「 女子サッカーのファーストスター 」
機敏な身のこなしと巧みなボールタッチで優雅にピッチを駆け回り、高いシュートスキルでゴールを量産。またパスセンスにも秀で、多くのアシストを記録した攻撃のオールラウンドプレーヤー。その輝かしい実績と人気で「女子サッカー史上最高の選手」と言われたのが、ミア・ハム( Mia Hamm / Mariel Margaret Garciaparra )だ。
早くからストライカーとして頭角を現し、ノースカロライナ大を学生選手権4連覇に導いてその名を米サッカー界に知らしめた。アメリカ女子代表には史上最年少の15歳で選出され、4度の女子ワールドカップと3度のオリンピックに出場。世界女王2回、五輪金メダル2回、銀メダル1回と数々の栄光に輝く。
自国開催となった99年W杯ではアメリカに一大ブームを巻き起こし、マイケル・ジョーダン、タイガー・ウッズと並ぶ絶大な人気を博す。18年間の代表歴で158ゴール148アシストの記録を残し、5年連続で米国女子サッカー最優秀選手に選出。FIFA年間最優秀選手賞に設けられた女子部門では初代受賞者に選ばれた。
稀代のサッカー少女
ミア・ハムことマリエル・マーガレット・ハムは、1972年3月17日にアラバマ州のセルマで4人姉妹の末っ子として生まれた。父ビルはアメリカ空軍のパイロット、母ステファニーは有名なバレリーナだった。
内反足(両足首が内側へ極端に反る先天性障害)で生まれたため幼児期は矯正靴を履いて過ごし、母ステファニーはそんな娘を「引っ込み思案のプリマドンナ」と呼んで慈しみ育てた。愛称の “ミア” は、伝説のバレリーナ “ミア・スラヴェンスカ” にあやかったもので、その後「ミア・ハム」が彼女の通称となった。
父親の軍務により、幼少時代は米軍基地がある世界各国の土地を家族とともに転々と移住。イタリアのフィレンツェで初めてサッカーに触れ、5歳で移り住んだテキサス州のウィチタフォールズでフットボールクラブに加入する。
彼女をサッカーに熱中させたのは、3歳上の兄ギャレットの手ほどきによるもの。ギャレットは家族がアメリカに戻ったとき養子として迎えた男の子で、ミアはスポーツ万能の兄に大きな影響を受けて成長した。
ジュニア・ハイスクール時代は、男子に混じってプレーしながらも秀でた才能で活躍。ノートルダム・カトリック・ハイスクールでさらにストライカーとしての名を高め、87年に史上最年少の15歳で米国代表に選出された。
89年にスポーツの名門校、ノースカロライナ大学チャペルヒル校へ進学。「タールヒールズ」と呼ばれる女子サッカークラブに加わり、NCAA(全米体育協会)の学生選手権優勝に貢献する。
93年にはニューヨーク州で開催されたユニバーシアード大会に出場。中国に敗れて銀メダルに終わったが、6ゴールを挙げたミアは大会得点女王となる。
「タールヒールズ」は学生選手権4連覇を達成し、最大の功労者となったミアはオールアメリカン(全米学生アスリート賞)選出、ACC(東部カレッジ連盟スポーツリーグ)最優秀選手賞3回など数々のタイトルに輝き、米サッカー界に知られるアスリートとなった。
初めてのワールドカップ
米国代表ではFWとして起用されながらも、なかなか得点を挙げられずにいたが、90年に17試合目の出場で初ゴールを記録。91年11月には第1回目となるFIFA女子ワールドカップ(当時FIFA女子世界選手権)が中国で開催され、ミアは19歳のチーム最年少で大会に参加した。
G/Lはスウェーデン、ブラジル、日本を相手に3連勝を収めて1位突破。ミアはスウェーデン戦とブラジル戦でゴールを挙げて勝利に貢献する。
準決勝は台湾を7-0と圧倒的大差で下し、準決勝はドイツに5-2の勝利。決勝でノルウェーを2-1と破り、米国が6戦全勝で初代世界女王に輝いた。
米国は「三刃の剣」の異名をとるジェニングス、エイカーズ・スタール、ハインリッヒスの3トップが大爆発。6ゴール3アシストのE・スタールが大会MVPに選ばれ、10ゴールを記録したジェニングスが大会得点女王を獲得。4ゴール2アシストのハインリッヒスもキャプテンとしてチームを牽引した。
チーム最年少のミアも、6試合中5試合に中盤で起用されて優勝に貢献。次世代エースとしての名乗りを挙げる。
94年には数々の業績を残したノースカロライナ大学を卒業。ACCでプレーした5年間で103ゴール73アシストの記録を残した。その顕著な活躍で、在学中は同大OBのバスケットボールスターにちなみ「ジョーダン」のニックネームで呼ばれていた。
卒業後は、大学時代の恋人でアメリカ海兵隊のヘリ操縦士であったクリスチアン・コーリーと結婚。95年6月には、2度目となる女子Wカップ・スウェーデン大会に出場する。
G/Lは、初戦の中国戦で3-3と引き分けたあと、デンマークとオーストラリアに連勝して1位突破。準々決勝では日本を4-0と難なく退け、準決勝に進んだ。
しかし準決勝ではノルウェーに0-1と敗れて惜しくも敗退。3位決定戦ではミアのゴールなどで中国を2-0と下し、ベスト3を確保した。
アトランタ五輪、金メダルの激闘
96年のアトランタ五輪では女子のサッカー競技が初めて採用され、ミアは主力選手として晴れ舞台に臨んだ。G/L初戦のデンマーク戦は1ゴール1アシストの活躍、3-0の快勝に貢献する。
続くスウェーデン戦も2-1の勝利を収めるが、GKと衝突したミアが足首を痛めて85分に退場。第3戦は欠場を余儀なくされ中国に0-0と引き分け、ホスト米国はグループ2位でベスト4に進んだ。
ミアの足首の状態は思わしくなかったが、無理を押して準決勝のノルウェー戦に出場。彼女の奮闘する姿はチームメイトを鼓舞し、宿敵ノルウェーを延長戦の末3-2と撃破した。
決勝はG/Lで引き分けた中国との戦い。会場となったジョージア州のサンフォード・スタジアムには8万人近い観客が集まり、女子スポーツイベントにおいて当時史上最多の動員記録となった。ミアは直前の練習でも鼠径部を痛め、足に不安を抱えながらも強行出場する。
開始19分、ミアのシュートの跳ね返りをマクミランが押し込んでアメリカが先制。しかし32分に追いつかれてハーフタイムを折り返す。
当初は前半だけの出場予定だったが、チームメイトの「ミア、私たちにはあなたが必要よ」の声に奮起、後半もピッチに立ち続けた。そして68分、ミアのスルーパスからフォーセットがDFラインを突破。その折り返しをミルブレッドが決め2-1と勝ち越した。
試合終了直前、ついに足の痛みが限界を越えたミアは、2人のトレーナーに支えられピッチを退場。金メダル獲得の喜びをベンチで味わう。
精神的支柱としてチームを引っ張ったミアのひたむきさと、逆境にもくじけない芯の強さは全米国民のハートを鷲づかみ。ルックスの良さもあって彼女の人気は爆発し、ナイキ、ゲータレード、ナビスコ、ペプシコーラなど、有名企業からのスポンサー契約申し込みが殺到した。
女子スポーツ界最高のイベント
98年、26歳のミアは代表21試合に出場して20ゴール20アシストの驚異的記録を達成。9月に行なわれたロシアとの親善試合では通算100ゴールの金字塔を打ち立て、5年連続のサッカー女子最優秀選手およびESPY賞の最優秀女性アスリートに選ばれるなど、そのキャリアはピークに達した。
99年5月、自国開催となる女子Wカップに満を持して出場。アメリカはG/L初戦でデンマークを3-0と退け、第2戦でナイジェリアと対戦。不覚にも開始2分に先制を許すが、19分にミアのFKが相手オウンゴールを誘い同点。その1分後にもミアのFKが決まり逆転する。このあともミアのアシストなどで前半を7-1の大量リード、後半の57分にお役御免となった。
主力を温存した最終節は北朝鮮を難なく下し3連勝。準々決勝ではドイツとの激戦を3-2と制し、準決勝ではミアの得たPKなどでブラジルに2-0の勝利。アメリカは2大会ぶりの決勝に進出した。
決勝の相手は好敵手の中国。会場となったロサンゼルスのローズボールには、アテネ五輪決勝を上回る9万人の観客が集まった。互角の戦いとなった決勝は延長120分を終わって0-0、優勝の行方はPK戦に託される。
先攻の中国は3人目が止められたのに対し、後攻のアメリカは4人目のミアまで全員が成功。そして最後にブランディ・チャスティンが優勝のPKを決め、ユニフォームを脱いで歓喜の雄叫び。そのシーンは多くの媒体に取り上げられ有名となった。
アメリカサッカーのアイコン
W杯決勝戦は女子スポーツ史上最高となるテレビ視聴率を稼ぎ、ミアのリーダーシップとパフォーマンスはサッカーアイコンとしての地位を確立させた。そして優勝後は祝賀イベントの参加やホワイトハウスへの招待、CM出演依頼など忙しい日々を送る。
女性アスリートの象徴となったミアの存在は、少女たちの関心をスポーツに向かわせ、スポンサー契約を結ぶナイキ社はその功績を、NBAのマイケル・ジョーダン、PGAのタイガー・ウッズに並ぶものと称賛。ナイキ本部の敷地にある最大の建物には「ミア・ハム・ビル」の名前が付けられた。
同じ年には、血液の病気に苦しむ患者・家族を支援し、骨髄バンクの啓蒙を図る「ミア・ハム財団」を設立。2年前に敬愛する兄ギャレットを再生不良性貧血の合併症で亡くしたことが、設立の動機となった。またこの財団を通し、若い女性にスポーツの機会を与える活動も始めている。
2000年9月にはシドニーオリンピックに出場。アメリカは2大会連続の決勝へ進むが、ライバルのノルウェーに延長戦負けを喫し銀メダル。ミアは準決勝のブラジル戦で挙げたゴールで、男女を通じての代表最多得点(127点)を更新した。
01年にはアメリカ女子サッカーリーグ(WUSA)が創立。ワシントン・フリーダムに入団したミアはリーグの顔として様々なプロモーションに参加するが、9.11テロの沈滞ムードもあり客足は伸びず、澤穂希もプレーしたWUSAはわずか3年で休止となった。
この期間、膝の故障の影響で思うようなプレーができなかったが、FIFA年間最優秀選手に新設された女子部門では、それまでの功績により初代受賞者へ選出。翌02年も連続で選ばれている。
03年9月には、再び自国開催となった女子W杯に出場。当初は中国開催が決まっていたが、アジアでSARSウィルスが流行したため、アメリカが代替開催することになった。
新鋭アビー・ワンバックを加えた地元アメリカは順調に勝ち進むも、準決勝でドイツに0-3と完敗して大会連覇はならなかった。ミアは2ゴール4アシストの成績を残し、「ラスト」と宣言した4度目のW杯を終えている。
輝けるキャリアの終わり
04年8月にはアテネオリンピックに出場。ミアは大会前に同年限りでの引退を表明していた。G/Lの初戦は1ゴール1アシストの活躍でギリシャに3-0と快勝。続くブラジル戦もミアのPKとワンバックのゴールで2-0と勝利する。
主力を温存した最終節はオーストラリアと1-1の引き分け。1位で勝ち抜けたアメリカは準々決勝で日本を2-1と下し、準決勝で強敵ドイツと戦った。
試合は前半にアメリカが先制するが、後半ロスタイムに追いつかれて延長戦へ突入する。その99分、ミアのアシストからオライリーが決勝点。アメリカは3大会連続の決勝へ進んだ。
決勝はブラジルと延長を戦った末、112分にワンバックの勝ち越しゴールで2-1の決着。終了を告げる笛が吹かれ2度目の金メダルが決まった瞬間、チームメイトはミアに群がり、彼女の最後の勝利を祝った。そして五輪閉会式ではアメリカ選手団の旗手を任され、有終の美を飾る。
このあとミアの「お別れツアー」が行なわれ、12月8日のメキシコ戦を最後に32歳で現役を引退。18年間の代表歴で276試合に出場、158ゴール142アシストの記録を残した。当時歴代1位だった通算ゴールはワンバックに抜かれる(184ゴール)が、142アシストは現在もダントツの最多記録である。
ミアのセカンドライフ
94年に結婚したクリスチアンとの生活は互いの仕事の関係ですれ違いが続き、01年に離婚。03年に以前スポーツイベントで知り合ったMLBボストン・レッドソックスの名遊撃手、ノーマ・ガルシアパーラと再婚する。
07年3月には双子の娘、グレース・イザベラとエヴァ・キャロラインを出産。12年1月には3人目の子供となる息子が誕生し、ギャレット・アンソニーと命名された。
13年には女性として初めて、国際サッカー殿堂のメンバー入り。現在は南カルフォルニアに居を構え、夫とともに子供を育てながら女性の社会的地位向上に尽力している。
サッカーの活動ではMLS(北米リーグ)ロサンゼルスFCの共同オーナーとFCバルセロナのグローバル・アンバサダーを務め、14年10月にはASローマの取締役に任命された。