を経験した最初の人物(後に独のベッケンバウアーと仏のデシャンが達成)となった。

94年には技術顧問としてアメリカW杯に参加。アルベルト・パレイラ監督を支えて4度目の優勝に寄与する。96年、アトランタ開催のオリンピックで五輪代表の指揮を執るが、予選リーグで日本に0-1とまさかの敗戦。日本では「アトランタの奇跡」と呼ばれた。98年フランスW杯ではフル代表の監督に復帰。決勝で地元フランスに敗れて5度目の栄冠を逃すも、準優勝の実績を残す。

指導者としての活動は2006年まで続き、そのコーチキャリアを通じて選手からは「プロフェッサー(教授)」と呼ばれている。