日本女子サッカーの曙
1964年東京五輪でサッカー代表チームが活躍したことにより、日本はサッカー熱に湧いていた。そのブームの中、66年には神戸で日本初の女子サッカーチームが設立される。そして70年代には各地で徐々に女子チームが増えてゆき、非公式ながら小さな地域大会も開催されるようになった。79年にはFIFAの通達を受け日本女子サッカー連盟が正式に発足し、3月には連盟認知による最初の試合が行なわれた。その時の様子を伝えるスポーツ新聞の見出しは【ピンクの掛け声】【ボインでボールキープ】というもの。その頃の女子サッカーに対する世間の認識は低く、イロモノ扱いだったのだ。80年には女子チーム日本一を決める「全日本女子サッカー選手権大会(現、皇后杯)」が新設されたが、試合は8人制の25分ハーフで行なわれ、ピッチの大きさも正規の1/3でボールも小学生用の物が使われている。翌81年、香港で開かれる女子アジアカップに参加するため日本初の女子代表チームが結成された。日本はこの大会3試合を戦って1勝2敗に終わる。得点は勝利したインドネシア戦の1点だけだったが、その得点は後に代表エースとなる当時16歳の高校生、半田悦子によるものだった。同年8月にはイングランド・イタリアといった欧米のチームと国際試合を行なうが、それぞれ0-4に0-9と大敗している。
86年、ようやく女子日本代表に専任の監督が付くことになりチームの強化が進められ、前述の半田に加え木岡二葉、本田美登里、野田朱美、手塚貴子といった選手たちが主力に育っていく。だがその頃の女子代表チームの予算は年間約50万円で、ほとんどは大会開催費に消えたため強化資金に回す余裕はなかった。
そのため監督が企業を廻り頭を下げて資金をかき集め、選手たちが遠征費を自己負担して代表の活動を行なう。その選手たちも代表に参加するに当たり、職場や学校は休暇・欠席扱いとされるなど、世間の理解はまだまだだった。
平成の時代となった89年、日本女子サッカーリーグ(JLSL)が創設され、読売ベレーザ、(鈴与)清水FC、プリマハムFCくノ一(くのいち)など6チームが参加する。これは90年のアジア大会で女子サッカーが正式種目になったのを受け、選手のレベルアップを目的に設立された全国リーグだった。
開幕戦に選ばれたのが読売ベレーザと清水FCで、記念すべき1点目を挙げたのはベレーザの高倉麻子(前なでしこジャパン監督)である。
日本は90年の北京アジア大会で銀メダルという好成績。更に91年福岡で開催されたアジアカップで準優勝を果たすと、第1回女子世界選手権(現FIFA女子ワールドカップ)の出場権を得る。
初めての女子世界選手権大会は、11月に中国の広州で幕を開けた。日本はグループリーグでブラジル、スウェーデン、アメリカと対戦するが、1点も奪うことなく3連敗。世界との差はまだまだ大きかったのだ。
91年、JLSLに4チームが新規参入し全10チームになると、にわかに女子サッカーが活性化する。特に女子サッカー部を新設したばかりの日興證券ドリームレディースは、セミプロのような環境を整えて大部由美などの有望選手を集めていた。そして初参加した全日本選手権で名門チームを打ち破り、いきなり優勝を果たして当時の関係者に衝撃を与える。
そして翌92年にも、日興證券は海外の一流選手をスカウトするなど大型補強を敢行。すると他チームも負けじと海外選手を呼び寄せ、たちまち日本に世界最高峰の女子リーグが出現した。
当時の日本企業にはまだバブル景気時代の余力があったこと、女性の社会進出を受け企業が広告塔として目を向け始めたこと、他のどの国も女子がサッカーに専念できる環境がなく世界の有力選手たちが日本に集まったこと、などの要因がこのような状況を生み出したのだ。
93年、マレーシアで開かれた女子アジア選手権を戦う日本代表に、1人の中学生が招集された。その中学生は第2試合フィリピン戦の後半にデビューを果たすと、立て続けに4得点を叩き出す。この選手こそ、ベレーザに所属する当時15歳の澤穂希だった。アジア選手権で日本は3位に終わるものの、95年にスウェーデンで開催される第2回世界選手権の出場権を得た。
94年、JLSLを発展させた形でLリーグが発足し、女子サッカーリーグは最盛期を迎える。さらに96年のアトランタ・オリンピックで、女子サッカーが正式種目として採用されることが決定。女子選手たちには大きな目標が生まれていた。
FIFA主催の女子世界選手権はまだ世間の認知度が低く、女子サッカーをもっとメジャーにするには、注目度の高いオリンピックでの活躍が不可欠だった。
オリンピックの出場権を得るには、95年の世界選手権で参加12チーム中8位以内に入ることが条件だった。ただし、国家代表ではないイングランドチームにはオリンピック出場権が与えられないため、実質11チームの争いとなった。
世界選手権グループリーグ日本の対戦相手は、ドイツ、スウェーデン、ブラジルに決まった。1勝でもすればオリンピック出場が有力となるが、欧州の強豪2カ国はとても太刀打ち出来る相手ではない。狙いは、女子の強化が遅れている南米地区のチーム、ブラジルだった。
日本は初戦のドイツに0-1と敗れるが、実力差を考えれば最悪の結果ではなかった。しかし狙いとするブラジルは、スウェーデンに1-0とまさかの勝利を収め、予想しない事態に日本は追い込まれてしまった。
翌々日雨となった第2試合のブラジル戦、不覚にも日本は前半8分に先制点を許してしまう。それでも日本は若くして主力となっていた澤が奮戦し、次第にリズムを取り戻す。そして13分、大部のクロスから野田がヘディングによる同点ゴールを決めた。
さらに日本は攻め続け、前半終了直前にも泥まみれの野田がゴールに飛び込み逆転。後半もブラジルを押さえ込んだ。こうして日本は、逆転で世界大会初勝利を挙げたのだった。
しかし続く第3試合のスウェーデンには0-2と敗れ、澤も怪我を負ってしまいチームに暗雲が立ちこめる。だが他グループの結果により日本はぎりぎり8位となり、オリンピック出場が決まった。
そして迎えた96年のアトランタ・オリンピック、男子チームは優勝候補ブラジルを破り 、グループリーグ突破はならなかったが大きな話題となる。
それに比べ女子チームは大会前こそ期待されたが、本体大会ではドイツ、スウェーデン、そして力を伸ばしたブラジルにも敗れ3戦全敗に終わる。日本女子チームの戦いはほとんど報じられることもなく、彼女たちは寂しく帰国の途につくことになった。
オリンピック終了後、半田や野田、高倉といったベテランたちが代表を退く。こうしてこの年を境に、女子サッカー熱は一気に下降線をたどっていく。
今まで順調に増えてきていた女子サッカー競技人口は96年がピークで、翌年から減少に転じていた。バブルの崩壊による不況も重なり、企業は次々にLリーグからの撤退を始めていたのだ。
あの日興證券も、親会社の不祥事や業績不振が重なり、サッカーチームを維持する余裕はなくなっていた。そして98年シーズン途中に、日興證券は突然に廃部を発表。チームはリーグ3連覇を果たしたのち、解散の憂き目に遭ってしまった。
勢いを失ったLリーグの観客は激減し、海外選手も契約を解除される。チームが減ったことで行き場を失った選手たちは、サッカーを諦めるしかなかった。
98年、第3回の世界選手権出場予選を兼ねた中国アジア選手権が行なわれる。結局この大会も3位となり、99年の第3回世界選手権アメリカ大会の出場権を得た。世代替わりをした日本代表は若いチームになっていた。新しく加わったメンバーには磯崎浩美、山郷のぞみ、宮本(旧姓・三井)ともみ・大竹奈美などがいる。
世界選手権グループリーグの対戦相手はカナダ、ロシア、ノルウェーだった。もちろん前回大会同様、8位以内には2000年のシドニー・オリンピック出場権が与えられる事になっていた。
日本は初戦のカナダ戦こそ1-1と引き分けたが、ロシアには0-5と惨敗。あとの無い状態に追い込まれてしまう。しかも最終戦の相手ノルウェーは前回大会の優勝国で、日本は絶体絶命の状態と言えた。
だがノルウェー戦の試合開始直前、早くも日本のオリンピック出場の道は絶たれてしまう。先行して行なわれた試合でロシアがカナダに勝ち、ノルウェーと共にベスト8進出を果たして日本の敗退が決定したのだ。
消化試合を戦う日本チームに土砂降りの雨が降り注ぎ、さらに選手たちのやる気を削いでしまった。若手のプレーに覇気は無く、ノルウェーにも0-4と完敗を喫してしまう。この不甲斐ない試合に苛立った澤は、珍しく若い選手に苦言を呈した。「日本の選手は試合前から気持ちで負けている。もっと個人が強くならなければいけない」
第3回世界選手権は地元アメリカが決勝PK戦の末中国を破り、大会2度目の優勝を果たす。ミア・ハムなどの名選手を揃え、アメリカチームに空前の人気が沸き起こった。
一方、シドニー・オリンピックに出場出来なかった日本女子サッカーに対する世間の関心は薄れていく。チームの運営費は削られ、競技場使用料が払えずに原っぱみたいな場所で試合をすることさえあった。
Lリーグが消滅しかねない状況に、選手たちは目標を失っていく。21歳の澤穂希は衰退していくLリーグを離れ、活躍の場を求めてアメリカへ旅立っていった。