その性的魅力や見事なプロポーションで、50年代アメリカの “セックス・シンボル” と呼ばれながら、36歳という若さで亡くなったマリリン・モンロー。
モンローの人気の理由は、彼女自身の見せる「無邪気」や「純粋さ」を損なわないで保ち続けているところにあった。この「天使の色気」が世の男を惹きつけたゆえんだが、実際は意識的に演じていたのだという。
私生児として生まれ、愛情を知らない不幸な少女時代を過ごしたモンロー。その孤独な生い立ちによる陰と光が、彼女の魅力を生み出したともいえる。
1926年6月1日、のちにマリリン・モンローの名を持つノーマ・ジーン・ベイカーはロサンゼルスで生まれた。母親はかつてRKOスタジオの編集助手をしていたクラディス。父親はノーマ・ジーンが生まれる前に事故死したエドワード・モーテンソンとされているが、母クラディスの職場の同僚であるスタンリー・ギフォードとも言われており、真実は定かでない。
とにかく私生児として生まれた幼い娘は、すぐに近所の家に預けられ、政府からの養育手当を目当てにした里親たちの間を転々とさせられ、孤児院へも送られた。
学校へ上がる前に母親が精神病で入院。祖父母も精神異常の病歴を持ち、出生の不明瞭さとアブノーマルな血筋は生涯モンローの心を苦しめ続けたという。
物心ついた頃からスラム街のようなところで暮らしており、8歳のときに下宿人に強姦されたとのちに告白している。だがモンローには虚言癖があり、この話の真偽も確かではない。10歳の頃にはすでに、男の気を引くための「モンロー・ウォーク」を身につけていたという話もある。
42年に高校を中退したノーマ・ジーンは、16歳で近所に住む整備工のジム・ドハティと結婚。孤児という境遇から逃れたい一心で、叔母の勧めに従ったのである。
その後夫のジムは海軍に徴兵され、独りになった新妻は工場で働きながら写真モデルの仕事も務める。
まもなく専業モデルとなり、セクシーなピンナップ写真が雑誌に掲載されるようになると、夫の理解が得られなかったことから20歳で離婚する。最初の夫のモンロー評は「ひどく料理の下手な女」というものだった。
離婚した46年、20世紀フォックスのスクリーン・テストを受け合格。キャスティング担当重役が名付け親となり、「マリリン・モンロー」の名前で女優活動を始める。
47年の映画『嵐の園』で端役デビューするが、どこか自身のなさげな演技に出演場面はカットされ、契約を打ち切られてしまう。
その後、演技を学び直すなど下積み生活を送り、生活費を稼ぐためカレンダーのヌードモデルにもなった。有名になってからこの写真が世間を騒がすことになるが、記者の「本当に何もつけていなかったのか」の質問には、「あら、ラジオをつけていたわ」とウィットで返している。
50年の『アスファルトジャングル』『イヴの総て』では、短い出演時間ながらみずみずしい演技で注目され、リチャード・ウィドマーク主演のサスペンス映画『ノックは無用』(52年)で初めてヒロイン役を務める。
そして53年にはノワール映画『ナイアガラ』に主演、愛人をそそのかして夫の殺害を謀る悪女を演じた。この映画で見せたブロンド美女の妖艶さは、「モンロー・ウォーク」の長いカットとともに話題を呼んで、彼女の出世作となる。
このあと、『紳士は金髪がお好き』『百万長者と結婚する方法』(53年)『帰らざる河』(54年)と立て続けに主演。可愛さとセクシーさ、そしてコメディセンスを兼ね備えたモンローはたちまち人気者となり、トップスターの仲間入りをした。
元メジャーリーグの大スター、ジョー・ディマジオと出逢ったのは52年、『ノックは無用』を撮っていた頃だ。野球に疎いモンローはディマジオのことを知らなかったようだが、逞しい男の強い父性にたちまち惹かれていく。
二人は54年1月に結婚、2月には読売ジャイアンツの招きで、新婚旅行を兼ねての来日を果たしている。このとき帝国ホテルで行われた記者会見で、「夜何を着て寝るんですか」の問いに「シャネルの5番よ」と答えたというエピソードは有名である。
だが野球一筋で硬派のディマジオと、何事にもだらしなく、まともに主婦業も出来ないモンローでは最初から上手くいくはずがなかった。
『七年目の浮気』(55年)の撮影で、地下鉄から吹き上げてくる風でスカートを翻す有名なシーンのロケを、野次馬が冷やかす中で見ていたディマジオは激怒。また嫉妬心の強い夫にモンローの心も離れ、ついに夫婦は離婚する。結婚生活は9ヶ月しか続かなかった。
『7年目の浮気』は大ヒットしたものの、「オツムの弱いお色気美女」ばかり演じさせられることに嫌気がさし、アクターズ・スタジオを主宰するリー・ストラスバークに演技指導を受け、“セックス・シンボル” からの脱却を図る。
そしてジョシュア・ローガン監督の『バス停留所』(56年)では、粗野な男に振り回される愛情深い女性を繊細な演技で好演。新境地を拓いた。
『七年目の浮気』が封切られる頃から、『セールスマンの死』で有名な劇作家、アーサー・ミラーとの恋愛が始まり、56年に結ばれると「アメリカ最大の美とアメリカ最高の頭脳の結婚」と騒がれる。
モンローはこの結婚に全力を注ぎ、夫に合わせてユダヤ教に改宗。少しでも知的に見せようと背伸びをするなど無理を重ねた。
しかしお腹に宿した子供は流産。精神は不安定な状態となり、睡眠薬を多用するようになった。このことは神経質なミラーをいらだたせ、次第に夫婦仲は冷めていく。
そして『恋をしましょう』(60年)で共演したイヴ・モンタン(ミラーとは友人だった)とモンローは浮気、夫婦は61年に破局を迎える。
精神的に病み入院までしたモンローは、59年に出演した『お熱いのがお好き』で遅刻をたびたび繰り返すようになり、共演のトニー・カーチスとジャック・レモンを何時間も待たせた。ようやく現れてもセリフをとちり続け、テイクを42回も撮り直したことさえあったという。
61年、当時まだ夫であったアーサー・ミラーが脚本を書いた『荒馬と女』に出演。映画の評判が悪かったことから再び精神を病むが、よりを戻した元夫のディマジオに支えられる。だがこの映画が、結局彼女の遺作となった。
62年の4月には『女房は生きていた』の撮影に臨むも、病気を理由に遅刻、早退、欠勤を繰り返すなど制作スケジュールは大幅に遅れていった。
5月18日、モンローは撮影をすっぽかしてニューヨークへ飛んだ。J・F・ケネディ大統領の誕生パーティーに出席するためである。
この祝いの席で薄手のドレスを着たモンローは、なまめかしい声と身振りで『Happy Birthday, Mr. President』を大統領のために唄う。
このときのモンローは、ケネディ大統領の慰めものだったとされており、また弟のロバート・ケネディ司法長官とも関係を持っていたと言われている。
父親を知らずに育ったモンローは、強い男へのコンプレックスと憧れ、そして孤独への恐れを抱いていたのだ。
この誕生パーティーへの出席は、とうぜん撮影関係者のヒンシュクを買った。その後も撮影のすっぽかしが続いたことから、36歳の誕生日が過ぎた6月8日、『女房は生きていた』からの降板が決定。さらにモンローは、映画会社から損害賠償請求の訴訟を起こされることになった。
それから2ヶ月たった8月5日の早朝、ロサンゼルス自宅の寝室で、全裸で電話を握りしめたまま死亡しているモンローの姿が、住み込みのメイドによって発見される。
死因は、睡眠薬の摂り過ぎによる中毒死。検視の結果、通常服用する10倍の薬物量が検出され、事故死ではなく自殺と断定された。
司法解剖を行ったのは日本人医師のトーマス野口(野口恒富)。モンローの鮮やかな金髪は、茶色をブロンドに染めたものだったという。
自殺の原因については、主役降板の失意、賠償金訴訟、孤独な生活への絶望、精神疾患によるもの、ケネディ兄弟との関係、はたまた謀殺説など色々な噂が飛び交ったが、真相は明らかではない。
こうして50年代の寓話は終わりを告げたが、マリリン・モンローの伝説は今も輝いている。