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サッカーの歴史や人物について

ワールドカップの歴史 第17回日韓大会-前編(2002年)

「初の共催大会」

 

 

日本の選択 初の共催大会へ

サッカービジネスの世界拡大構想を抱くFIFAは、94年のW杯開催地が「サッカー不毛の地」アメリカに決まると、その後はアジアへの展開を求めた。そんなアヴェランジェ会長の呼びかけに応えたのが、国内リーグのプロ化を進めていた日本である。

 

日本は89年に開催地立候補を正式表明、91年には招致委員会を発足する。そして93年に会場となる自治体候補が決定するなど、着々と招致への準備が進められた。当初立候補を予定していた中国、サウジアラビアが招致を断念。このまますんなり日本開催が決まるかと思えた。

 

そんなとき、韓国が開催地立候補の意思を表明。現代グループ一族の鄭夢準チョン・モンジュン・大韓協会会長がイニシチアブを取り、激しい招致活動が繰り広げられる。鄭夢準は94年にFIFA副会長の職を勝ち取ると、その肩書きを利用して、投票権を持つ各国理事に直接のアプローチ。遙かにリードする日本を追い上げた。

 

そのなりふり構わないやり方はFIFA理事の不評を買うが、韓国はそれなら共同開催をと欧州の理事たちに提案。大会規定に無い共催案ではあったが、これが欧州の反体制派に受け入れられ、日本を支持していたアヴェランジェ会長は劣勢に追い込まれる。

 

アヴェランジェ会長は己の面目を保つため、最終的にこの共催案を、自身の希望として日本に提示する。ここに至ってもはやFIFAの大勢は決しており、後手に回った日本はその提案を飲むしかなかった。こうして日本が共催案を受諾、96年のFIFA総会では満場一致で日韓大会が決定した。

 

FIFA内での影響力が薄まっていたアヴェランジェは、一連の開催地決定を巡る不手際もあり98年の会長選を辞退。24年に及ぶ長期政権のピリオドを打った。後任には、アヴェランジェの右腕だったブラッター事務総長が、UEFA会長のヨハンソンを選挙で破って8代目FIFA会長に就任する。

 

 

大会前の盛り上がり

大会には198に及ぶ国と地域がエントリー、各地で予選が行なわれ32の出場チームが決まった。強豪国の中では、前回のフランス大会で4位となったオランダが予選敗退を喫している。そして今大会優勝の有力候補に挙げられたのは、前回王者のフランスとアルゼンチンだった。

フランスは「新将軍」ジダンを中心としたチームでユーロ2000を制覇。02年にはアンリ、トレゼゲ、シセと3人の欧州リーグ得点王が生まれ、出場国随一のFW陣を擁していた。

また南米の奇才マルセロ・ビエルサ監督が率いるアルゼンチンは、前大会からの主力メンバーが円熟味を増し、W杯南米予選ではブラジル戦の1敗に抑えるという圧倒的強さを見せた。

そして大会前から「イングランドの貴公子」デヴィッド・ベッカムが人気を集め、日本で大フィーバーが巻き起こる。大会の本番直前には、遅れてやって来たカメルーンチームと、山奥のキャンプ地・中津江村との交流がマスコミに取り上げられ話題となっている。

 

セネガルの大金星

第17回ワールドカップ・日韓(コリア / ジャパン)大会は02年5月31日、ソウルのワールドカップ・スタジアムで開幕した。開幕戦となったのは前回優勝国のフランスと、ブルーノ・メツ監督率いるセネガルとの試合だった。

大会連覇を狙うフランスだが、この初戦の先発メンバーにジダンの名前はなかった。ジダンは大会直前に行なった韓国との親善試合で左大腿部を負傷、予選グループでの出場は難しい状態となっていた。それでも強力なタレントを各ポジションに揃えるフランス、新顔のセネガルは簡単な相手のはずだった。

しかしほとんどの選手がフランスでプレーするセネガルは、持ち味のスピードに加えアフリカらしからぬ組織力で対抗。司令塔不在でフランスの攻撃がもたついた30分、セネガルが中盤でボールを奪い速攻、ディウフのクロスからB・ディオプの先制点が生まれた。

フランスは反撃を試みるも、アンリ、トレゼゲジョルカエフらのシュートはことごとく外れ、ついに得点が生まれることなく試合は終了。初出場のセネガルは、開幕戦で優勝候補のフランスを1-0で下すというサプライズを起こした。

 

王者フランスの敗退

いきなりの敗戦を食らったフランス。第2節の対戦相手は、南米の古豪ウルグアイだった。フランスは調子の上がらないジョルカエフに代わり、ジダンと同じ司令塔タイプのミクーを先発起用。彼を起点に攻撃を組み立てた。

だがゴール前を固めるウルグアイの守備を崩せず、試合はスコアレスドローに終わる。しかも前半25分にアンリがラフプレーで退場、次戦は出場停止となってしまう。

予選敗退の危機に追い込まれたフランス、最終節に望みを懸けてデンマークと戦った。この危機的状況にジダンが強行出場、その太股には幾重にもテープが巻かれていた。しかし積極的に攻撃を仕掛けるフランスに、デンマークはカウンターで反撃する。

そして20分にはデンマークが先制。67分にも追加点を決められ、反撃及ばず0-2の敗戦。王者フランスのプライドは打ち砕かれた。

無理を押して出場したジダンは、負傷した足を踏ん張れずにトラップ失敗、前のめりに転倒するなど屈辱的な姿を見せた。強力なFW陣を誇ったフランスだったが、1点も奪えずにグループ最下位で大会を去って行った。

デンマークは、エースのトマソンが予選リーグ4得点と大活躍。A組1位突破の原動力となった。セネガルは1勝2分けの2位、初出場でベスト16入りを果たす。レコバフォルランなど攻撃のタレントを擁して3大会ぶりの出場となったウルグアイだが、勝利を挙げられずに3位敗退で終わってしまった。

 

ブラジル「3R」の大爆発

B組のスペインは、期待外れに終わった前回の借りを返すかのように攻撃陣が絶好調。ラウルやモリエンテスの活躍でパラグアイを3-1、南アフリカを3-2、スロベニアを3-1と撃破、全勝でグループ1位通過を決めた。

2位となったのは、1勝1敗1分けのパラグアイ。91年にユーゴスラビアから独立。初出場を果たしたスロベニアだが、監督に反抗した主力選手が追放処分。空中分解したチームは3戦全敗で最下位に沈んだ。

C組のブラジルは前回の準優勝国ではあったが、度重なる監督交代騒動もあり、チームは迷走していた。そこで01年7月には、規律を重んじるフェリペ・スコラーリが監督に就任。様々な問題を抱えながら、ブラジルはなんとか南米予選を突破する。

まとまりに欠け、決して前評判の高くなかったブラジル。だが本大会に入ると、比較的楽なグループでカナリア軍団自慢の “3R” が大爆発する。トルコ、コスタリカ、中国を相手にロナウドが4得点、リバウドが3得点、ロナウジーニョもPKで1得点を挙げ、3戦全勝の1位でベスト16に進んだ。

1勝1敗1分のトルコとコスタリカは勝ち点で並んだが、得失点差でトルコが2位となった。初出場・中国のボラ・ミルティノビッチ監督は、過去4大会連続でそれぞれ違う国を決勝トーナメントに導き「ボラマジック」と呼ばれていた。だが今大会は1得点も挙げられず、3戦全敗の最下位。衰えを感じさせた。

 

ヒディンク・マジック発動

ホスト韓国は難敵揃いのD組に入り、予選突破を悲観する声もあった。大会の1年半前に代表監督へ就任したヒディンク監督は、多くのテストマッチを重ね急ピッチで代表の強化を進める。また年功序列の韓国社会で萎縮しがちな若手の意識を改革、ベテランと意思疎通できるチームに変えた。

第1節は東欧の古豪、ポーランドとの対戦。この試合の韓国は、ヒディンクが強化した機動力でポーランドを圧倒。大方の予想を裏切り2-0の快勝を収めた。これは韓国にとって、通算6度のW杯出場で15試合目にしての初勝利となった。

続く第2節ではアメリカに先制を許すも、ヒディンク監督は次々に攻撃の選手を投入して反撃。終盤に差し掛かった78分、途中出場した安貞桓アン ジョンファンのゴールでついに追いつくと、選手たちはサッカーと関係のないショートトラック・パフォーマンスで喜んだ。

第3節は強豪ポルトガルとの対戦。4大会ぶりの出場となるポルトガルは、ルイス・フィーゴルイ・コスタジョアン・ピントなど「黄金世代」がピークを迎え、優勝候補の一角にも数えられていた。だが開始27分、柳想鐵ユ サンチョルをスライディングで倒したピントが一発レッド。ポルトガルは早い時間で数的不利となってしまった。

さらに66分、ベトがこの日2枚目のイエローで退場処分。9人となったポルトガルは劣勢に追い込まれる。その4分後、李栄杓イ ヨンピョが左サイドでクロスを上げると、朴智星パク チソンが胸と右脚でトラップ。そのままDFをかわすと素早く左脚でシュート、鮮やかなゴールが決まった。

こうして1-0と勝利した韓国は、2勝1分の1位でベスト16入りを果たす。アメリカは第1節でポルトガルを3-2と撃破、1勝1敗1分けで2位通過を果たした。ポルトガルポーランドに4-0と勝利を収めたものの、実力を発揮しきれずに大会を去って行った。

 

「闘将」オリバー・カーン

E組のドイツは、前大会で常連のベテランたちが退いた後、ユーロ2000でグループステージ最下位となり敗退。W杯欧州予選も初めてプレーオフに回るなど、近年は低迷が続いており、いつになく前評判は低かった。そこでルディ・フェラー監督は、大会前に異例となる現役代表キャプテンの交代を行なう。

新主将に任命されたのは、欧州屈指のGKで「闘将」と呼ばれるオリバー・カーン。フェラー監督は、彼の持つ激しい闘争心とリーダーシップに期待をかけたのだ。

第1節の対戦相手は、サウジアラビア。エース不在と言われていたドイツだが、新鋭FWクローゼが頭だけでハットトリックを達成。バラックヤンカーら期待の選手もゴールを決め、8-0の記録的大勝を収めた。

続くアイルランド戦は、終了間際にロビー・キーンのゴールで追いつかれて1-1と引き分け。それでも最終節はカメルーンに2-0と危なげなく勝利、順調に1位通過を決めた。

アイルランドは若手キーンの活躍で2位を確保し、エムボマエトーの新旧2トップを擁したカメルーンは3位に終わってしまった。

 

ベッカムのリベンジ

強豪4ヶ国の組み合わせで「死のグループ」と呼ばれたF組の中でも、一番注目されたのがイングランドとアルゼンチンの試合だった。

4年前の大会ではシメオネに挑発されて一発退場となり、敗戦の戦犯扱いをされたイングランドベッカム。だが翌年のチャンピオンズリーグ決勝、CKで大逆転劇を演出。W杯欧州予選では最後にFKを決めてイングランドを本大会出場に導くなど、チームを牽引するキャプテンに成長していた。

第1節、イングランドスウェーデンと1-1で引き分け。アルゼンチンはナイジェリアに1-0と勝利した。そして第2節、イングランドとアルゼンチンは札幌ドームで相まみえることになった。大会屈指の攻撃力を誇るアルゼンチン、イングランドは泥臭いくらいの守備で対抗した。

ピンチを凌ぎながら反撃の機会を窺うイングランドは、25分にオーウェンがシュートを放つも、これは右ポストに弾かれてしまう。

それでも43分、ゴール前の攻防からオーウェンがPエリアで引っ掛けられ、PKを獲得。するとキッカーのベッカムが助走から右脚を振り抜き、4年前の汚名返上となるゴールを決めると、観客席に向かって感情を爆発させた。

 

アルゼンチンの誤算

先制されたアルゼンチンは、後半頭からベロンに代えてアイマールを投入。60分過ぎにもバティとキリゴンザレスに代え、クレスポクラウディオ・ロペスを送り出して反撃を試みる。それに対しイングランドは、CBのファーディナンドとキャンベルを中心にゴール前を固め、集中した守備で相手の攻撃を跳ね返した。

こうして激しい攻防戦が繰り返された試合は、イングランドがゴールを守り切り1-0で終。試合終了後、ベッカムシメオネに歩み寄り、ノーサイドの握手を求めた。

第3節、イングランド対ナイジェリアの試合は0-0の引き分け。アルゼンチン対スウェーデン戦も1-1の引き分けとなる。その結果2チームが勝点で並ぶも、総得点でスウェーデンが1位、イングランドが2位で決勝トーナメントに勝ち上がった。

自慢の攻撃を封じられてしまったアルゼンチンは3位に沈み、フランスに続いて優勝候補が予選グループで散っていった。

 

日本 初のベスト16進出

G組はアギーレ監督率いるメキシコが好調、クロアチアエクアドルに連勝し、早々と予選突破を決め結局1位となった。イタリアはエクアドルに勝利した後、クロアチアに敗戦、予選突破は最終節に持ち込まれた。だが最終節メキシコに先制され終盤まで0-1、絶体絶命の危機に追い込まれる。

しかし85分、トッティに替わり途中出場したデル・ピエロが起死回生の同点ゴール。イタリアは辛うじて2位で予選突破を果たした。

H組では2勝1分けで日本が1位。ベルギーが1勝2分けの2位でベスト16入りを果たし、チームの内紛で揺れたロシアは3位敗退となった。

こうして予選リーグの全日程は終了。決勝トーナメントの組み合わせは、韓国ーイタリア、スペインーアイルランドアメリカーメキシコ、ドイツーパラグアイ、日本ートルコ、セネガルスウェーデン、ブラジルーベルギー、イングランドデンマークとなった。

 

rincyu.hateblo.jp

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