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サッカーの歴史や人物について

《サッカー人物伝》ロベルト・ファルカン(ブラジル)

 

「ローマの鷹」

広い視野と的確な戦術眼を持ち、巧みな配球でゲームを組み立てたエレガントなMF。また自ら飛び出してチャンスを作り、得点に絡むなど幅広い能力を見せた中盤のオールラウンダーが、ロベルト・ファルカン( Paulo Roberto Falcão )だ。

 

80年代前半に在籍したASローマ時代は、華麗なテクニックと洗練されたプレースタイルで観客を魅了。颯爽たる雄姿から「ローマの鷹」の異名を持つ。チームでは “走る指揮官” として中盤に君臨、クラブに41年ぶりとなるリーグ優勝をもたらし、サポーターから「第8代ローマ王」と讃えられた。

 

82年W杯では、ジーコソクラテストニーニョ・セレーゾとともに「黄金のカルテット」を形成。イタリアと激戦を繰り広げた末に敗れて優勝はならなかったが、その芸術的な輝きは大会の歴史に鮮やかな記憶を刻んだ。

 

ファルカンは1953年10月16日、ブラジル南部に位置するサンタカタリーナ州のアベラルド・ルスで、ポルトガル系の父親とイタリア移民の母の間に生まれた。生誕後まもなく南に隣接するリオグランデ・ド・スル州に移り、カノアス市で幼少期を過ごす。

クリスマスプレゼントでボールを贈られてからサッカーに熱中し、11歳のときにリオグランデ・ド・スル州の名門、インテルナシオナルの下部組織に入団。労働者の息子として慎ましい生活を送っていたファルカンは、練習場に通う電車賃を、割れたビンの収集で稼いでいたという。

ファルカンの秀でた能力は早くから注目を集め、72年には19歳でU-23代表チームに選ばれてミュンヘン・オリンピックに出場。しかしアマチュアで構成されたブラジルチームは、1敗2分けの最下位であっけなく1次リーグ敗退となった。

71年にインテルナシオナルのトップチームへ昇格。出場機会を得るのに少し時間が掛かったが、73年にレギュラーの座を獲得して34試合に出場。クラブのカンピナオト・ガウチョ(州選手権)優勝に貢献する。

チームはそのあともカンピナオト・ガウチョ連覇を続け、75年にはブラジレイラン(ブラジル全国選手権)でも優勝を果たす。若くしてチームの柱となったファルカンは、卓越したゲームメークで中盤を支配。優勝の立役者となり、選手権のシルバーボール賞に選ばれた。

翌76年もブラジレイランで6ゴールの活躍を見せ、連続タイトル獲得に貢献。77年はタイトル無冠に終わってしまったが、78年にカンピナオト・ガウチョ優勝。79年にはブラジレイランのタイトルを奪回し、選手権バロンドールに選出される。

常勝軍団のリーダーとなったファルカンは、78年、79年と2年連続でブラジル最優秀選手賞に輝き、79年には南米最優秀選手賞で3位。ブラジルを代表する選手となった。

80年にはコパ・リベルタドーレスの決勝へ進出。ウルグアイのナシオナルに敗れて南米初制覇は果たせなかったが、ファルカンのプレーは欧州からの注目を集め、セリエAの複数クラブからオファーが舞い込む。

最初彼に興味を示してきたのはACミランだったが、そのあと八百長事件の制裁を受けてセリエB降格。結局ASローマと契約を交わし、イタリアを祖国に持つ母親と妹を伴って海を渡った。

 

ブラジル代表のファルカン

ブラジルのフル代表には76年2月に初選出、アルゼンチンとの親善試合でデビューを飾った。同年12月には親善マッチのソ連戦で代表初ゴールを挙げ、77年2月から始まったW杯南米予選にも参加。本大会出場決定に貢献する。

しかし予選コロンビアとの試合後、体調の問題で合流が2日遅れたことを咎められ、コウチーニョ監督と激しく口論。予選終了後ファルカンは代表から外され、78年W杯・アルゼンチン大会に出場することが出来なかった。

それでもインテルナシオナルで高いパフォーマンスを保ち続け、79年5月の親善試合で2年2ヶ月ぶりの代表復帰。7月から始まったコパ・アメリカ(ホーム&アウェー方式)のメンバーにも選ばれる。

ファルカンは予選リーグのアルゼンチン戦、準決勝のパラグアイ戦に出場。だがパラグアイに2戦合計3-4と敗れ、大会3位に終わってしまった。このあとファルカンはイタリアのローマへ移籍し、再び代表から遠ざかることになる。

 

ローマの鷹

ローマでは母親の協力を得て1年でイタリア語を習得。デビューシーズンからチームの司令塔を務め、エレガントなプレースタイルと華麗なテクニックで「ローマの鷹」と呼ばれるようになる。

80-81シーズンはコッパ・イタリア2連覇に貢献。リーグ戦でもユベントスと優勝争いを演じたが、最終戦の直接対決で、疑惑のオフサイド判定(「トゥローネのゴール事件」)により引き分け。スクデットをあと一歩で逃してしまう。

実のところASローマは首都を本拠地とするチームでありながら、3大クラブ(ユベントスインテルミラン)の後塵を拝し、これまであまりタイトル争いに加わることはなかった。

だが前年の79-80シーズンに、スウェーデン代表とACミランの名選手だったニルス・リードホルム監督がローマの指揮官に復帰(3シーズンぶり2度目)。チームを11年ぶり3度目となるコッパ・イタリア優勝に導いていた。

ミランをリーグ優勝させた経験を持つリードホルム監督は、当時最先端のゾーンディフェンスを用いてローマを指揮。ファルカンブルーノ・コンティ、ロベルト・プルッツォ、カルロ・アンチェロッティフランコタンクレディと戦力も整い、80年代前半「マジカ・ローマ」の黄金期が築かれる。

82-83シーズン、ローマは2年前の雪辱を果たし41年ぶりのスクデットを獲得。この偉業達成の瞬間、すべてのローマ市民が歓喜に沸いた。

 

サンターナ監督、最後のピース

80年に就任したテレ・サンターナ監督率いるブラジル代表は、ジーコソクラテス、T・セレーゾ、エデル、ジュニオールレアンドロといった強力なタレントを揃え、81年から16勝4分けと負けなしの強さ。82年のW杯では優勝候補の筆頭と目された。

しかし南米予選の最終戦ボランチのT・セレーゾが累積警告、W杯初戦で出場停止となってしまう。そこでサンターナ監督は、ローマで活躍する万能MFファルカンを約2年半ぶりに代表へ招集。本番に向けて万全の体制を整えた。

82年6月、Wカップ・スペイン大会が開幕。1次リーグ初戦のソ連戦で、T・セレーゾの代わりにボランチを務めたファルカンは、中盤の底から緻密な配球でゲームメーク。ジーコソクラテスと息を合わせ、時には大胆な攻め上がりで相手を苦しめて、2-1の逆転勝利に重要な役割を果たした。

第2戦のスコットランド戦ではT・セレーゾが復帰。サンターナ監督は引き続きファルカンを起用し、それまでの4-3-3システムから、ボランチ2人を並べるスクエア型へと布陣を変更。ここに4人の高い技術と創造性でピッチにアートを描く「クワトロ・オーメン・ジ・オロ(黄金のカルテット)」の中盤が誕生した。

試合は18分に先制を許すも、33分にジーコのFKで同点。後半はもはやブラジルのための時間。流麗なパス回しと果敢なアタッキングでフィールドを制圧し、たちまち3-1と逆転する。87分にはソクラテスのパスからファルカンがポスト際に蹴り込んで4点目、ゴールショーの最後を飾った。

第3戦は、初出場のニュージーランドファルカンのゴールなどで4-0と一蹴。全勝で2次リーグに勝ち上がったブラジルは、天才児マラドーナ擁する前大会王者アルゼンチンと戦う。

ゲームはブラジルが中盤を支配。開始11分、エデルのFKがクロスバーに跳ね返されたところを、詰めていたジーコが押し込み先制。さらに後半の66分、ジーコのスルーパスからファルカンが鮮やかに抜け出し、その折り返しをセルジーニョが決めてリードを拡げた。

さらに75分にもブラジルが3点目。すると、ままならない状況にマラドーナが苛立ちを募らせ、DFバチスタの腹を蹴って一発退場、精神的未熟さを露呈してしまった。試合終了間際ラモン・ディアスに1点返されるも、ブラジルは南米のライバルに3-1の完勝を収める。

 

黄金のカルテット vs ゴールデンボーイ

2次リーグの2戦目は、準決勝進出を懸けたイタリアとの直接対決。得失点差で下回るイタリアはキックオフから積極的な攻撃を仕掛け、開始5分に「ゴールデンボーイパオロ・ロッシのヘッドで先制。だがその7分後、ジーコとのパス交換からソクラテスが同点ゴールを決める。

だが25分、T・セレーゾがゴール前で出した不用意な横パスを、ロッシに奪われ痛恨の失点。1-2とリードされて前半を折り返す。

追いつきたいブラジルは後半に猛攻。その68分、Pエリア外でジュニオールのパスを受けたファルカンが、中央に持ち込み豪快な左足シュート。名手ディノ・ゾフの右を破り、同点弾を叩き出した。

このまま引き分ければ準決勝進出となるブラジルだが、逆転を狙い攻撃を続行。そこからイタリアは反撃の機会を得て、74分に右CKのチャンス。

コンティの蹴ったキックのこぼれ球をタルデリがシュート、それをロッシがコースを変えてハットトリックでの勝ち越し点。形勢は逆転してしまった。

残り15分に望みを懸けるブラジルだが、冷静沈着なファルカンオフサイドトラップにかかるなど、焦りの色が隠せない。頼みのジーコも「殺し屋」ジェンティーレの密着マークに封じられ、終盤にT・セレーゾが放った決定的なヘディングシュートは、GKゾフの好守に阻まれる。

結局ブラジルは2-3と敗れ、大会で一番の輝きを見せた「黄金のカルテット」は2次リーグで姿を消す事になった。それでもファルカンはその顕著な活躍により、優勝したイタリアのロッシに続くW杯シルバーボール賞へ選ばれ、南米最優秀選手賞では2位(1位はジーコ)となった。

 

第八代ローマ王

83-84シーズン、ローマは国内リーグ王者としてチャンピオンズカップに出場。準決勝の第1レグではスコットランドダンディー・ユナイテッドに0-2と敗れるものの、ホームでの第2レグで3-0の鮮やかな逆転勝利を収める。

しかし決勝ではリバプールPK戦で敗れ、悲願のビッグイアー獲得は果たせなかった。リーグ戦も2位に終わり連覇を逃すが、コッパ・イタリアでは3年ぶりの優勝を果たす。

「マジカ・ローマ」のリーダーとして中盤に君臨したファルカンの活躍は、「(古代ローマ初期王制時代に)ローマ市を統治した7人の王の業績に匹敵する」と称賛され、「第八代ローマ王(ロタボ・レ・ディ・ローマ)」の呼び名が贈られた。(よく「ローマ皇帝」と混同されるが、帝政時代の皇帝インペラトルでは意味合いが変わってしまうのでそれは間違い)

しかしこのシーズン限りでリードホルム監督が退団。セリエAに復帰した古巣のACミランへ移り、「マジカ・ローマ」の勢いも失われていく。

 

Wカップ・メキシコ大会

84-85シーズン、ファルカンは膝に重傷を負い手術のため戦線を離脱。4試合1ゴールの成績に終わり、大黒柱を失ったチームはリーグ7位に沈んだ。

また契約の問題でクラブと揉め、シーズン終了後の85年8月にローマを退団。5年ぶりにブラジルへ戻り、サンパウロと契約を結んだ。サンパウロでは怪我の影響により充分な活躍は出来なかったが、サンパウロ州選手権で貴重なゴールを挙げて優勝に貢献している。

86年には再就任したサンターナ監督に呼ばれ、約4年ぶりに代表へ復帰。2度目となるWカップ・メキシコ大会に出場する。

しかし故障を抱えていたファルカンはベンチスタートとなり、初戦のスペイン戦、第2戦のアルジェリア戦は途中出場。第3戦の北アイルランド戦で膝を痛めていたジーコが復帰すると、ファルカンは出番を失ってしまう。

ブラジルは準々決勝でプラティニ擁するフランスに敗れ、ベスト8で敗退となった。大会終了後、ファルカンは33歳で現役引退を発表。実質5年間の代表歴で36試合に出場、9ゴールを記録している。

 

監督ファルカンの業績

90年8月からブラジル代表監督に就任。91年にチリで開催されたコパ・アメリカでは決勝へ進むも、アルゼンチンに敗れて準優勝に終わり、1年で退任となった。

91年にメキシコのクラブ・アメリカ、93年には古巣インテルナシオナルを指揮したあと、94年4月に日本代表監督へ就任する。

ファルカン監督は積極的に若手を起用し、ブラジル流の浸透を図るが、前任オフトとの大きなギャップや要求の高さに選手がついてゆけず、課題未消化のまま広島のアジア大会で韓国に敗れ準決勝敗退。日本サッカー協会はコミュニケーション不足を理由に彼との契約更新を行わなかったため、ファルカン・ジャパンは8ヶ月の短命に終わった。

そのあとテレビ解説者を長く務め、11年からはブラジル国内のクラブ監督を歴任。12年にASローマの殿堂入り、16年にはイタリアサッカーの殿堂入りを果たしている。