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サッカーの歴史や人物について

《サッカー人物伝》奥寺康彦(日本)

 

「日本人プロ第一号」

 

1968年のメキシコシティー・オリンピックで日本が銅メダルを獲得すると、その立役者となった釜本邦茂杉山隆一には海外からのオファーが殺到したという。しかし当時日本にサッカーブームが起こった中で、スター選手が海外リーグへ流出してしまうなど許される時代ではなかった。

 

それから約10年がたち、日本サッカー界は「冬の時代」と言われる長い低迷期を迎えていた。そんな閉塞の時代に欧州へ渡り、当時世界最高峰と言われたブンデスリーガで一線級の活躍を見せたのが、「日本人プロ第一号」選手となった奥寺康彦である。

 

奥寺はブンデスリーガに在籍した9シーズンで234試合に出場、26ゴールを記録。精度の高いパスとシュートや、戦術に即した正確なプレーで「東洋のコンピューター」と呼ばれ、猛者の揃う西ドイツでもその存在感を見せた。そして一つのクラブで2つしかない外国人枠の厳しい競争を生き抜き、34歳までレギュラーとして活躍し続けたのである。

 
日本代表 次代のエース

奥寺康彦は1952年(昭和27年)3月12日、秋田県鹿角市に生まれた。小学生の時に神奈川県横浜市へ引っ越し、中学に入った12歳で本格的にサッカーを始める。そして70年に県内の高校を卒業すると、中学時代のコーチのつてで古河電気工業サッカー部へ入部することになった。

奥寺のスピードに乗った突破と強力な左足シュートは期待を集め、ユース代表チームで活躍。そのあと古河電工が留学生制度を導入したことにより、76年にブラジルの名門パルメイラスの練習に2ヶ月間参加。ここで本場のサッカーに触れることになる。

短期間ではあったが、奥寺はこのブラジル留学で急成長。日本へ戻ると、古河電工の主力として初の日本リーグ制覇と、12年ぶりとなる天皇杯優勝の2冠達成に貢献した。そして日本代表でもムルデカ国際トーナメント大会のメンバーに選ばれ、7ゴールを決める働きで得点王を獲得。チームを準優勝へ導いた。

しかし翌77年のWカップ予選では、イスラエルと韓国を相手に1分け3敗の成績で敗退。長年エースの座に君臨した33歳の釜本邦茂も代表からの引退を表明し、若手の底上げが日本の課題となっていた。

バイスバイラーとの出会い

代表の二宮寛 監督は、20人の若手を引き連れ欧州遠征を敢行。彼らをグループ分けし、それぞれ別々のクラブで練習させた。そして特に期待されるメンバーは、名将ヘネス・バイスバイラーが指揮する、ブンデスリーガ・1.FC(エルステー・エフツェー)ケルンのプレシーズンキャンプへ送り込まれることになった。

バイスバイラーはそれまで地方の無名チームに過ぎなかったボルシア・メンヘングラードバッハを、優勝争いの常連に押し上げた欧州屈指の名監督。また、ギュンターネッツアー、ユップ・ハインケス、ライナー・ボンホフ、アラン・シモンセンベルティ・フォクツなど、選手を育てる手腕も超一級だった。

バイスバイラーと二宮は以前より昵懇の中。二宮の日本を強くしたいという思いに、バイスバイラーも「いつでも協力を惜しまない」と応えてくれたのだ。

1FCケルンのキャンプに参加したのは、奥寺と西野朗金田喜稔ら5人の有望選手。そしてある日、奥寺だけがトップチームの紅白戦で左ウィングのポジションに入ることになった。実は奥寺のケルン入団テストとして行われた紅白戦だったのだが、それを知らない奥寺は伸び伸びとプレー、周りのレベルに劣らない高い能力を見せた。

日本へ帰国する直前、バイスバイラー監督に呼ばれた奥寺。「正式にケルンの戦力として、君が欲しい」と監督から直々のオファーを受ける。頭が真っ白になった奥寺は答えを保留。帰国後に古河の監督やコーチ、チームメイト、協会関係者、そして家族にと相談を重ねる。

周囲は前向きな意見が多かったが、未知の世界に飛び込む不安から奥寺は悩みに悩み、結局二宮を通してバイスバイラーに断りの電話を入れる。するとバイスバイラーは「どうしてだ?」と声を張り上げ、奥寺を説得にかかった。

「こんないいチャンスはないじゃないか。お前は絶対に通用する、俺の目に狂いはない」とバイスバイラーの強い言葉に、心を動かされる奥寺。こうして日本の若者はついに、西ドイツへの挑戦を決断したのだった。

ドイツでの活躍

ブンデスリーガの一員となった奥寺は、77年10月22日のデュイスブルグ戦で先発デビュー。12月3日のザンクトパウリ戦では、専門誌「キッカー」のベスト11に選出される活躍を見せた。そして12月20日DFBポカール(ドイツカップ)準々決勝で、シュバルツバイス・エッセンを相手に2ゴールを記録。着実にレギュラーの座を固めていく。

待望のブンデスリーガ初ゴールは、翌78年4月8日のカイザースラウテルン戦で生まれた。右からのCKをニアで頭で合わせ、陽気なチームメイトの祝福を受ける。そして奥寺は、リーグ戦残り3試合で4ゴールを挙げる活躍。特に最終戦ザンクトパウリ戦で見せたダイビングヘッドは、「最高のヘディングゴール」と賞賛された。

ケルンは強敵ボルシアMGを振り切って、14シーズンぶりのリーグ制覇を果たす。さらにもDFBポカール優勝、奥寺はケルンの2冠獲得に貢献したメンバーとして最初のシーズンを飾った。

そして翌78-79シーズン、ケルンはUEFAチャンピオンズカップに出場し、チームは順調に勝ち進んだ。そして準決勝ではイングランドノッティンガム・フォレストと対戦。第1レグの試合でリードされてしまったケルンだが、途中出場の奥寺が起死回生の同点弾。劣勢から引き分けに持ち込む。結局第2レグの結果でケルンは敗退してしまうが、奥寺はこの大舞台でも臆さずプレーした。

この時チームメートととしてプレーしたのが、当時まだ18歳のピエール・リトバルスキー。この縁により15年後には、Jリーグジェフ市原で再会することになる、

ケルン入団の3年目、バイスバイラーが北米サッカーリーグのニューヨーク・コスモスに引き抜かれると、クラブは外国籍の選手を2人獲得して奥寺の出番は激減した。すると奥寺は、自分に興味を示してきた2部リーグのヘルタ・ベルリンと直接交渉。シーズン途中のレンタル移籍を決めた。

1部昇格を目指すヘルタは、リーグ戦の終盤で昇格争いのライバル、ヴェルダー・ブレーメンと対戦。試合は1-2でヘルタが敗れてしまうが、この1点を挙げたのは奥寺だった。結局ヘルタは1部昇格を逃すことになるが、対戦したブレーメンオットー・レーハーゲル監督から奥寺はその能力を評価されることになる。

 
ブンデス最後のシーズン

翌81-82シーズン、奥寺はレーハーゲル監督に請われ、1部昇格を果たしたブレーメンへ移籍する。レーハーゲルは、後にギリシャ代表監督として同国をユーロ04初優勝に導くことになる名将である。

ブレーメンでも左ウィングを務める奥寺だったが、周囲と呼吸が合わず、監督の考えでハーフの位置(ボランチ)に下がることになった。

このポジション変更は的中し、守備への意識と戦術理解力の高い奥寺のプレーが、チームのスタイルにハマっていった。ついにはウィングバック(サイドバック)の位置まで下がり、攻守にわたって獅子奮迅の働きを見せるようになった奥寺へ、レーハーゲル監督は「オクが1人いれば、3人分くらいの働きをしてくれる」と称賛の言葉を贈った。

昇格以来の4シーズン、ブンデスリーガで常に好成績を残していたブレーメン。サポーターの優勝への期待は高まっていた。30代半ばに差し掛かった奥寺は、チームからの慰留を断り85-86シーズンでの退団を決意、リーグ優勝を置き土産にしての帰国を望んだ。その願い通りチームは開幕から勝ち点を重ね、リーグ戦終盤まで首位をキープする。

そして残り2試合、ブレーメンは2差で追う2位のバイエルン・ミュンヘンとホームで対戦する。勝てば優勝のブレーメンだったが、両チーム無得点のまま90分が過ぎようとしていた。だが終了の2分前、ブレーメンがPKを獲得、サポーターの誰もが優勝が決まったと確信した。

しかし、それまでPKを外したことのなかったクツォップスが失敗、試合は引き分けとなり、ブレーメンの優勝は最終戦に持ち込まれた。それでも最終戦で引き分ければ優勝という有利な状況だったが、ブレーメンクリンスマン擁するシュツットガルトに1-2の敗戦。奥寺の9シーズンに渡る西ドイツでのプロ生活は、ほろ苦い結末で終わった。

海外挑戦の先駆け

86年に日本へ帰国した奥寺は、古巣の古河電工に復帰。日産の木村和司とともに、国内初のスペシャル・ライセンス・プレイヤー(プロ契約選手)となった。87年には代表にも返り咲き、ソウル五輪アジア最終予選を戦う。88年に現役を引退。日本代表では43試合に出場し、3ゴールを記録している。

奥寺がケルンでプロ契約を結んだ5年後の82年には、尾崎加寿夫ブンデスリーガに挑戦、84年にも風間八宏ブンデスリーガを目指して西ドイツに渡っている。そして86年には三浦知良がブラジルのサントスFCとプロ契約、奥寺は海外で活躍する日本人選手の先駆けとなった。

引退後はサッカー解説者として活動する一方、サッカースクールを開校してジュニアの指導に当たった。古巣の古河電工Jリーグへの参入を決めると、「ジェフ市原」となったクラブのゼネラルマネージャーに就任。96年には監督を務めたが、成績不振により1年で解任となった。

99年には、マリノスに吸収合併された横浜フリューゲルスの有志サポーターで結成された「横浜フリエスポーツクラブ横浜FC)」のゼネラルマネージャーに就任。日本で引退したリトバルスキーを監督に据えた。

そのあとクラブの社長、会長、スポーツダイレクターなどを歴任して、22年1月31日に勇退。現在は横浜FCのシニアアドバイザーとして、クラブの発展強化に協力している。