「日本最強ストライカー」
大型で強靱な肉体を誇り、右45度からのシュートは正確無比。高さとジャンプ力を生かしたヘディングも一級品で、ヨーロッパでも通用しただろうと言われた日本最強のストライカーが、釜本邦茂だ。
大学時代に日本代表へ選ばれ東京オリンピックに出場。4年後のメキシコ・オリンピックでは7ゴールを稼いで大会得点王の活躍、銅メダル獲得の立役者となった。日本リーグでは17年間で7回の得点王に輝き、弱小だったヤンマーディーゼルを強豪チームに導く活躍で、リーグ優勝4回、天皇杯優勝3回に大きく貢献した。
日本リーグは通算251試合に出場して202得点、日本代表では240試合で157得点(Aマッチ、76試合75得点)と驚異的な得点力を誇った釜本。アマチュア選手でありながら、プロフェッショナリズムを貫いた競技人生だった。
1944年4月15日、釜本邦茂は5人兄弟の4番目として京都の太秦に生まれた。剣道三段の父親は三菱造船に働くサラリーマン、母親は女学校時代に鳴らした元陸上選手だった。阪神ファンだった釜本少年は野球に熱中していたが、足の速さに目をつけた教師の「サッカーなら世界が目指せる」の言葉で、中学に進むとサッカー部に入った。
最初は練習もサボりがちだった釜本だが、そのうちゴールの喜びに目覚めてサッカーにのめり込むようになる。そして京都の強豪校、山城高校に入学。中学校で18㎝身長が伸び、筋力の鍛錬も行っていた釜本は、GKを至近距離のシュートで骨折させるほどの破壊力を身につける。
61年、2年生となった釜本はユース日本代表に選出。そのとき出会ったのが、3年後の東京五輪に向けて指導を行なっていた、西ドイツ人コーチのデットマール・クラマーだった。クラマーは模範演技の相手役として釜本を引っ張り出すと、彼のもっさりした動きを「北海道のクマ」とこきおろした。だがその情け容赦ない言葉は、釜本への大きな期待の裏返しだった。
クラマーは当時まだ基本技術や戦術理解が未熟だった日本選手に基礎を叩き込み、徹底的に鍛え上げる。若い釜本はそれらの教えをスポンジのように吸収し、また彼からプロフェッショナルのなんたるかも学ぶことになる。
63年、早稲田大学に進学。サッカー部では、高校時代に全国選手権の決勝で戦った広島修道の森孝慈とチームメイトになる。9月15日の関東大学リーグ、第1戦の日大戦でデビュー。新人釜本はさっそく前後半に2点づつを記録し、計4ゴールの大活躍を見せる。
この年早稲田は7戦全勝で関東大学リーグを制覇、11ゴールを挙げた釜本は1年生で得点王となった。そして翌年1月の天皇杯でも、社会人チームの日立製作所を破って日本一に輝く。毎日100本のシュート練習を課すなど鍛練を重ねた釜本は、右45度の位置なら目をつぶってもゴールを決められるようになっていた。
64年1月、オリンピック代表となる選手選考が始まり、大学生の中では釜本と1歳年上の杉山隆一(明治大学)の二人が40人の候補の中に選ばれた。2月の東南アジア遠征では5試合に出場し3得点、代表への定着を果たす。最年少の釜本は早稲田の先輩、八重樫茂生に目をかけられ、代表選手としての心構えを身につけていった。
代表選考に残った釜本は7月の欧州遠征に参加、12試合の全てでCFとして出場する。帰国直後の9月12日に19人の五輪代表選手が発表、釜本も20歳の最年少でメンバー入りとなった。そして10月に東京オリンピックが開幕、G/Lで日本が初戦を戦うのはイタリアだった。しかしイタリアは5人のプロ(インテルのマッツォーラ、ファケッティら)の存在が大会規定に引っかかり、棄権を余儀なくされる。
結局、日本が最初に対戦することになったのはアルゼンチン。試合は日本が1-2とリードされた後半36分、左サイドで杉山からのパスを受けた釜本がクロス。それを川淵三郎がダイビングヘッドで決めて同点とした。その1分後、杉山が上げたクロス川淵がスライディングシュート。弾かれたところを小城得達が押し込んで逆転をする。
こうして強豪アルゼンチン相手に金星を収めた日本だが、続くガーナ戦は1-1の引き分け。準決勝のチェコスロバキア戦では0-4の完敗を喫してしまった。このあと大阪で敗者を集めた順位決定トーナメントが行われ、釜本はユーゴスラビア戦でようやく1点を決める。
しかし試合は1-6で日本の惨敗。ちなみにユーゴの6点のうち2点は、のちに日本代表監督となるイビチャ・オシムによるものである。大会を通じて1得点2アシストを記録した釜本だが、その内容はとても満足できるようなものではなかった。日本チームで一番名を上げたのは、その快足で「20万ドルの足」と呼ばれるようになった杉山隆一だった。
65年にクラマーの提言による初の全国リーグ、「日本サッカーリーグ(JSL )」が発足。日本サッカーは純粋なアマチュア主義から脱却し、選手が仕事より競技に時間を割く “企業アマ” の時代へと徐々に移っていく。
強化を進める日本は毎年のように海外遠征に出かけるようになり、まだ大学生だった釜本も代表チームとともに海を渡った。そして66年には西ドイツへの遠征の途中に英国に寄り、Wカップ・イングランド大会を観戦する。
この大会で釜本の目を釘付けにしたのは「黒豹」と呼ばれたエウゼビオの低く重いシュートだった。エウゼビオのフォームを目に焼き付けた釜本は、帰国すると自分で研究と練習を重ね、抑えの効いた強烈なシュートのコツを会得する。
66年のアジア大会では、7試合で6得点を挙げる活躍で3位入賞に貢献。大学での最後の年もチームを関東リーグ優勝、大学選手権優勝、天皇杯優勝に導き、釜本は押しも押されぬ日本のエースへと成長する。
大学卒業後は、関西サッカー界の強い働きかけでヤンマーディーゼルに入社。日本リーグ(8チーム)唯一の関西勢ヤンマーは弱小チームだったが、釜本入部後には会社が補強を進め、ブラジルから日系選手のネルソン吉村を呼ぶなど戦力を充実させていく。
メキシコへの道
67年秋、参加6ヶ国による東京集中開催のメキシコ五輪・アジア予選が始まる。日本は初戦で釜本が6ゴール、宮本輝紀が4ゴールを記録してフィリピンに15-0と大勝した。続く台湾戦も釜本のハットトリックで4-0、レバノン戦は釜本と森孝慈らの得点で3-1と勝利する。
そして第4戦目は最大のライバル、韓国との直接対決。前半は宮本と杉山のゴールでリードした日本だが、後半に追いつかれて2-2の同点となる。70分には釜本が決めて勝ち越すが、すぐに韓国に返され試合は3-3の引き分けで終わった。
それでも日本は初戦の大量得点が効いて、得失点差で韓国を引き離して有利な状況となる。最終のフィリピン戦で大量得点が必要となった韓国は「18点を取る」と公言。その言葉に奮起したフィリピンは、FW1人を残して全員が引いて守るという超守備的布陣。韓国は50本ものシュートを打ちながら5点しか奪えなかった。
日本は最終戦でプレッシャーに苦しむが、杉山がゴールを決め南ベトナムに1-0と勝利。メキシコシティー・オリンピックへの出場が決まった。
西ドイツへの留学
翌68年1月、釜本はヤンマーとサッカー協会の計らいで、西ドイツでの2ヶ月の留学を経験する。名コーチ、デアバルの指導を受けサッカー漬けの毎日を送った釜本。2ヶ月後には、一段と磨きのかかったプレーを身につけ帰国する。
68年の日本リーグ開幕戦、右から流れたボールに寄った釜本は素早い反転で右足を一閃。電光石火のミドルゴールを叩き込む。かつてクラマーから言われた「北海道のクマ」の鈍重な姿は、もはやどこにもなかった。
3月にはメキシコとオーストラリアに遠征。メキシコ五輪代表には0-4の完敗を喫してしまったが、高地での試合を経験できたのは大きな成果だった。オーストラリアに転戦すると釜本が大爆発、日本3試合計6得点のうち4点を記録する。その全てが「ジョージ・ベストに匹敵する」と現地で記事にされた素晴らしいゴールだった。
5月には国立競技場で行われた親善試合アーセナル戦で、「生涯最高」と振り返る会心のダイビングヘッド。そのゴールを見たクラマーから「釜本はアマチュアながらプロの力を備えた男。スポーツ選手の理想像だ」と賞賛される。こうして釜本は心身とも万全の状態で、秋のオリンピック本番を迎えることになった。
メキシコシティー・オリンピックの快挙
66年10月、メキシコシティー・オリンピックが開幕。釜本はG/L初戦のナイジェリア戦でいきなりハットトリックを決めた。第2戦は強敵ブラジルに1点リードされるが、終盤の88分に釜本が空中戦で競り勝ち、そこから渡辺正の同点ゴールが生まれる。
G/Lの最終戦は、首位スペインと2位日本の試合。1位で勝ちあがると準々決勝で地元メキシコと対戦することになっていたため、互いに勝ちを譲り合うという奇妙な試合となった。スペインがドリブルコースを空ければ、釜本はわざとシュートミス。そんな展開が続いたゲームはスコアレス・ドローとなり、日本は思惑通り2位での通過となった。
アステカ・スタジアムで行われた準々決勝は、フランスとの対戦。開始26分、ドリブルで持ち込んだ釜本がGK一瞬の隙を見逃さずシュート、先制点を決めた。しかし30分に同点とされ後半に入った59分、左サイドを突破した杉山が中央の釜本へクロス。胸トラップからのダイレクトシュートで、鮮やかな勝ち越し弾を叩き込んだ。
そして70分には左からのクロスを釜本が頭で落とし、そこから追加点が生まれて日本が3-1と勝利する。まさに今大会日本のベストゲームとなる快勝だった。しかし準決勝では東欧の雄、ハンガリーに0-5と惨敗する。ステートアマの強豪に、純粋なアマチュアチームである日本は手も足も出なかったのだ。
それでもクラマーに「金もいいが、銅もいいぞ」と励まされた選手は気持ちを切り替え、3位決定戦に臨んだ。銅メダルを争う相手は、会場を埋める10万5千人の声援を受けた地元メキシコ。日本は完全アウェーの戦いとなった。
試合は立ち上がりからメキシコペースとなるが、17分に日本のカウンターが発動。杉山とのコンビネーションで釜本が先制ゴールを決める。39分にも杉山のパスを受けた釜本がミドルシュート、追加点を叩き出した。後半開始直後に日本はPKを取られるが、ここはGK横山謙三の好セーブでピンチを防ぐ。
自国チームに声援を送っていた観衆も、メキシコの不甲斐なさに呆れて「ハポン、ハポン」と日本に声援を送りだす始末。こうして日本は2点のリードを守り切り、サッカーではアジア初となる銅メダル獲得の快挙を達成する。日本9得点のうち7得点を叩き出した釜本は、大会得点王に輝いた。
絶頂期の厄災
翌69年の秋には、Wカップ・メキシコ大会のアジア予選が行われることになっていた。オリンピック銅メダル組がピークを迎える日本は、いまやアジア最強。これまで別世界の出来事だったWカップ出場が、現実味を帯び始めていた。
しかし代表が合宿を行っていた6月、釜本は突然の腹痛に襲われる。診断の結果は「ウィルス性肝炎」。釜本はすぐに強制入院となり、チームからも離脱することになった。
絶対的エースを失った日本代表は急失速。10月の予選で最下位となり、初のWカップ出場は叶わなかった。このあと世代交代に失敗した日本は、「冬の時代」と呼ばれる長い低迷期に突入する。
結局この病気の影響で、釜本の肉体が全盛期の輝きを取り戻すことはなかった。25歳から28歳という選手の絶頂期にコンディションを落としてしてしまい、海外挑戦の夢も諦めざるを得なかったのだ。
しかし肉体的パフォーマンスは衰えても、プレー自体は円熟味を増していった釜本。74年から3年連続でリーグ得点王となり、アシスト王にも輝いた。日本がモスクワ五輪ボイコットを決めた79年に33歳で代表を引退、その後も現役選手として長くプレーを続けている。
ヤンマーでは78年に監督を兼任、36歳の釜本は18試合に出場して10得点、チームを優勝に導く。この年の12月にはチャリティー・マッチの世界選抜に選ばれ、クライフ、プラティニ、ルンメニゲ、ボンホフ、そしてハリルホジッチ(のち日本代表監督)などのスター選手と一緒にプレーしている。
84年の元旦に行われた天皇杯決勝を最後に、39歳で現役を引退。ヤンマーでプレーした17年間で、リーグ優勝4回、天皇杯優勝3回、得点王7回、アシスト王3回、ベストイレブン14回、年間最優秀選手賞7回と、他の追随を許さない実績を残した。
8月にはアマチュアとして異例となる釜本の引退試合が行われ、超満員となった国立競技場に王様ペレと西ドイツのオベラートが駆けつけて、選手生活の最後を飾っている。