「小さな魔法使い」
小柄だが敏捷な動きと、足に吸い付くようなボールタッチで相手ディフェンダーを翻弄した攻撃的MF。セットプレーの名手としても知られ、鋭利に軌道を描くFKで「マジック・ボックス」と呼ばれた。その巧みなパスコントロールで攻撃を操り、多くの観客を魅了したイタリアのファンタジスタが、ジャンフランコ・ゾラ( Gianfranco Zola )だ。
サルディーニャ島の小クラブで下積み時代を送り、23歳でセリエAのナポリへ移籍。ここでマラドーナの大きな影響を受け、主力へと成長。93年に移籍したパルマでは、中心選手としてUEFAカップ優勝などに貢献する。96年からはイングランドのチェルシーでも大活躍した。
イタリア代表としては94年W杯アメリカ大会に出場。だが同ポジションに「イタリアの至宝」と呼ばれたロベルト・バッジオがいたため、出場機会には恵まれなかった。96年にはイングランド開催のユーロに出場。グループリーグの3試合に出場するも、PKを失敗して決勝トーナメント進出を逃してしまった。
ジャンフランコ・ゾラは1966年7月5日、イタリア西方の地中海にあるサルディーニャ島、オリエナに生まれた。島のジュニアチームで本格的にサッカーを始め、18歳の時に地元クラブ・ヌオレーゼと契約を結び、イタリアの下部リーグでプロ生活をスタートさせる。
サルディーニャ島の中ではスバ抜けたサッカーセンスを見せ、いつかはセリエAでプレーしたいと望んでいたゾラ。だが島で一番のクラブであるカリアリからは、体の小ささで見向きもされず、遠く離れた本土のクラブで活躍するなど夢のまた夢。いつしか20歳を過ぎて希望は薄れかけていた。
だがセリエC1のSEFトレスでプレーしていた89年、突如セリエAのナポリからゾラへオファーが舞い込んだ。地方の小クラブでプレーするゾラの才能が、ナポリの豪腕GMであるルチアーノ・モッジ(のちに「カルチョポリ・スキャンダル」で永久追放)の注目を引いたのだ。
当時のナポリはディエゴ・マラドーナやカレッカを擁し、86-87シーズンのスクデッドを獲得。このときイタリアで最も勢いのあるチームだった。地方無名選手の移籍話は本人だけではなく、サルディーニャ島のファンも驚かせた。
こうしてゾラは23歳で強豪ナポリへ移籍、開幕間もないアトランタ戦でセリエA初ゴールを記録する。移籍当初はマラドーナの影に隠れて出場機会は少なかったが、このカリスマとプレーすることでゾラは天才児のエッセンスを吸収していった。
チームの全体練習ではマラドーナからアドバイスを受け、徹底的に彼のプレーを真似して、その戦術からテクニックに至るまでの多くを習得。そのことから後に “マラゾーナ” と呼ばれるまでになる。そしてゾラはこの時期に、マラドーナ直伝と言われるフリーキックの技を磨き、自分の大きな武器とした。
ナポリの新10番
89-90シーズン、ナポリは「オランダトリオ」を擁するACミランをかわし、3年ぶりのリーグ優勝を果たす。当然主役はマラドーナ。ゾラ自身の貢献度は7試合出場2ゴールと少なかったが、彼はこの1年で貴重な経験を積んだ。
しかしこのあとマラドーナは麻薬使用やマフィアとの関係が明らかになり、イタリアサッカー連盟から15ヶ月の出場停止処分を受け、91年にはナポリを退団。その91-92シーズンにはクラウディオ・ラニエリが監督に就任し、マラドーナの10番をゾラに継承させた。
独り立ちしたゾラは、91-92シーズンに30試合で12ゴール、92-93シーズンは37試合で12ゴールと安定した活躍を見せチームの主力となった。しかしこの頃ナポリの経営が悪化、92-93シーズンにパルマへ売り渡される。
移籍したゾラはゲームメーカーが不在だったパルマの司令塔に抜擢され、その卓越した技でトッププレイヤーの地位を確立する。自らボールを操って鋭く前線を突破、マラドーナ譲りのスルーパスで多くのチャンスをつくり、得意のFKも威力を発揮した、こうして移籍1年目の93-94シーズンは、37試合19ゴールの活躍でチームをリーグ3位に押し上げた。
悔いの残ったワールドカップ
イタリア代表には91年11月のユーロ予選、ノルウェー戦でデビューを果す。しかし同じポジションで同じプレースタイルを持つロベルト・バッジオの存在により、代表への定着は果たせずにいた。
だが94年のW杯本番直前、バッジオが右足アキレス腱を痛めてしまい、パルマで好調だったゾラは代役としてW杯メンバーに招集される。
94年6月、Wカップ・アメリカ大会が開幕。故障を抱えたバッジオが無理を押して大会に出場したため、ゾラは控えとして出番を待つことになった。
G/L初戦はアイルランドに0-1と敗れ、続く第2戦はGKパリウカが一発退場。さらに主将バレージが膝に重傷を負うという緊急事態に追い込まれながらも、ノルウェーに1-0の辛勝。第3戦はメキシコと1-1で引き分け、どうにかグループ3位に滑り込んで決勝トーナメントに進む。
ここまでゾラの出番はなかったが、トーナメント1回戦のナイジェリア戦でようやく彼にチャンスが巡ってきた。試合は前半12分、CKからアムニケのシュートを許し失点。アズーリは個人技と身体能力に優れた相手を攻めあぐね、チャンスをつくることが出来なかった。
後半62分、反撃を狙うイタリアはFWシニョーリに代えてゾラを投入。その74分、ドリブル突破を試みたゾラがボールを奪われ、強引に身体を入れての奪い返し。だがそのとき相手の足を踏みつけてしまい、報復行為とみなされレッドカードを受けてしまう。
VTRで見直すと厳しすぎるジャッジにも思えたが、今大会ラフプレーには厳正に対処するようFIFAからの通達が出ており、ゾラにとって不運としか言いようがないアクシデントだった。
ゾラの退場で数的不利となり、敗退の危機に追い込まれたイタリア。しかし終了直前の88分、R・バッジオが起死回生の同点ゴール。延長でもバッジオがPKを決め、逆転勝利を収めたイタリアは決勝まで勝ち進む。しかしこのあとゾラに出場の機会は訪れず、W杯のプレーはわずか12分にとどまった。チームが準優勝に終わったこともあり、悔しさだけが残る大会となった。
「マジック・ボックス」の活躍
パルマでのゾラは、“コロンビアの快足FW” アスプリージャとの絶妙なコンビネーションで躍動。94-95シーズンには30試合19ゴールの活躍で、チームをリーグ3位に導いた。そして同シーズンのUEFAカップ(現EL)では優勝を果たし、中心選手として欧州タイトル獲得に貢献。そのファンタジックなプレーで「マジック・ボックス」と呼ばれるようになっていた。
しかし95-96シーズンに加入したフリスト・ストイチコフとはコンビネーションが噛み合わず、成績は29試合10ゴールと落ち込んだ。
96-97シーズン、カルロ・アンチェロッティがパルマの監督に就任。新監督はチームの改造に着手し、ゾラを中盤の下がり目のポジションに移して、それまで以上の守備も要求した。ゾラはこれに反撥、アンチェロッティ監督との間には確執が生じてしまう。
そのためゾラはシーズン途中にもかかわらず、パルマのユニフォームを脱ぐ事を決意。プレミアリーグのチェルシーで選手兼任監督を務めていたルート・フリットの誘いを受けて、96年11月に30歳でイングランドへ渡った。
95年12月の「ボスマン裁定」でEU内の移籍が事実上自由化され、資金力のあるチェルシーはゾラのほか、ヴィアリやディ・マッティオなどイタリア代表級選手の獲得に乗り出していたのだ。
アズーリで輝けなかった魔法使い
94年9月から始まったユーロ予選では、ゾラがバッジオからポジションを奪ってチーム最多となる7ゴールの活躍。イタリアを2大会ぶりのユーロ出場に導く。
96年6月、イングランド開催のユーロ大会が開幕。G/L初戦はゾラとの連携からカジラギが2得点を決め、ロシアに2-1の勝利。続くチェコ戦はゾラ、カジラギ、デル・ピエロらの主力を温存して臨むも、新鋭ネドベドの先制弾を食らって1-2と不覚の敗戦を喫する。
グループ突破の懸かった第3戦はドイツとの戦い。開始直後にイタリアがPKのチャンスを得るが、これをゾラが失敗してしまい先制機を逃す。後半59分にはドイツの守備的MFストランツが一発退場となるも、イタリアは数的有利を活かせず0-0の引き分け。この結果チェコに得失点差でかわされ、3位に沈んで敗退となってしまった。
96年10月から始まったW杯欧州予選では、敵地のイングランド戦で決勝ゴールを挙げるなど好調な内容。しかしグループ2位で進んだロシアとのプレーオフでは、2試合とも出番を与えられなかった。
イタリアは98年フランス大会への出場を決めるが、チューザレ・マルディーニ監督はゾラではなく、ボローニャで輝きを取り戻したR・バッジオをW杯メンバーへ選出。2度目となるW杯出場への希望を絶たれたゾラは、32歳で代表からの引退を発表する。7年間の代表歴で35試合に出場、10ゴールの記録を残した。
チェルシー史上最高の選手
プレミアデビューから4試合目となるエバートン戦、ゾラは27mの強烈なFKをゴール右上隅へ決め、英国サポーターの度肝を抜く。97年2月のマンチェスター・ユナイテッド戦では、飛び込んでくるディフェンダーを軽くかわし、さらには2人を抜いて守護神ピーター・シュマイケルの牙城を破った。
FAカップでは、7試合4ゴールとチームを27年ぶりの優勝に導く活躍。決勝のミドルズブラ戦では、意表を突くバックヒールで勝利に繋がるアシストを記録した。
移籍当初は小さな体と30過ぎの年齢でパフォーマンスが不安視されていたゾラだが、その魅惑的なプレーでたちまち英国ファンの心を鷲づかみ。FWA(英国ライター協会)の年間最優秀選手に選ばれる。
翌97-98シーズン、チェルシーは欧州カップウイナーズ・カップに出場。決勝のシュトゥットガルト戦でゾラは途中出場。ピッチに現れた僅か2分後に鮮やかな決勝点を叩き込み、優勝の立役者となった。加えてチェルシーはリーグカップ優勝とUEFAスーパーカップ優勝も果す。
98-99シーズンは、チェルシーはリーグ2強のマンチェスター・ユナイテッドとアーセナルに続くプレミア3位。99-00シーズンは3季ぶりにFAカップを制す。FAカップ準決勝のノーリッジ戦で、ゾラはヒールタッチからの反転シュートでゴールを記録。当時の指揮官ラニエリに「魔法使い」と言わせしめた。
03年にはサポーターから「チェルシー史上最高の選手」に選出。翌年にはその活躍によりOBE(大英帝国勲章)を授与される。
02-03シーズン終了後、36歳となったゾラは惜しまれながらチェルシーを退団。故郷への帰還を希望し、サルディーニャ島のカリアリ(当時セリエB)へ移籍する。チェルシーで在籍した7シーズンで80ゴールを記録、そのうち14本はFKによるものだった。
ゾラの退団から1週間後、ロシアの石油王ロマン・アブラモビッチがチェルシーの買収を発表。オーナーのアブラモビッチはゾラの呼び戻しに動くも、「小さな魔法使い」が自分の意思を曲げることはなかったという。
カリアリ移籍の03-04シーズン、21試合13ゴールの活躍でチームをセリエA昇格に導く。そしてセリエAでの04-05シーズンは23試合9ゴールの成績を残し、05年6月に38歳での現役引退を発表する。
引退後はイタリアU-21代表のアシスタントコーチに就任。監督で盟友のカジラギを助け、08年北京オリンピックではベスト8入りを果たした。
そのあとウェストハム、イタリアU-16代表、ワトフォード(イングランド2部リーグ)などの監督を歴任。14年12月にはカリアリの監督に就任するが、下位に低迷するチームを救うことが出来ず、セリエB降格を喫して解任された。
18年にはアシスタントコーチとして古巣のチェルシーに復帰、レジェンドの帰還にサポーターからは大きな歓迎を受けた。18-19シーズンはヨーロッパリーグ優勝のタイトルを得るも、フランク・ランパード監督の就任に伴って退任となっている。