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サッカーの歴史や人物について

《サッカー人物伝》アラン・シモンセン(デンマーク)

 

小さな巨人

165㎝60㎏足らずという小柄で華奢な身体つきながら、素晴らしいスピードとテクニックで活躍したデンマークのアタッカー。俊敏さを生かしたそのプレーは、軽快かつダイナミック。体格に勝る相手にも勇敢に立ち向かい「小さな巨人」の異名をとったのが、アラン・シモンセン( Allan Rodenkam Simonsen )だ。

 

20歳で入団したドイツのボルシア・メンヘングラッドバッハでは、名将バイスバイラー監督のもとでその才能を開花。レアル・マドリードへ移籍したギュンターネッツアーに代わり、チームの第2黄金期を支える。77年にはデンマーク人として初めてバロンドール賞に輝き、79年に移籍したバルセロナでも活躍した。

 

デンマーク代表としては、アマチュア至上主義を貫いていた当時の環境により、72年のオリンピックで才能の片鱗を見せただけだった。だがキャリアの晩年に改革が進められ、自身の出番は少なかったものの、欧州選手権やW杯での躍進は世界を驚かせることになる。

 
ボルシアMGでのブレイク

シモンセンは1952年12月15日、デンマーク南の湾港都市バイレで生まれた。6歳のときジュニアチームでサッカーを始め、63年にバイレBKに入団。19歳となった71年にトップチームデビューを果たした。バイレBKは71年、72年とデンマーク選手権を連覇、72年には国内カップとの2冠を達成している。

72年には20歳でデンマーク代表に選ばれ、7月3日のアイスランド戦でデビュー、翌72年のミュンヘン・オリンピック出場メンバーにも選ばれた。デンマークは1次リーグの初戦でブラジルと対戦。先発したシモンセンは28分に先制ゴールを挙げ、その後2-2と追いつかれるも、83分に勝ち越し弾。勝利の立役者となった。

続くイラン戦もゴールを決めて4-0の勝利に貢献。最終節でハンガリーに0-2と敗れたがグループ2位で2次リーグに進んだ。だが2次リーグに入るとシモンセンは調子を落とし無得点、最後の2試合はハーフタイムで交代させられる。デンマークも1勝1敗1分けでグループ3位に終わり、メダルには届かなかった。

それでも彼が見せた才能の片鱗は、ドイツ・ブンデスリーガの強豪ボルシアMGの目に止まることになる。そして同年の夏に、代表の同僚ヘニング・イェンセンとともにボルシアMGへ入団。シモンセンのプロとしてのキャリアが始まった。

しかし当時まだ20歳だったシモンセンの見た目は弱々しく、慧眼で知られたへネス・バイスバイラー監督を「こんな貧弱な身体では使い物にならない」と困惑させた。そのため最初の2年は出場機会に恵まれず、74年のシーズン終了まで出場は僅か17試合、2得点の成績に終わっていた。

だがその間は身体づくりに専念し、74-75シーズンにブレイクを果たす。3年目のシーズンはリーグ戦全34試合に出場し、18得点を挙げる活躍。4シーズンぶりとなるチームのブンデスリーガ優勝に大きく貢献した。またUEFAカップでも12試合で10ゴールの大活躍。トゥンテ(オランダ)との決勝でも2得点を決め、2冠達成の立役者となった。

翌シーズンも34試合に出場して16ゴールの活躍。同郷のイェンセンとコンビを組んで攻撃を仕掛け、ボルシアMGはリーグ2連覇を達成した。そして同シーズンにはチャンピオンズ・カップへ出場。準々決勝でレアル・マドリードと戦うが、惜しくもアウェーゴールの差で敗れてしまった。シモンセンは準々決勝までの6試合で、4ゴールを記録している。

その軽快な動きは大柄なDFを翻弄、巧みなボールタッチと緩急を使ったドリブルで相手陣営を切り裂き、バランスのとれたフォームから鋭いゴールを叩き込んでいった。それまで大黒柱だったネッツァーが73年にレアル・マドリードへ移籍、それに入れ替わるようにシモンセンがチームの顔となった。

僚友のイェンセンは76年にレアル・マドリードへ移るが、MGに残ったシモンセンは76-77シーズンも34試合すべてに出場し、12ゴールの好成績。チームのリーグ3連覇を支えた。そしてチャンピオンズ・カップでは決勝へ進出。同じ小柄のファイター、ケビン・キーガンを擁するリバプールと、欧州クラブ王者の座を懸けて戦った。

ボンホフのシュートがポストを直撃し、ボルシアMGが絶好のチャンスを逃したあとの28分、マクダーモットのゴールが生まれリバプールが先制。だが後半の51分にジミー・ケースのミスパスをシモンセンが奪い、同点ゴールを決めた。その5分後にもシモンセンは決定的なシュートを放つが、これはリバプールGKクレメンスの好セーブに阻まれてしまった。

64分、リバプール左コーナキックのチャンスに、トミー・スミスがニアで合わせてゴール。ボルシアMGは再びリードを許してしまう。そのあと必死の反撃を行うも、82分にキーガンがフォクツに倒されリバプールがPKを獲得。これをフィル・ニールに決められ、ボルシアMGは1-3と敗れ去ってしまった。

惜しくもチャンピオンズ・カップの優勝は逃してしまったが、シモンセンはこの年の目覚ましい活躍で、デンマーク人として初めてのバロンドールに輝く。ちなみに僅差で2位となったのは、チャンピオンズ・カップ決勝で戦ったケビン・キーガンだった。

77-78シーズンは31試合で17ゴール、チャンピオンズ・カップも得点王と変わらぬ好調さを見せたが、チームはリーグ2位で4連覇を逃し、チャンピオンズ・カップでは準決勝でまたもリバプールに敗れてしまった。78-79シーズンは28試合で11ゴール、リーグ戦は10位と苦戦を強いられるも、UEFAカップではゴールを量産して決勝へ進んだ。

決勝の相手は、ユーゴスラビアの名門レッドスター・ベオグラードツルベナ・ズベズダ)。敵地での第1レグで1-1と引き分けると、ホームでの第2レグではシモンセンが貴重な決勝点を挙げて1-0の勝利、ボルシアMGが4年ぶり2回目の優勝を果たした。シモンセンは決勝までの8試合で8ゴールと、驚異のペースで得点を記録している。

 

名門バルセロナでの活躍

79年、ボルシアMGとの契約が満了し、スペインの名門FCバルセロナへ移籍。ボルシアMGでは178試合に出場し78ゴールの記録を残した。バルサでの最初のシーズンは32試合に出場して10ゴール、チームのトップスコアラーとなった。翌80-81シーズンも33試合で10ゴール、コパ・デル・レイ(国王杯)で優勝を果たす。

81-82シーズンも33試合で11ゴールと安定した成績、同年のカップウィナーズ・カップは決勝に進む。そしてスタンダード・リエージュ(ベルギー)との決勝では、同点弾を決めて2-1の勝利に貢献、バルセロナで2つめのタイトルを手にした。

だが82年にディエゴ・マラドーナが入団。当時の外国人選手枠(同時にピッチに立てるのは2人まで)の規定により、出番を減らされたシモンセンは不満を抱き、82年10月にイングランド2部リーグのチャールトン・アスレティックFCへ電撃移籍する。

R・マドリードトッテナムなどの一流クラブからのオファーもあったが、これ以上のストレスや注目を嫌ってその申し出を断わっている。バルセロナでは98試合に出場、31ゴールを記録した。

途中加入したチャールトンでは16試合で9ゴールを挙げ、すぐにチームの中心選手として活躍。しかし資金力に乏しいチャールトンはスター選手の高額な移籍金と年俸を賄えず、シモンセンは1年で売りに出されることになってしまった。結局古巣のバイレBKが手を挙げ、彼は11年ぶりに故郷へ戻ることになる。

 

ウェンブリーの勝利

デンマークはサッカー協会創立が1889年という伝統国だったが、長い間アマチュア至上主義を貫くヨーロッパのアウトサイダーだった。アマチュアの祭典であるオリンピックでは銀メダル3回、銅メダル1回という実績を持つも、大きな国際大会では64年のネイションズカップ(のちの欧州選手権)でベスト4(準決勝まで強豪と当たらず)の成績を残したのみだった。

そんなデンマークがプロ化への模索を始めたのは70年代半ばに入ってから。外国でプレーするプロ選手の代表参加が76年にようやく認められ、国内にプロチームが誕生したのは78年(プロリーグ発足は91年)である。その間デンマークはWカップ欧州選手権で予選敗退を続け、シモンセンは全盛期の輝きを代表で見せることが出来なかった。

79年、ドイツ人のゼップ・ピオンテックがデンマークの代表監督に就任。ピオンテック監督は当時最先端の3-5-2システムを採用、戦術のオプションに加えて柔軟性に富んだチームを作り上げた。そしてシモンセンを始め、国外プロリーグで活躍するモアテン・オルセン、エルケーア・ランセン、新星ミカエル・ラウドルップなどのタレントを揃え、フランス欧州選手権の予選に臨む。

デンマークの入ったグループ3組(全5チーム)の本命はイングランド。ホームで戦った第1レグはこの強豪相手に2-2と引き分け、83年9月に敵地ウェンブリー・スタジアムで第2レグを行った。接戦となった試合は、シモンセンがPKを決めて1-0の勝利に導く。

最終的に勝点13を重ねたデンマークが、勝点12のイングランドをかわして20年ぶりの本大会出場を果たした。31歳のシモンセンはエルケーアと並ぶチーム最多の4得点、デンマークの快挙達成に貢献している。

 

デンマーク躍進の先駆け

84年6月、欧州選手権本大会に出場するも、地元フランスとの開幕戦で激しいタックルを受けて脚を骨折。試合もプラティニのゴールで0-1と敗れ、シモンセンは初の大舞台から早々と去ることになってしまった。それでもチームはユーゴスラビアとベルギーを破ってベスト4進出。準決勝ではスペインにPK戦で敗れたが、デンマークは一挙に注目される存在となった。

84年9月から始まったWカップ予選では、エルケーアが8ゴール、M・ラウドルップが4ゴールの活躍。デンマークは予選グループ1位となり、初のWカップ本大会出場を決めた。34歳のシモンセンも代表メンバーに選ばれ、86年のWカップ・メキシコ大会に出場する。

G/Lの初戦、デンマークは堅守を誇るスコットランドに1-0と勝利。続く第2戦では古豪ウルグアイをスピード溢れる攻撃で6-1と粉砕する。最終節では強豪西ドイツさえも2-0と打ち破って3連勝の快進撃、大会にセンセーションを巻き起こした。

しかし決勝Tの1回戦ではプトラゲーニョの4発に沈み、1-5と欧州選手権に続けてスペインに敗れてしまった。だがそのスペクタクルな攻撃サッカーは「ダニッシュ・ダイナマイト」と呼ばれ、世界のファンに大きな印象を残す。

シモンセンの出場は西ドイツ戦の僅か1試合20分に留まったが、デンマーク躍進の先駆けとして大きな功績を残した。このあとデンマークは92年の欧州選手権に優勝、W杯でも常連出場国となっていく。

 

故郷での引退

欧州選手権で負った怪我により84年のリーグは後半戦を棒に振るも、バイレBKはこの年のデンマーク選手権優勝を果たした。このあとシモンセンはトップコンディションを取り戻すことが出来なかったが、それでもコンスタントに得点を重ねて5シーズンをプレーする。

89年に37歳で現役を引退、83年から7シーズンを過ごしたバイレBKでは166試合に出場し70ゴール、デンマーク代表では55試合20ゴールの記録を残した。

引退後はバイレBKの監督を務めるが、在任中の91年に2部リーグへ降格してしまう。その後はフェロー諸島ルクセンブルクの代表監督となり、11年にはFCフレゼリシアのGMに就任している。