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サッカーの歴史や人物について

《サッカー人物伝》パトリック・クライファート(オランダ)

 

「 スキャンダルボーイの傷心 」 

大きな身体と長いリーチを巧みに使い、柔らかな身のこなしでゴールを陥れた。ダイナミックさと柔軟さを兼ね備える天才肌のプレーヤー。その卓越した得点能力で「ポスト・ファン バステン」を担ったオランダのストライカーが、パトリック・クライファート( Patrick Steven Kluivert )だ。

 

ヘディングも得意とするなど多彩なシュートテクニックを持ち、難しいゴールをいともたやすく決めて人々を驚かす反面、イージーに外す場面も多く「気まぐれの天才」と呼ばれた。アヤックス時代に19歳で出場したチャンピオンズリーグ決勝の殊勲弾でシンデレラボーイとなるも、精神的な弱さとスキャンダル続出で伸び悩む。

 

しかし98年に移籍したバルセロナで再生。リバウドルイス・フィーゴと3トップを組み、エースストライカーとして活躍した。オランダ代表では98年W杯や3度のユーロにも出場し、ベスト4入りなど上位進出に貢献している。

 

最強アヤックスの新星

クライファートは1976年7月1日、オランダの首都アムステルダムで生まれた。父親はスリナム出身の元サッカー選手で、母親はカリブ海に浮かぶオランダ領キュラソー島の出身だった。

幼い頃からストリートサッカーに親しみ、ほとんどの時間を過ごしたナルダメール通りの赤い広場では、3歳年上のエドガー・ダーヴィッツらとゲームに興じた。

6歳のとき地元クラブで本格的なサッカーを始めると、その俊敏な運動能力がスカウトの目に止まり、7歳でアヤックスのユースアカデミーに入団。ここでエリート教育を受け、順調に才能を伸ばしてU-15代表にも選出。そのあと各年代のユース代表に選ばれ続け、アンダー世代のエースストライカーとして成長していく。

そして18歳となった94年の8月、ルイス・ファン ハール監督に引き上げられトップチーム昇格。オランダ・スーパーカップフェイエノールト戦で先発デビューを果たし、さっそくプロ初ゴールを決めている。

そしてデビューの94-95シーズンは、ロナルド・デ・ブールのポジションを奪い25試合18ゴールとチーム得点王の活躍。アヤックスエールディヴィジ2連覇に貢献する。

当時のアヤックスは、ダーヴィッツセードルフ、ファン デルサール、オーフェルマルス、リトマネン、カヌー、フィニディ・ジョージといった若手タレントの宝庫。そこへまたクライファートという新星が誕生したのだ。

さらにアヤックスチャンピオンズリーグも快調に勝ち進み、23年ぶりとなる決勝へ進出。決勝ではセリエA最強を誇るACミランと対戦する。

序盤はリズムの良いパス回しでアヤックスが主導権を握るが、経験と守備力で上回るミランが前半半ば以降に試合をコントロール。後半はミラン優勢の展開となりヤックスが押され始めるも、0-0の均衡状態は続いた。

終盤が近づいた70分、ファン ハール監督は膠着した状況を打開すべく、マークの厳しいリトマネンに代えてクライファートを投入。その85分、ライカールトからのパスを受けたクライファートがワンタッチでバレージをかわし、殊勲の決勝ゴールを叩き込んだ。

こうしてアヤックスが、クライフの君臨した70年代前半以来となるビッグイアーを獲得。18歳のクライファートはシンデレラボーイとしてその名を世界に轟かせた。

 

ファン バステン2世の光と陰

翌95-96シーズン開幕の前哨戦となるオランダ・スーパーカップでは、延長戦での決勝ゴールを挙げて勝利の立役者となった。レアル・サラゴサとの欧州スーパーカップでもアウェーゴールで優勝に寄与。11月のトヨタカップも先発出場し、南米王者のグレミオ(ブラジル)をPK戦で制して世界一クラブの称号を得る。

リーグ戦では28試合15ゴール7アシストを記録して、2シーズン連続のチーム得点王。エールディヴィジ3連覇に大きな役割を果たした。

その活躍で「ファン バステン2世」と呼ばれるなど、スーパースターへの階段を駆け上がっていくクライファート。だが95年の9月、スピードの出し過ぎによる自動車事故を起こしてしまい、輝けるキャリアに暗い陰を落とすことになってしまった。

この事故に巻き込まれたた56歳の劇場監督が死亡。その妻が重傷を負うという重大過失により、禁固3ヶ月の有罪判決。このあと社会奉仕240時間に減刑されたが、19歳の若者のメンタルに与える影響は甚大なものだった。

これ以降、ヒーローから一転してヒール扱いを受けるようになったクライファートには、アウェーのサポーターからブーイングが浴びせられる。

もともと精神面に課題を抱えており、相手選手やレフェリーの振る舞いにも過敏な反応。すぐムキになって判定に不服を示したり、相手の挑発に乗ってカードを貰ったりと、次第にプレーは不安定になった。

96年4月には膝の手術を受け、ユベントスとのCL決勝を欠場。96-97シーズンのアヤックスは7季ぶりのタイトル無冠に終わり、クライファートも17試合6ゴールの低調な成績。メディアの評価は急降下し、ファンからの信頼を失っていく。

周囲から孤立してしまったクライファートは深い傷心を抱え、シーズン終わりにはアヤックスを離れることを決意する。

97年の2月、盟友ダーヴィッツも在籍するACミランと電撃契約。かつてファン バステンらオランダトリオが活躍し、少年時代から憧れていたチームだった。

しかし移籍3ヶ月後の97年5月、ディスコで知り合った20歳の女性から、アパートに連れ込まれて性的暴行を受けたと裁判所に訴えられてしまう。クライファートはこの告訴を「事実無根」と反論、女性に対して逆告訴を起こす。

この件は証拠不十分で不起訴処分となったが、日頃から女性にだらしなかった彼には世間の厳しい目が向けられ、「スキャンダルボーイ」のレッテルが貼られた。

精神的ダメージを受けたクライファートのプレーは精彩を欠き、また2トップを組むジョージ・ウェアとの呼吸も合わず成績は低迷。97-98シーズンは27試合6ゴールの結果に終わり、チームはリーグ10位。期待外れの結果にカルチョの国からもバッシングを受ける。

 

オレンジ軍団のストライカ

オランダのフル代表には、94年に18歳の最年少で初招集。11月16日のチェコ戦で代表デビューを果たし、95年3月に行なわれたユーロ予選、マルタ戦で初ゴールを記録する。

96年6月にはイングランドで開催されたユーロ96に出場。しかし膝の負傷で満足なプレーが出来ず、1-4と敗れたG/Lのイングランド戦で1点を挙げたのみ。チームも一体感を欠き、大会途中にダーヴィッツヒディンク監督が衝突。空中分解したオランダは準々決勝敗退となった。

98年6月、Wカップ・フランス大会が開幕し、G/L初戦はベルギーとの試合。0-0で折り返した後半の81分、クライファートが相手DFクラーレンスに肘打ちを食らわせ一発レッド。「このレイプ野郎!」と罵られての報復行為だった。

ベルギー戦はスコアレスドローとなり、退場となったクライファートは2試合の出場停止処分。オランダは第2戦で韓国に5-0と圧勝し、最終節ではメキシコと2-2の引き分け。グループ首位でベスト16に進んだ。

トーナメントの1回戦は、ダーヴィッツ90分の決勝弾でユーゴスラビアに2-1の劇的勝利。出場停止処分が解けたクライファートの出番はなかった。

準々決勝のアルゼンチン戦は先発に復帰。前半12分、R・デ・ブールの浮き球をベルカンプが頭で落とし、ファーポストに走り込んだクライファートが先制点を決める。

しかし17分にクラウディオ・ロペスのゴールで追いつかれ、試合は1-1のまま終盤戦に突入。その82分、挑発に怒ったオルテガが、ファン デルサールに頭突きを見舞って一発退場。一気に優位となったオランダは、89分にベルカンプが芸術的なトラップから決勝ゴール。5大会ぶりの準決勝に進出した。

準決勝の対戦相手は優勝候補のブラジル。序盤からオランダがゲームの流れを掴むも、前半は0-0で終了。そして後半開始の46分、リバウドのパスからロナウドに先制ゴールを許してしまう。

その後もブラジルに押され続け、敗色濃厚となったオランダだが、87分にクライファートがクロスをヘッドで合わせ起死回生の同点弾。試合は延長にもつれ込んだ。

試合は120分を戦っても決着がつかずPK戦となり、2人止められたオランダが準決勝敗退。このあとクロアチアとの3位決定戦に敗れてベスト4に終わるも、2年前に空中分解したチームとしては大健闘と言える成績だった。

 

バルセロナの新エース

98-99シーズン、ミランセリエA得点王のオリバー・ビアホフをヴィディネーゼから獲得。チームをお払い箱となったクライファートは、次なる移籍先を探すことになった。

しかし移籍交渉は紆余曲折し、移籍期限が迫った8月28日、ようやくFCバルセロナとの契約がまとまる。97年からバルサの指揮官を務めるファン ハール監督が、くすぶっていた天才ストライカーを必要としたのだ。

98-99シーズンの開幕には遅れたものの、リバウドルイス・フィーゴと絶妙の連携を見せ、10月には4試合連続ゴールを決めて得点王争いに名乗りをあげた。

バルセロナリーガ・エスパニョーラ(現ラ・リーガ)2連覇を達成。クライファートは35試合15試合の活躍で優勝に貢献した。翌99-00シーズンは3連覇を逃すも、クライファートは26試合15ゴールと引き続き好調。フィリップ・コクーデ・ブール兄弟など、オランダ人選手を集めたチームで完全復活を遂げる。

 

ユーロ2000の活躍

この好調さを維持したまま、自国開催のユーロ2000(ベルギーと共催)に出場。G/Lの第1戦はチェコに1-0の勝利。続く第2戦もクライファートの先制ゴールでデンマークに3-0と勝利する。

第3戦の相手は98年W杯チャンピオンのフランス。開始早々の8分に先制されるも、14分にクライファートが同点ゴール。このあと3-2と接戦を制して、ライカールト監督率いるオランダがG/L全勝で準々決勝に進む。

準々決勝はユーゴスラビアと対戦。24分にクライファートのゴールで先制すると、38分にもダーヴィッツからのクロスを決めて2点目。後半の52分には相手のオウンゴールを誘うシュートを放ち、54分に鋭い反応から決めてハットトリックを達成。クライファートの大活躍で6-1の大勝を収める。

このまま地元優勝に突き進むかと思えたオレンジ軍団だが、準決勝でイタリアにPK戦負けを喫して無念の敗退。38分にキャプテンのフランク・デ・ブールが、61分にもクライファートがPKを失敗してしまったのが痛かった。

02年W杯での雪辱を期すも、オランダは欧州予選でポルトガルアイルランドの後塵を拝してグループ3位。プレーオフ出場権も逃すという予想外の敗退となった。

 

キャリアの翳り

2000年にはルイス・フィーゴ、02年にはリバウドがチームを去ったが、クライファートバルセロナで得点を重ね、リーグの上位スコアラーをキープし続けた。

しかしバルセロナは98-99シーズンのリーグ優勝を最後に低迷し始め、4季連続でタイトル無冠。ファン ハール監督は解任となり、03年にライカールトが新指揮官となる。

だがライカールト監督は脱オランダ化を図り、クライファートを重用することなくサブストライカーの扱い。ロナウジーニョが加入したこともあり、先発と交代出場が交互に繰り返された。

さらに対戦相手のハードタックルを受けて膝軟骨損傷の重傷。数ヶ月の戦線離脱を余儀なくされ、03-04シーズンは21試合8ゴールと入団以来最低の成績。クライファートはチームに必要とされなくなり、シーズン終了後にプレミアのニューカッスルへ移籍金ゼロで放出される。

 

引退後は指導者へ

04年6月には、ポルトガルで開催されたユーロ大会のメンバーとして招集。しかし同い年のファン ニステルローイ(誕生日も一緒)にエースの座を奪われ、1試合も出場できなかった。

ユーロ大会後、オレンジ軍団の指揮官に就任したファン バステン監督からは招集さえされず、クライファートの代表キャリアは28歳で終わりを告げた。10年の代表歴で79試合に出場、40ゴールを記録している。

ニューカッスルでは膝の故障に苦しみ、25試合6ゴールの成績。その後スペインのバレンシア、オランダのPSVアイントホーヘン、フランスのリールと各国クラブを転々とするが、故障で満足にプレー出来ないまま08年5月に31歳で現役を引退する。

引退後は指導者の道に進み、複数のクラブでコーチを務めたあと、12年にはオランダ代表のファン ハール監督に呼ばれてコーチとして補佐。オランダが3位入賞した14年W杯・ブラジル大会にもコーチングスタッフとして参加した。

15年から16年にかけては、母親の故郷であるキュラソー島代表を指揮してW杯予選を戦う。そのあと、カメルーン代表監督に就任したセードルフのもとでアシスタントコーチを務めるが、19年7月に同監督とともに辞任。21年からは再び監督としてキュラソー島代表を率いている。