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サッカーの歴史や人物について

ワールドカップの歴史 第5回スイス大会(1954年)

マジック・マジャールの敗北」

 

 
戦後復興期の大会

1946年、戦後初のFIFA総会でブラジルが第4回のワールドカップ開催国となることが決まり、同時に第5回大会の開催地としてスイスが満場一致で選ばれた。

 

小国であるスイスがワールドカップの開催地に選ばれた理由は、中立国だったため戦争の被害が少なかったこと。そして54年がFIFA創設50周年にあたり、首都チューリッヒFIFA本部が置かれているスイスが開催地に相応しいとされたからだった。

 

こうして第5回大会には37ヶ国が参加し、出場枠を与えられたスイスとウルグアイを除いて世界各地で予選が行われた。ヨーロッパ予選ではソ連が参加しなかったものの、ハンガリーなど東欧4ヶ国がエントリー。資格を停止されていたドイツも東西分裂後FIFAに復帰し、西ドイツが予選に参加した。

 

欧州予選の結果本大会出場を果たしたのは、西ドイツ、フランス、イタリア、イングランドスコットランド、トルコ、ベルギー、ユーゴスラビアハンガリーオーストリアチェコスロバキア。前回、予選を突破していながら本大会を辞退したトルコとスコットランドは、ワールドカップ初出場となった。

 

南米ではアルゼンチンが国内の政情不安により、3大会連続でワールドカップ不参加。前大会王者のウルグアイを除く4ヶ国で予選を行い、ブラジルが圧倒的強さで本大会出場を決めた。中北米では3ヶ国による予選が行われ、アメリカとハイチを退けてメキシコが出場権を得る。

 

アジアでは中華民国(台湾)と韓国、そしてFIFAに復帰した日本の3ヶ国が予選にエントリー。だが中華民国が辞退したため、日本と韓国で出場枠1を争うことになる。だが日本は韓国に完敗、W杯への道は遠かった。

 

こうして第2回大会以来となる16チームが揃ったが、前大会優勝のウルグアイと準優勝のブラジルを差し置き、絶対的な優勝候補と見られたのがハンガリーだった。ハンガリーは50年のポーランド戦で勝利して以来、今回の大会直前まで3年半で27戦無敗。引き分けも4つだけという驚異的なチームだった。

52年のヘルシンキ五輪では、4試合で18得点1失点という圧倒的強さで金メダルを獲得している。また53年にはホームで不敗神話を誇っていたイングランドを、聖地ウェンブリー・スタジアムで6-3と撃破し、世界を震撼させた。翌年にはイングランドブダペストを訪れ試合を行っているが、この時もハンガリーが7-1というスコアで返り討ちにしている。

50年に就任したグスタフ・セベシュ監督はその卓越した手腕で強力なチームを作り上げ、魔術のような美しいボール捌きと “MMシステム”  と呼ばれる戦術で欧州を席巻。「マジック・マジャール(魔術使いのハンガリー人)」と呼ばれ、恐れられるようになっていた。

その強力なFW陣は、驚異の左足を持つ怪物フィレンツェ・プスカシュ、「黄金の頭」と呼ばれるシャンドール・コチシュの両インナーと、トップの位置から深めに下がり、相手を引きつけながら二人を操るCFヒデクチの3人が担った。

さらには中央で攻守を支えるダイナモのボジグや、機敏でスピーディーな左サイドのチボール、そしてスイーパーもこなすGKのグロシチなど、強力なタレントを揃えたチームだった。

ハンガリーの好発進

大会は1次リーグと2次リーグが行なわれた前回より変更され、4組の予選リーグを勝ち抜いた8チームが決勝トーナメントを争う形式。しかしその内容は変則的で、リーグ戦ではシード2ヶ国・ノンシード2ヶ国を決め、シードとノンシードのみが対戦するという回りくどい形をとった。

シード国同士、ノンシード国同士は戦わないので、グループリーグ1ヶ国の対戦数は2試合。勝ち点で並んだ場合にプレーオフを行うという方式だった。さらにトーナメントの準々決勝では、片方の山に1位チーム、もう片方の山に2位チームを固めて対戦させるという、今では考えられない組み合わせがなされた。

優勝候補ハンガリーと同じ組に入ったのは、西ドイツ、トルコ、韓国の3ヶ国。このうちシードされたのは、ハンガリーとトルコ。トルコは欧州予選で強豪スペインと互角の戦いを演じ、本大会出場を果たしたのがシード国に選ばれた理由だった。反対に西ドイツはFIFAに復帰したばかり。まだ全国リーグもなく、アマチュアで編成されたチームの評価は低かった。

ハンガリーは初戦の韓国を9-0と粉砕。コチシュがハットトリックを記録し、プスカシュも2点を挙げた。ちなみに韓国はトルコにも7-0と惨敗し、初めてのワールドカップは苦いものとなった。続く第2節はハンガリー対西ドイツ。初戦でトルコを4-1と下した西ドイツは、ハンガリー戦を捨てゲームにして7人の選手を入れ替える。

 

ゼップ・ヘルベルガーの戦略

西ドイツを率いるゼップ・へルベルガーは、戦前からドイツ代表の監督を務め、知将と呼ばれた男だった。ヘルベルガー監督は、評価の低いチームを躍進させるにはフィジカルと持久力が重要だと考え、選手を鍛えるだけでなく、当時としては珍しいケアドクターを大会に帯同させた。

さらに他国に比べ技術に劣るという欠点を補うべく、体格を活かしたセットプレーを徹底的に練習。またチームの規律を重んじ、強烈なリーダーシップを持つ33歳のフリッツ・バルター を中心にチームを構成した。

こうしてチームの実力を冷静に見極めたへルベルガーは、リーグ戦の組み合わせが決まった時点で、2位通過でもいいと考えた。決勝トーナメントの組み合わせを考えても、明らかに2位通過の方が有利だったのだ。

そのため名ばかりのシード国トルコに負けるはずがないと考え、ハンガリー戦ではあえて真剣勝負を避けたのである。

ヘルベルガーの思惑通り、ハンガリーには3-8の完敗。コチシュに4得点の大暴れを許す。だがこの試合、ドイツDFがプスカシュに悪質なタックル。足に大怪我を負ったハンガリーのエースは、次戦以降の出場が危ぶまれた。

一方、1勝1敗でトルコと並んだ西ドイツは、プレーオフで7-2と余裕の勝利。予定通り2位通過を果す。

こうして準々決勝に勝ち上がったグループ1位の山には、ハンガリー、ブラジル、ウルグアイイングランドと優勝候補が集まった。かたや2位の山には西ドイツ、ユーゴスラビアオーストリア、スイスといった国が並んだ。

 

苦闘続く優勝候補

ハンガリー準々決勝の相手はブラジル。ブラジルは近年強豪として名乗りを上げてきたチームだが、そのプレー内容は荒く、過去のW杯でも負傷者や退場者が出るような試合を度々演じていた。そして土砂降りの中で行われたこのゲームでも怪我人が続出、「ベルンの戦闘」と呼ばれる大荒れの展開となった。

プスカシュは欠場したが、ハンガリーはヒデクチとコチシュの得点により、開始7分で2点のリードを奪う。しかしこの時点でヒデクチのパンツが破られるなど、すでに波乱の様相を帯びていた。

ブラジルがジャウマ・サントスのPKで1点を返すと、後半に入った60分にハンガリーもPKで追加点を挙げる。だがこの時、ハンガリーのトートがラフプレーを受け負傷。ほとんど動けなくなっていた。

66分にブラジルが1点返した後、ニウトン・サントスとボジグが乱闘を起こして両者退場。さらにヒデクチの背中を蹴ったブラジルのトッジも、イングランド主審アーサー・エリスによって退場を命じられる。その88分、チボールのクロスからコチシュがヘッドで決め、ハンガリーが勝利を確実にした。

こうして大荒れとなった試合は4-2で終了。勝者のハンガリーが準決勝進出を決める。だが負傷者・退場者が続出した両チームの諍いはこれで収まらず、試合終了後も更衣室で乱闘が続けられたという。

ハンガリー準決勝の相手は、前回王者のウルグアイ。この試合は事実上の決勝と呼ばれ、前の試合とは打って変わって、フェアでレベルの高いゲームとなった。またもプスカシュを欠いてしまったハンガリーだが、チボールとヒデクチの得点で、後半途中までウルグアイをリードする。

しかし76分、スキアフィーノのスルーパスから、オベルグがゴールを決めて1点差。さらに86分、この2人の同じようなプレーからウルグアイの同点弾が生まれ、試合は2-2の延長戦に入った。延長開始直後、三たびスキアフィーノのパスからチャンスが生まれ、オベルグがシュート。だがボールはポストに嫌われてしまった。

延長後半にはウルグアイの選手が負傷。治療で相手が一人少なくなったところにコチシュがヘッドで2得点を挙げ、ハンガリーが4-2の勝利。絶妙なプレーが随所で繰り広げられたレベルの高い試合を制し、ハンガリーは決勝へ進む。

一方の山では、西ドイツが準々決勝で難敵ユーゴスラビアを2-0で打ち破ると、準決勝では得意のセットプレーと主将バルターの2PKでオーストリアを6-1と撃破。へルベルガー監督の計画通り決勝進出を果たした。この試合、プレースキッカーを務めたバルターは全得点に絡む大活躍を見せ、弟オットマール・バルターも2得点を挙げている。

 

ベルンの奇蹟

第5回ワールドカップ王者を決める決勝は、7月14日ベルンのヴァンクドルフ・スタジアムに6万の観客を集めて行われた。激戦をくぐり抜けて決勝にたどり着いたハンガリーは、肉体的にも精神的にも疲労していた。だがこの大事な一戦には、怪我の癒えていないプスカシュが強行出場していた。

試合は西ドイツペースで始まったが、6分にハンガリーがカウンターで反撃。コチシュのシュートが相手DFに跳ね返されたところを、プスカシュが拾い左足を一閃。ハンガリーに先制点が生まれた。さらにその2分後には西ドイツのバックパスを、チボールが奪って追加点を挙げた。

わずか開始9分で優勝候補ハンガリーが2-0のリード。会場の誰もが、マジック・マジャールの勝利を信じて疑わなかった。しかしこのとき世界はまだ、決して諦めない ”ゲルマン魂” の凄みを知らなかった。怪我を負うプスカシュの動きは重く、チームの連動にも影響。西ドイツのつけ入る隙は十分にあった。

その11分、モーロックがシュートを決めて1点差。さらに8分後にはCKのチャンスを得る。F・バルターのカーブ回転を掛けたボールは、競り合うO・バルターとGKグロシチの間をすり抜け、FWラーンの足下へ。これをすかさず蹴り込み、西ドイツが同点に追いつく。

2-2で折り返した後半、ハンガリーが猛反撃を開始。しかしドイツはGKトゥレクの好守連発で防ぎ、ハンガリーの疲れを待った。そして84分、動きの鈍ったボジグを置き去りにしたシェーファーがクロス。それをラーンが決めて、ついに西ドイツが逆転を果たす。

だがその2分後、トートのスルーパスを受けたプスカシュが強烈なシュート、同点ゴールが決まったかに思えた。しかし線審の判定はオフサイド。プスカシュの得点は認められず、このまま試合は3-2で終了した。

これまで無敵と思われていたハンガリーが、伏兵の西ドイツに敗れるという番狂わせは世界を驚かせた。そしてこの決勝は、「ベルンの奇蹟」と呼ばれるようになる。

こうしてワールドカップ初優勝を成し遂げた西ドイツ主将のフリッツ・バルターは、引退を表明していた81歳のジュール・リメ会長から優勝杯を受け取った。

決勝前の3位決定戦を制したのは、ウルグアイを3-1と破ったオーストリア。大会得点王は、11ゴールを記録したコチシュが獲得している。

西ドイツを初優勝に導いたヘルベルガー監督は、62年のチリ大会まで代表の指揮を執った。そして監督の職を退いたあとは、指導者の育成に尽力。日本ではデットマール・クラマーの恩師として知られる。

マジック・マジャールは確実視されたW杯優勝を逃すも、その後も部類の強さを保ち続ける。しかし56年10月にハンガリー動乱が勃発。ソ連軍の介入で混乱する祖国をよそに、国外遠征中だったプスカシュやコチシュ、そしてチボールといった中心選手が西側に亡命。マジック・マジャールは解体となった。

プスカシュは亡命後の58年、ディ・ステファノが君臨していた名門レアル・マドリードに入団。レアルは両雄の活躍でUEFAチャンピオンズカップ5連覇を果たす。またプスカシュはスペイン代表にも請われ、62年のチリ大会に出場している。

rincyu.hateblo.jp

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