00年9月、シドニー五輪代表がベスト8の成績を残すと、トルシエはすぐにA代表を率い10月に開催されたアジアカップ・レバノン大会に臨んだ。この大会にセリエAのローマに移籍したばかりの中田英寿は参加しなかったが、怪我で代表を離れていた小野伸二がチームに復帰する。
日本の積極的なサッカーは、大会出場国の中でも群を抜いていた。名波浩を起点としスペースへ駆け上がっていく攻撃はダイナミックで、中村俊輔のスルーパスやプレースキックも冴え渡った。
日本は開幕戦で前回優勝国のサウジアラビアを4-1と一蹴すると、2戦目でも高原直泰と西澤明訓のWハットトリックなどでウズベキスタンを8-1と圧倒。早々と決勝トーナメント進出を決める。そして次のカタール戦では主力のほとんどを休ませ、1-1と引き分けて余裕のグループ首位突破を決める。
準々決勝では、日本が試合序盤にイラクの先制点を許してしまう。だがその直後、日本は相手ゴール近くでフリーキックのチャンスを得た。キッカーはもちろん、FKの名手である中村が務めた。
その中村がボールを蹴った先は相手ゴールではなく、誰もいない真横の方向だった。そのスペースに名波が後ろから走り込み、ダイレクトボレーで合わせて同点弾。そのあと日本は逆転し、4-1と得点を重ねて実力の差を見せつける。
名将ボラ・ミルティノビッチ監督率いる中国との準決勝で、日本は厳しい戦いを強いられる。両チームが撃ち合いとなり、日本は苦戦したものの、結局3-2と逃げ切って決勝進出を決めた。
決勝の相手は、日本がグループリーグでも戦ったサウジアラビアだった。サウジは初戦の大敗後に監督を交替し、チームを立て直して決勝に臨んできた。守備を強化したサウジに日本は攻めあぐねるが、中村のフリーキックから望月重良が得点を挙げ1-0とリードする。
その後のサウジの攻撃は激しかったが、森岡隆三を中心とした守備陣の粘りと、GK川口能活の好セーブで無失点に押さえ込み勝利を手にする。日本にとって2アジアカップ2度目の優勝であり、アウェーの笛が吹かれるとされる中東開催の大会では、東アジア勢初の栄冠となった。
アジアカップのあと日本代表はヨーロッパ遠征を行い、当時最強のフランスチームと親善試合を行なう。トルシエは母国の強豪に、自ら育てたチームを自信を持って当てた。だが激しい雨とぬかるんだピッチという悪条件に、日本選手はパフォーマンスの発揮を阻まれてしまう。
反対にジダンやアンリなど最高クラスの選手を揃えたフランスは日本を翻弄し、0-5とトルシエのチームを一蹴。日本でまともに戦えたのは中田英だけという体たらくで、この試合は『サンドニの惨劇』と呼ばれるようになる。
フランス戦惨敗の反省から、トルシエはチームに守備寄りの修正を施し、1ヶ月後のスペイン遠征に臨む。日本はスペイン相手に波戸康広、服部年宏という守備能力の高い両サイドを起用し、伊東輝悦を加えた3枚ボランチという守備的布陣。その結果日本は安定した守備を見せ、スペイン相手に0-1と健闘した。
そして01年6月にはW杯のプレ大会となる、日韓コンフェデレーションズカップに臨んだ。日本は開催国でもあったが、アジア大陸チャンピオンとしての参加だった。そして初戦のカナダ戦では、小野がフリーキックを決めるなど3-0の快勝を収める。
続くカメルーン戦でFWに起用されたのは、負傷した高原に代わって招集されたばかりの鈴木隆行だった。トルシエは鈴木の眼力の強さを見て、彼を先発に抜擢したのだ。カメルーンはエムボマ&エトーの強力2トップを擁するチームだったが、日本は終始ゲームを支配し優勢に試合を進めた。
鈴木も期待に応えて2得点を挙げ、日本はベストゲームと言える内容で2-0の勝利。勝利の立役者となった鈴木は、この活躍により代表レギュラーへ定着していった。
これでグループリーグ突破を決めた日本は、3戦目を主力温存のブラジルと0-0で引き分け、準決勝でオーストラリアと対戦する。試合は豪雨の中の戦いとなった前半終了直前、日本は相手ゴール前でFKのチャンスを得る。
すると中田英と小野がボールの後ろに立ち、相手の築く6枚の壁へ向かった。そこへ中田英が右足を振り抜き、壁の足元を抜けたグラウンダーのシュートが決まる。滑りやすいピッチを計算に入れた、頭脳的なFKだった。
こうしてオーストラリアを1-0と打ち破った日本は、決勝でフランスと戦うことになる。フランスはジダンとアンリの二枚看板が不在だったが、彼ら以外ほとんどの主力を揃えていた。だがこの決勝を前に、中田英が代表を離れることになる。
このときセリエAはリーグ戦の真っ最中で、しかも中田英の所属するローマは優勝目前だった。彼はグループリーグ2試合のみという条件でこの大会に参加していたのだが、トルシエが無理矢理彼を引き留めていたのだ。
トルシエはなおも中田英を引き留めようとしたが、本人の意志と日本サッカー協会の判断でローマへ戻っていった。これ以降トルシエは、公然と中田英を批判するようになる。
コンフェデレーションズカップの決勝は、Wカップのメイン会場となる横浜国際総合競技場で行なわれた。日本は力の勝るフランスに対し、粘り強い守備で得点を許さなかった。30分、フランスの中盤から日本DFの裏へロングボールが蹴り込まれる。だが一瞬前に日本の3バックはDFラインを上げ、相手FWをオフサイドポジションへ置き去りにした。
しかし中盤から駆け上がってきたボランチのヴィエラが、そのオフサイドラインを突破。裏のスペースへ抜け出した。フリーとなったヴィエラは頭でボールを浮かし、キーパーをかわしての先制点を挙げる。
日本はヴィエラにフラット3の弱点を突かれてしまい、0-1の敗戦。だが地元開催であるものの、準優勝の好成績は大きな収穫と言えるものだった。
このコンフェデレーションズカップでは、新戦力として鈴木のほか戸田和幸もボランチに抜擢されている。これまで戸田は、五輪代表など何度もトルシエジャパンに招集されていたが、専ら控えとしての扱いだった。
戸田はトルシエを嫌い、「俺はアイツのやり方が好きじゃない」「サブにまともに練習させないから、代表に呼ばれるたびに下手になる」など、公然と批判を繰り返していた。
だがトルシエは鈴木や戸田のような、強いメンタリティを持つ選手を好んだ。コンフェデ杯で闘志あふれる守備を見せた戸田は、以降代表ボランチの定位置を獲得。トルシエに「私のデシャンだ」とさえ言わせるようになる。
トルシエはミスを犯した選手の個人名を挙げ敗戦の責任を転嫁したり、協会スタッフを挑発するなど、日本人の感覚では理解出来ないような指導者だった。だがチーム作りに長け、選手を奮起させ能力を伸ばす手腕には定評があった。
そのため戸田のようにトルシエを毛嫌いする選手がいる一方、ワールドユース準優勝を果たした「黄金世代」からは信頼が厚かったとされる。
コンフェデレーションズカップ終了後、若手選手の海外移籍が活発となる。稲本がアーセナル、小野がフェイエノールト、西澤がボルトンへの移籍を決めると、高原のボカ・ジュニアーズへの移籍も発表された。さらに秋には、川口がイングランド2部のポーツマスへ移籍。GKとしては初めての海外挑戦だった。
地元開催でWカップ予選のない日本は、精力的に強化試合を行なった。キリンカップではパラグアイに2-0、ユーゴスラビアに1-0と勝利を収め、イギリスで行なったナイジェリア戦では2-2で引き分けるという好勝負を演じた。そしてトルシエは強化の締めくくりとして11月にイタリアを日本に招き、埼玉スタジアムで親善試合を行なう。
この試合には中田英も招集されていたが、トルシエは彼を先発から外す。表向きはパルマへ移籍した中田英の出場機会が減っており、コンディション不足が理由だと説明された。だが一方では、コンフェデレーションズカップ以来の確執があるのではないかと勘ぐる向きもあった。
試合は開始10分、日本が稲本のゴールで先制する。No,1キーパーのブッフォンや、DFカンナバーロとネスタといった鉄壁の守りを誇るイタリアだが、来日の翌日に試合という強行日程で選手の体調は良くなかったという。
そんな状況でも試合巧者のイタリアは日本の追加点を防ぎ、後半にドニの同点弾が決まって-1の引き分け。イタリアが万全ではなかったにしろ、日本は強豪と互角に戦い、チームはトルシエの考える完成形に近づいていた。